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戦備━11

 セロが騎士達の修練場から出た後も、先ほどルイスに言われた言葉が頭を離れずにいた。

 魔術でも、何でもない。ただ己の未熟さを言葉で突きつけられただけ。だと言うのに、それ自体が呪いであるかのように、セロの心を締め付け、傷つけていく。

 その言葉は、どうしようもなく正論だったのだ。


 ――人を殺す覚悟はできているのか?


「そんなこと、分かってんだよ……!」


 ルイスの言葉が、心の弱い部分を否応なく責めたててくる。

 この世界は、セロが元々生きてきたものとは異なる世界だ。

 文化も、社会規範も、人の生き方も。

 例えば、この世界では絶対的な身分の差が存在する。奪われる側と奪う側が、最初から決められていた。この世界で目覚めてからの短い期間でも、面白半分に摘まれていく命を幾度となく目にした。命の価値は、平等ではないのだ。

 自分は、生かしておけばイルミナや他の仲間を傷つけるかもしれない敵を前にした時、その命を奪えるのか――そう自問し、こみ上げてくる吐き気に答えを知った。

 赤の教団と敵対する中で、憎悪以上の、もっとどろどろとしたおぞましい感情に理性が押し負けそうになった時はあった。きっと、あれを殺意というのだろう。

 今までは何とかその感情を押さえてこれたが、もし、あれに身を任せてしまえば。

 この手は、誰かの命を奪ってしまうのだろうか。


 ――それでも。

 己の中で生まれそうになる諦念に、しかしセロは食い下がる。

 その理由は、セロがこの世界に放り出されてから最初に相対した男――ゼイナードだ。

 彼はこの世界を恨んでいた。己の意志で、その憎悪を持って世界を焼き尽くそうとしていた。

 なぜ、彼はそこまでこの世界を憎むのだろう。

 そこまで考えた時、歩いていた回廊を曲がった先に、見覚えのある部屋の入り口が現れた。


「……お、戻って来れた」


 無意識のうちに、来た道をたどっていたらしい。

 そこは、ロゼットの部屋の前だった。扉の横には兵士が控えている。

 どうやらロゼットの客人として認識してくれているのか、こちらに気が付くと、少し待っているよう伝えられる。どうやら中にいるロゼットに、セロが戻ってきたことを伝えてくれるようだ。

