躊躇いながらも惚れ薬を使っちゃいました
少女漫画に出てきそうな可愛らしい小瓶。その中にはカプセルが一錠入っている。
「ただのサプリメントみたいだけど」
説明書に目を通す。一錠で一回分、使用したい相手に飲ませれば効果は一週間続いて、それ以降は弱まっていく、と。その期間は最長で三ヶ月、最短で次の日。飲ませた後に相手の身体に触れればいいと書いてある。難易度高いかも。注意、溶けると苦味があります……ってますます難関。甘ければよかったのに。あ、苦いならコーヒーとかに……ていうか、胡散臭い。アルバイト代が出て初めての買い物がこれか。
偶然見つけた惚れ薬。最近好きな人がいて、つい買ってしまった。これ、どんなタイミングで使えばいいの?とりあえずお守りとして持っておこう。可愛いし。
あ、そろそろ出なきゃ。
「じゃあ行ってきまーす。ご飯いらないから」
お母さんの返事も待たず、家を出た。
「七時半頃のお届けになり、あ、かしこまりました」
宅配ピザは雨の日に繁盛するから頑張ってね、って店長が言ってたけど、本当だった。しかも今日は日曜日。はっきり言って、戦争だ。
今は五時を過ぎたばかり。そうそう、普通、二時間半も待てないよね。今のお客さんみたいに諦める人は少なくはなかった。でも「いいよ」とあっさり了承する人の方が圧倒的に多かったのに驚いた。
受話器を置き、直ぐ様洗い場に戻る。新人で雑用しか出来ないにも関わらず、忙しさは他の従業員と同じくらいだって思った。こんなこと先輩達に言ったら怒られそうだけど。
自動ドア越しに見える景色は五時とは思えないほど暗く、街灯に照らさせる雨の勢いはどんどん増しているように思えた。
「あがりは何時?十時?」
配達の準備をしている木瀬君がぶっきらぼうに言う。私に言ってくれたと思ってチラリと木瀬君を見るけど、こっちを向いているわけではなかった。自意識過剰だったかも、と顔が赤くなる。
「聞いてるのか、コジカ」
「オジカです!おーじーか。そうです、十時です」
聞いてきた癖に木瀬君は何も言わずに配達へと向かった。
なんだ自意識過剰じゃなかったじゃん。ネームプレートに目をやる。小鹿奈々。どう見たってコジカナナだよね。オジカって最初から読んでくれる人はいないから、マジックで「おじか」と付け足しておいた。お母さんは「名字は間違われやすいけど、奈々なら誰にでも読めて、呼びやすくて、いいでしょ」と言う。それなのにーー
「コジカちゃん!ピーマン減ったから切っといて」
「それの前にさ、コジカ、トッピングお願い」
「あ、電話!コジカお願い」
皆してコジカ、コジカ、コジカって!お母さん!お母さんの思いは皆に伝わってないよー!
「じゃあすいません、あがりまーす」
自動ドアを出ると雨は弱まってきているものの、歩道の大半は水溜まりが出来ている。跳ね返りは強いし、覚悟して帰らなきゃ。
黒い車が目の前に止まる。一瞬お父さんの車かと思ったけど、開けられた窓の向こうから聞こえたのは「乗れよ」と、あの、ぶっきらぼうな声だった。
車、持ってるんだ。流石大学生。何か大人。
遠慮したものの、木瀬君は退かなかった。「休憩時間がなくなるから早く乗って」と言われ素直に乗った。
「前、奢ってくれましたよね、コーヒー」
そのお返しと送ってもらうお礼です、と缶コーヒーをドリンクホルダーに入れる。乗せてもらう前に自動販売機で買ったものだった。ささやか過ぎるけど、タダで乗る女だと思われたくないし。
「別にいいのに」
そこからは会話がなかった。喋りはしたけど「家は小学校の近くなんですけど」とか「下がコンビニのマンションです」とか会話と呼べるものではなかった。
横顔を盗み見る。やっぱり格好いい。鋭い目、高い鼻、少しパーマのかかった髪。基本的に無表情なのもあって最初は怖そう、というイメージが強かったけど、実は優しい人なんだって気付いた。それから、私の片想いは始まったんだ。
「コジカ」好きな人の声は私の耳を優しく撫でる。まだ家までは距離があるし、何事かと胸が高鳴る。
「コーヒー開けといて」
「あ、はい」
何だそんなことか。呼ぶ声があまりにも優しく甘かったから、思わず何事かと期待してしまった。そんな自分が恥ずかしくて顔が熱くなる。
プルタブを起こす指が一瞬止まった。
ーーコーヒーって苦いよね。今、こっち見てないよね。
いや、駄目。あれはお守り。お守りなんだから。
指に力を込めるといい音がした。
今日もシフトが入っていた。高校から直行する。木瀬君も夜から来る。考えるだけで呼吸が苦しくなる。
ーーどんな顔をして会えばいいの?