ということは、イルミナもその部屋にいるのだろうか。

 ついさっきまでのやり取りを聞いている限り、あまり相性がよさそうには見えなかったが。

 そんなことを考える間をおいて、開いた扉の隙間からロゼットが顔を覗かせた。それはすぐに花が咲いたかのような笑みに変わる。


「まあ。ずいぶんとお時間がかかっているので、てっきり迷っていらっしゃるのかと思いました。もう少しで捜索隊を派遣しようかと、イルミナと話していたのですよ?」

「いや、そんな大袈裟な」


 くすくすと小さな笑みを零しながら、ロゼットは顔を引っ込めてしまう。控えている兵士に促されるままに、セロも部屋の中へと入った。

 王女の部屋というだけあって、室内はセロの想像にたがわず一目で高価だと分かる調度品にあふれていた。

 その雰囲気に圧倒され、部屋に入ったままの姿勢で硬直したセロ。視界の端に、そんな様子を面白そうに眺めながら手招きをしているロゼットの姿が見える。

 彼女は部屋の奥側、バルコニーの近くに置かれている可愛らしい椅子に座っていた。

 ティーセットが置かれたテーブルを挟み、その向かいにはイルミナの姿もある。

 しかし、その表情はどこか硬いようにも見え、セロが来たことにも気が付いていないようだった。


「イルミナ、セロ様が戻りましたよ」


 ロゼットのその言葉に、彼女はようやく視線をこちらへと向ける。やはり今気が付いたというように、「あ」と小さく零すのが聞こえた。一体どうしたというのだろう。

 気にはなったが、しかしそれを聞くことは叶わなかった。

 背にしたドアから、控えめなノックの音が聞こえる。ロゼットの応じる声にドアから姿を見せたのは、部屋の前にいた衛兵だ。


「ロゼット様、シリウスのフリージア様がお見えになっておりますが」

「……フリージア様が?」


 不思議そうに首を傾けるロゼット。

 その名前は、先ほどセロ達と一緒にいた傭兵会社シリウスの社長のものだ。時間とすればそこまで経っていないはずだが、もう話は終わったのだろうか。


 セロがそんなことを考えていると、衛兵と入れ替わりに部屋に入ってきたのは、やはりあの冷然とした雰囲気を纏った銀髪の女性だった。

 彼女は部屋にいるセロとイルミナを一瞥すると、恭しく頭を下げる。


「ご歓談のところ、恐れ入ります」

「いえ、構いません。それより、私をお呼びになるなら使いを寄越せばよかったのに」

「いえ、先ほどの話し合い自体は終わったのですが……少し事情が変わりまして」


 フリージアのその言葉に、セロは機密性の高い話になると感じた。それはイルミナも同じだったのか、席を外そうと立ち上がったのが見える。

 だが、その前にフリージアの言葉がセロ達の行動を止めた。


「お二方にも聞いていただきたい。これは、あなた方にも無関係の話ではないのでね」

「……分かりました」


 そう言われてしまえば、ここに残るしかない。

 しかしそれは暗に「お前たちはもうこちら側の人間なんだぞ」と言われているようで、自覚したとたん嫌な汗が滲むのを感じてしまう。

 ちなみにセロは、フリージアが入ってきた時から「邪魔にならないように」と部屋の端に除けていた。だから自分の座る場所を探すところからなのだが。

さて、どこに座るべきか。

 手前と奥にそれぞれ二人ほど座れる長椅子があり、手前には既にイルミナがいて、奥には部屋の所有者であるロゼットが座るだろう。そしてフリージアはロゼットに勧められ、イルミナの隣に座った。となると、空いているのは――。

 目を輝かせたロゼットが、ぽふぽふと自分の隣を叩いた。どう見たって「ここに座れ」という指示なのだが。


「いや、それは……ちょっと」


 王女様の隣とか。常識的に考えてまずい。特にあの騎士団長様に知られたら何をされるかわからないので、命が惜しいセロは首を横に振った。

 断られたロゼットは大層不服そうな表情をしつつも、渋々離れたところにある可愛らしい椅子をもう一つ引っ張ってきた。あるのなら最初から出してくれという話だ。


「ロゼット様はあまり冗談をおっしゃるお方ではないのだが、どうやら君はずいぶん気に入られたらしいな」


 二人のやり取りを見てフリージアは苦笑していた。

 冗談だと思うじゃないですか。でもね、目がマジだったんですよね。

 そんなことを声に出すわけにもいかず、心の中で呟きながら、セロは用意してもらった椅子に腰かけた。ちなみに、位置はイルミナの隣である。

 全員が座ったことを見届けると、フリージアはおもむろに、虚空に浮かぶ見えない文字をなぞるように指を動かした。

 途端、部屋の中の空気が変わったような気がした。


「勝手ではありますが、遮音の結界を張らせていただきました」

「いえ、その手のことは皆様のほうが得意でしょうし、構いませんよ」


 どうやら、部屋の中での会話が外に漏れないようにしたらしい。

 そのような技術があること自体セロは知らなかったのだが、後で詳しく聞いてみようと決めた。


「さて、私がこちらに参上した用向きですが……実は先ほど、城下を巡回していたアースラの者から、気になる報告を受けました」

「アースラというと……あ、確かお二人もそうでしたよね!」


 ぱん、と手を叩き、ロゼットはセロ達へと視線を向ける。「優秀な方々がそろっているのですね」などとにこやかに続けられ、まだ新入りに近いセロとしては恐縮するばかりだ。

 今日の巡回は、たしかバスクとエレナだったはずだ。フリージアの話のとおりなら、あの二人が何か有力な情報を入手したということだろう。


「あ……すみません。まだお話の途中でした」

「いえ、お気になさらず」


 やんわりと微笑し、フリージアは先を続ける。


「その報告内容について、急ぎ対応を検討するとのことで、宰相や大臣たちとの会議の場を設けることになりました。ついてはロゼット様にもそこに加わっていただきたいとのことです」

「……報告された内容は?」


 緊急の招集という事態に、ロゼットの顔つきが真剣なものへと変わる。同じように、セロもフリージアの言葉を聞き洩らさぬように身を乗り出した。

 予感がした。

 宣戦布告をしてきた赤の教団。あれから全く音沙汰がなかったが、その平穏な日々は今日で終わるのだと。


「どうやら教団の側で、スラムを拠点にしている地下組織を取り込もうとする動きがあるようです。詳しい情報は現在調査中ですが……今夜、どこかで教団と地下組織で接触があるとか」

「……なあ、地下組織ってなんだ? そんなもんエンシャントラにあるのか」


 話の妨げにならないように、小さく隣のイルミナに聞いてみた。すると、同じようにささやくような返答が返ってくる。彼女に、先ほどまで心ここにあらずといった様子はもうない。


「私も詳しくは知らないんだけど……。法で禁止されてる薬とか、奴隷とかを売ったりしてる組織があるみたい。噂じゃ、貴族から暗殺を請け負う奴もいるとか」

「王都にそんなもんあるのかよ」

「どうしたって騎士団の目が行き届かないところは出てくるし……有力な貴族とつながりがあって、なかなか手を出せないっていう理由もあるみたい」

「なんだそれ……」


 そんなことを話していると、不意にフリージアの声が聞こえてくる。


「……続けてもいいかな?」

「すみませんっ!」


 その声に、二人は即座に姿勢を正す。どうやら聞こえていたらしい。

 

「……そこの二人も話していましたが、裏で暗躍する組織は事実として王都に存在します。それも、決して小さな勢力ではありません。これは私見ではありますが、おそらく、赤の教団はまだ我々と事を構えるには十分な戦力がそろっていない、とみているのではないかと」


 フリージアの言葉に、ロゼットが同意するように頷く。


「確かに、前に深紅の王と我々の間に起こった戦でも、向こうの主戦力は深紅の王が使役するアンデッドでした。その物量は脅威ですが、複雑な指示を理解できない下級アンデッドでは使い方が限られます。今回はドクターと名乗る人物を筆頭に、先日王都に現れたクロードなる人物、セロ様たちが対峙したゼイナードなど、アンデッドとは異なる協力者がいるようですが……では、彼らの目的はその協力者を増やすことでしょうか?」

「おそらくは」

「ならば、今回のスラムの件以外にも、戦力の増強に動いているかもしれませんね……それはさておき、まずは今夜のことです。その密会を王都で行うとすれば、考えられる場所は――」


 目の前で交わされている二人の会話。それに、セロは圧倒された。

 行われていることは、少ない情報の中から必要なピースを選び、つなぎ合わせ、考えられる可能性を探ることだ。三大傭兵会社に数えられるシリウスの長、フリージアが提示する可能性を聞いたうえで、歳が自分とそこまでは離れていないはずのロゼットがさらなる可能性を示す。


 ――やっぱり、この人たちはすごいな。


 改めて、自分と彼らのいる世界の違いを見せつけられた。そして、そんな彼らに交じってこの戦争へと足を踏み入れていくのだという責任を実感させられる。


「うーん……今の情報では、さすがに絞り切れませんね。場所の可能性としては、噂が広まっているというスラムが高そうですが」

「その、ロゼット様の未来を視る力でも分からないのですか?」


 セロの言葉に、ロゼットは残念そうに首を振る。


「先ほども申し上げましたが、私が視る未来は、その場所・時間を私が決められないのです。唐突に、断片的な光景が頭の中に浮かぶ程度で……。それがいつのことなのかすら、視た本人である私自身が分からないのです」