結局昨日、惚れ薬を入れてしまった。木瀬君が缶コーヒーを口にした後、降りる間際にふらついたふりをして手に触れてみた。実行してから恥ずかしくなって、逃げるように降りたから反応は確認していない。
男らしい大きな手の感触や温もりが、まだ私の中から抜けきれていない。どうしよう。緊張する。
「おはよーございます」
木瀬君だ。
あっという間に夜になってしまった。今日は殆ど注文が無く、はっきり言って暇だった。木瀬君が来たら帰っていいよと店長に言われていた。
「あ、お、おはようございます」
ドキドキと胸が弾む。効果はどうだったのか、気になる。
私の横にくると、これでもかってくらい、耳に唇が触れる程、顔を近づけられる。
ーー何、何?もしかして、もしかして、本当にーー
「変なの、いれたろ」
何もかもが終わったと思った。
帰ってから、ベッドの上でこれでもかってくらい泣いた。
木瀬君の事が好きになったのは、宅配ピザの環境に慣れてきた頃だった。いつも通り電話を取ると、相手の言っていることが分からない。早口で、ハッキリと発音しないし、何とか聞き取れても「メニューの表紙になってるやつ」と商品名ではない注文の仕方をするし、ちょっとキレてるし、でパニックになってしまった。
「担当、変わりました」
本当に急だった。受話器を取り上げ、代わりに注文を聞いた木瀬君は「ちょっと来て」と私を外へ連れ出した。
お説教かと思い、ビクビクしていると「さっきの、常連。やんなるよな、ああいうの」と切り出した。
「怒らないんですか」
「うん。コジカは悪くないし」
「あの、ありがとうございました」
「いいよ。それより、サボろう」子供みたいな笑顔だった。「パニックなってたろ。ちょっと休め」
イメージとは全然違う、優しい人だと気付いたのはこの時だった。
「ありがとうございます」緊張しっぱなしで張り詰めていた糸が急に緩んだせいか、涙がこぼれてきた。「あ、本当、すいません」
こわかった。注文を間違えたら、お客さんを怒らせたら、どうしようって。
木瀬君が缶コーヒーを買ってくれたけど、全然力が入らなくて、開けてもらった。それを一気飲みした。
「実を言うと、コーヒー嫌いなんです。苦いです」
「それ、微糖」
「でも苦いです」
涙が止まらなかった。
木瀬君は涙を拭ってくれた。
それから、段々と気になるようになった。
ため息が漏れる。
「こんなことになるなら使わなきゃよかった……って、あれ?」
ん?コーヒー?拭ってくれた?
家から飛び出した。お母さんには「ピザ屋に忘れ物」って言って、返事は待たなかった。
あの時買ってくれたコーヒーを買い、口にした。甘かった。
メールをし、木瀬君が休憩に入るのを近くの公園で待った。
「おはよーございます」
いつも通りだった。
「呼び出して、あと、昨日はごめんなさい。入れました。変なの」
「やっぱり。変に苦かった」
「うん。でも、木瀬君も入れたよね、カプセル」
「うん、そうだってば。あれ?さっき言ったよね」
「ん?」そんなこと言ってたっけ?戸惑いが隠せない。
「変なのいれたろ。カッコ、俺も知ってるよ、例のカプセルだろカッコ閉じ」
「カッコの中が長いよ!ちゃんと言ってよ!」力が抜けていく。「こわかった。声、めっちゃ低かったし。嫌われたかと思った」
あー、と言って照れくさそうに頭をポリポリと掻き、何か呟いたのが聞こえた。気になってもう一度言ってくださいと頼む。
「色気、だしてみたんだけど」
笑いが止まらなかった。
結局あの惚れ薬はサプリメントだったらしい。ちゃんとパッケージに書いてあると木瀬君が教えてくれた。
「なーんだ、ジョークグッズか。まあバラエティショップで買える時点でおかしいよね」
「俺は福袋に入ってた。サプリって分かってたし、信じてなかったけど、なんか、ジンクス、かな。試したくなった」
妙な沈黙が生まれる。途端に気恥ずかしくなってきた。両思いってことなんだもんね。
「なあ、コジカ」
甘い声に身体が強張る。
「好き」
私も、と頷く。
「コジカも言って」
「オジカです」
「コジカ」
「オジカです」
「奈々」
「ーー好きです」
それから、ピザ屋に帰っていく木瀬君を、いつまでもいつまでも見つめた。
お母さん、奈々って呼んでくれる人が出来ました。