 残念そうに、ロゼットは首を振った。

 つまり、どうしたって情報の不足という壁にぶち当たるのだ。


「後手後手な感じはしますが……今の段階では、夜間の巡回にあたる傭兵と騎士を増員するくらいでしょうか。現状は、それしか打てる手がありません」

「私は主要な傭兵会社に増員の要請を出します……そちらの二人についても、ウルスから言伝を頼まれている。今夜の巡回に加わってほしいと」

「分かりました」


 セロとイルミナの重なった声が部屋に響いた。

 それに満足するように、フリージアは小さく頷く。

 

「ありがとう。この後の会議が終了し次第、追ってアースラへ指示を出すそうだ。今後の動きについては他の傭兵と同じように、それに従ってほしいと。すまないが……それまではアースラに戻り待機をしてほしい」


 最後の言葉を少し申し訳なさそうに口にしたのは、ロゼットと話す時間を邪魔してしまったと気にしてくれたのだろうか。

 きっと、あまりにも名残惜しそうにセロ達を見ているお姫様のせいだろう。


「うう……せっかくお二人とお話しできる、いい機会だと思っておりましたが」

「また機会がありますよ」


 セロとしては精神的な負荷が大きいので、できればあまり気は進まなかったが。

 その後はフリージアとロゼットを呼びに来た衛兵たちが部屋に訪れたことで、セロ達はそれに追われるようにロゼットの部屋を後にすることになった。



 邸宅のような建造物が立ち並ぶ区画を抜けると、ようやく人の姿が増え始める。ここに来るまでにすれ違った者といえば、巡回している兵士くらいだ。

 貴族や権力者の住まう場所から抜け出したことで、ようやくセロは肩の力が抜けた気持を味わうことができた。


「俺、いまだに信じられないよ……少し前まであの城で、この国で一番偉い人たちに囲まれてたんだぜ」


「私だってそうよ。というか、このことを話しても、大体の人が信じてくれないと思うけど。ウルスさんくらいの立場の人ならともかく、私たちくらいじゃ足を踏み入れるなんてまずありえないからね?」


 振り返れば、まだ小さく白亜の王城が見える。本来、自分たちのような平民からすればここから見える姿がせいぜいなのだ。許可のない人間がここから先に立ち入れば、下手をすれば投獄されるという。

 感慨深い気持ちをしみじみと味わっていると、隣を歩くイルミナが小さくため息を零した。


「私なんて、あのお姫様と一対一で話してたのよ? 途中であんたはどっか行っちゃうし、緊張しすぎて心臓止まっちゃうかと思ったわ……」


 責めるような視線を向けてくるイルミナ。

 しかし、あれはルイスがふらっと現れたのが原因であり、セロ自身にはどうしようもなかったことである。いうなれば不可抗力だ。それでもそれを言えば余計に彼女の機嫌を損ねることになるので、セロは大人しく手を合わせて謝罪する。

 いや、確かにあの子といるとやたらと疲れるし……。


「なんなら危険指定のアンデッドと鉢合わせた時より焦ったかも」

「一国の姫様をアンデッドと並べるなよ……」

 

 確かに無邪気さゆえというか、その言動で冷や汗を欠かされる場面が多かったのは確かだが。

 そんなことを考えていると、ロゼット姫が「そんなことありません!」と頬を膨らませる絵が想像できた。

 そんな面白おかしく他愛ない話をしていた時、ふと、セロはあることを思い出した。


「そういえば……俺が部屋に入る前、ロゼットと何を話してたんだ?」


 ルイスと別れ、セロがロゼットの部屋に入った時。

 セロは、イルミナの様子がどこかおかしいことに気が付いた。あれは緊張とは違う、恐怖や驚愕による表情の強張りだった。聞こうとは思ったが、フリージアが入ってきて聞きそびれてしまったのだ。

 思い過ごしならばいいと思っていたが、それを聞いた途端、彼女の目がわずかに見開かれた。


「……何でもない。ほら、ロゼット様ってなんかセロのこと気にしてたでしょ? それでアースラでのセロのことを聞かれたというか」

「イルミナ」


 セロが立ち止まると、それにやや遅れてイルミナも立ち止まった。彼女が振り返ったことで、二人は向き合うような形になる。

 そんなセロを見て、イルミナは「どうしたの?」と苦笑した。

 それが強がりであると分からないならば、パートナーとして失格だろう。


「……俺さ、この前の事件が終わってからずっと考えてたんだ。あんなことがあった後で、皆は俺を受け入れてくれたけど、本当は、もう暴走しないのかとか、赤の教団のスパイなんじゃないかとか……疑われるんじゃないかって思ってた」


 それは、セロが再びアースラに帰ってからずっと恐れていたことだ。

 先日、赤の教団とアースラの衝突があった後、セロと赤の教団に少なからず関わりがあったことは仲間の皆が知ることになった。セロ自身は目覚める前の記憶がないために、その真偽は分からないが、セロと同じ前文明の人間がいるという共通項を考えるに、おそらくは真実だろう。

 だから、もうアースラの皆とは今までのように接することができないのではないかと恐れていた。


「でも、それは思い過ごしだった。こんな俺を慕ってくれたり、自分の時間割いてまで稽古つけてくれたり……信頼できてなかったのは、俺のほうだったんだって。本当にアースラの、皆の仲間なんだって、胸を張って言えるようになりたいんだ」


 正面にたたずむイルミナの目が伏せられる。

 それを見て、心にずきりと鈍い痛みが生まれた。

 ああ、自分は今、なんと卑怯なことを言っているのか。

 イルミナが話そうとしないのは、信頼されていないからではない。彼女は、それを話すことでセロを傷つけないようにと思ったから、黙っていると決めたのだ。それは、彼女の優しさの表れに違いない。

 だというのに、それに気が付かないふりをして、信じる信じないというところに貶めようとしている。

 自分は、なんという道化か。


「……私は、セロを信じていないわけじゃないよ」


 わかっている。でなければ、行方をくらませたセロを追って、赤の教団の拠点にまでなんて乗り込んだりしない。


「これは、誰にも話すつもりはなかったの。そのほうが、きっといいんだと思ったから。でも、そうだね……私にも、何が最善なのか分からなくなっちゃった」


「イルミナ……」


「とりあえず、アースラまで戻ろうか。あまり人に聞かれたくないし……私の部屋で話すよ」


 そう言って、彼女はセロに背を向けて歩き出した。

 一瞬だけ、その表情に憂いの色が浮かんでいた気がしたのは、果たして見間違いだったのだろうか。

 人もまばらな通りを、季節に合わない生ぬるい風が通り過ぎていった。



 アースラの中は、セロ達が城へと向かう前と雰囲気がまるで違っていた。

 夜に赤の教団が仕掛けてくるかもしれないという情報は、既にここにいる全員に知れ渡っているようで、皆の表情に緊張と不安が感じ取れた。少し前まで賑わっていた広間にも、ほとんど人の姿が見えない。

 さらに上階へと進み、セロ達の個室があるエリアへと足を踏み入れた時、見知った顔ぶれを見つけた。

 その中でも小さな影が、近づく二人に気が付く。


「あ、お二人とも戻られたんですね!」


 エルフの少女であるリンが、セロ達に向けて手を振った。

 その彼女の動きで、どうやらもう一人もセロ達に気が付いたらしい。こちらを見やると、鷹揚に片手をあげる。


「お帰り、二人とも。ご苦労だったね」


 柔和な笑みを浮かべて立っていたのは、どこかはかなげな印象を感じさせる風貌の人物だった。長く伸ばされた透き通るような白髪は後ろで結わえられ、色素の薄い皮膚はいっそ不健康に見えるまでに白い。体の線も細く、何かの拍子にそのまま溶けて消えてしまうのではないかという気になる。

 およそ争いごとには向かなさそうな彼は、実査その見た目のとおり戦闘などほとんど経験がないらしい。

 屈強な男ばかりが目立つこの傭兵会社という組織でなぜ彼のような存在がいるのかというと、もちろん腕っぷしの強い者だけでここまで大きな会社など経営できないからだ。


「ただいま戻りました。イオラ副社長」


「はは、だから副社長なんかじゃないってば……」


 そう言って、気恥しそうに頬を掻くイオラ。

 彼は戦闘能力ではなく、その経営能力を買われてこの会社に籍を置いている。人事・経理・財産管理から庶務まで、なんなら社長としての自覚が全くないウルスの仕事までこなしているのだ。

 立場としては事務職の一人にすぎないのだが、その手にしている(せざるを得ない)権限の大きさから、気が付けば「副社長」と呼ばれるようになったという悲しいエピソードがある。

 セロも、ただでさえ揉め事が起きやすい稼業であるため、そのたびにせわしなく駆け回っている姿をよく見る。というより忙しそうな姿と電池が切れたように休憩室で仮眠をとっている姿以外を見たことがない。そんな彼という尊い犠牲のもと、このアースラは存続しているのだ。

 聞くところによると、実は睡眠を必要としないアンデッドなのではないかという噂が、まことしやかに囁かれているそうだ。

 

「そういえば、イオラさんはどうしてここに? 自室はもっと上の階でしたよね」

「ははは、こんな非常事態に私が休めると思うかい?」

「……過労で倒れた時のためにリンを連れているのなら、今すぐ自室でお休みになってください」

「違うよ? さすがの私でもそんなに頭の悪い発想には至らないからね?」


 イオラは口を尖らせてそう反論すると、隣にいる少女を手で示した。


「本人からの申し出もあって、最近はリンさんにいろいろ仕事を手伝ってもらっているんだよ。まあ、秘書みたいなものかな。仕事を覚えてくれるのも早いから、おかげで私の負担もだいぶ減ってね」


「すごいな……そんなこともやってるのか」


 セロは小さな驚きとともにイオラに付き従うリンを見やる。当の本人はというと、照れたように微笑を浮かべていた。


「いえ、私の場合は無理を言ってここで働かせてもらっているというか……皆さんのようにアンデッドを退治したりとかできませんし、それ以外のことでお役に立てれば、と思いまして」


 そんな謙遜を口にした彼女だが、この会社にとって彼女の存在意義は大きい。

 治癒魔術という稀有な魔術に適性がある人材は、日頃から怪我人の絶えない傭兵会社では多くいても困ることはない存在である。特に彼女くらいの技術レベルであれば、アースラ以外の規模の大きい傭兵会社でも、厚遇されることはまず間違いない。


「秘書かぁ……。私にはできそうにないよ」


 すごいなぁ、と呟くイルミナの言葉に、リンが不思議そうに首を傾げる。


「そ、そうですか? イルミナさんなんて、いつも任務の時とかてきぱきとこなしてるイメージがありますけど……」


「ああ、こいつはそういう時だけはちゃんとしてるんだ。普段なんてすごいぞ? 朝は起きてこねぇわすぐ暴力振るうわで、速攻解雇間違いなしッてえ!?」


 的確に膝裏を蹴り抜かれた。

 なまじ鬼教官バスク直伝の格闘術をたしなんでいるだけあって、容赦がない。

 たまらず床に膝をつくセロ。その一方で、凶行に及んだ当の本人は澄ました表情をしている。


「それでも、イオラさんの負担が減るのはいいことですよね。リンちゃんが手伝うことで時間ができれば」


「うんうん、空いた時間で広報活動ができるよね!」


「……いや、寝ろよ。寝てくださいよお願いですから」


 つい勢いで敬語の抜けたセロの失言も、睡眠不足の彼の耳には入っていないらしい。何かを一人で納得して、うんうんと頷くイオラ。

 本当に大丈夫だろうかこの人。


「あ、イオラさん。そろそろお時間ですよ」

「おっと、いけない。忘れるところだった」


 どうやら、二人はどこかへ向かう途中らしい。


「これからイオラさんは、傭兵会社シリウスのレインさんとお会いになるのです」


 聞く前に、リンが先んじて答えてくれた。上司のスケジュールの管理を把握し、細やかに気を配れる気質。これは確かに優秀な秘書になれそうだ。

 そんなことを頭の片隅で考えていたが、すぐに先ほどのリンの言葉に疑問が浮かんだ。


「シリウスというと、今夜のことで打ち合わせですか」

「うん、さっきウルスから連絡があってね。君たちはもう聞いているだろうけど、今夜の巡回の動員を増やす必要があるだろう? それについて、他の傭兵会社との調整をシリウスがやっていてね。ウチからの動員メンバーの確認と、大まかな動きの打ち合わせ。時間があるなら、君たちも顔を出すといいよ。きっとレイン君も喜ぶだろうから」


 レインとは先の事件で顔を知ってから、良好な関係を築けている傭兵だ。セロにとってアースラ以外の傭兵会社の中では、初めて親しくなった人間である。

 あの事件以来、彼とは時々顔を合わせている。最近ではバスクと一緒に、セロの訓練に付き合ってくれる恩人だ。

 イオラの言葉に「ぜひ」と答えると、彼は「じゃあ後で来ると伝えておくよ」と返してくれた。階下へと進んでいく二人の背を見送ると、セロ達は居住区画の奥へと歩を進める。

 この区画には通路の左右に個室へ通じる扉があり、そのうちのいくつかを通り過ぎたあたりで前を歩くイルミナが足を止めた。

 そこは、彼女に与えられた個室の前だった。

 施錠を解いて中に入っていくイルミナの背を見やり、今さらながら、彼女の部屋に入るのはこれが初めてであると気が付いた。

 朝に弱いイルミナを起こしに来る時も、扉の前で声をかけるなり、ノックをする程度だ。


「……なんか、緊張する」


「ん、早く入って」


 閉じないように扉を押さえて待っているイルミナに睨まれて、ようやくセロは室内へと足を踏み入れた。

 そう、ここへはイルミナがロゼットとした話を聞きに来たのであって、決して不純な動機で来たわけではない。セロは自身にそう言い聞かせる。

 しかし意識をしないようにしても、鼻孔をくすぐる甘い香りが、この空間を異性の部屋であると伝えていた。

 カーテンが開け放たれると、中天まで差し掛かった陽光が部屋に残っていた薄い闇を払う。


「想像していたのと違う?」


 そう言って苦笑するイルミナの部屋は、確かに、セロが想像していたものとは少し違っていた。

 言ってしまえば、殺風景だった。

 その空間にある調度品は、簡素なベッドにクローゼット、そして部屋の奥まったところにデスクが見える。それらはどれも、単調な色調で、装飾といえるようなものは皆無だ。調度品よりも何もない空間のほうが目立ってしまい、どこかもの悲しさを感じさせる。


「なんというか、その……他の人と比べれば、落ち着いた雰囲気だ」

「素直に何もない部屋だって言っていいのに」


 どういうべきか迷いながら口にした感想に、イルミナは小さく噴き出した。ひとしきり笑うと、彼女は手近な椅子に座るよう促し、自分はベッドに腰かける。

 彼女が口にしたとおり、この部屋は最低限のものしかない。セロ自身の部屋でさえ、茶器や書籍などの嗜好品や娯楽品がある。


「セロと会うまでは、ほら、私は仕事のことしか頭になかったし」


 イルミナが口にしたのは、かつての自分自身のこと。

 自分の住んでいた村を襲った教団の男。その男に復讐するためだけに、イルミナは傭兵として生きる道を選んだ。それからは自分自身を痛めつけるかのように、危険の中に飛び込み、無我夢中で経験を積んで、実力を身に付けた。

 その言葉を受けて、セロは改めてこの部屋を見渡す。

 娯楽という要素がそぎ落とされた空間は、何の執着も感じられない。それはそのまま、彼女の生への関心の薄さが表れている気がした。

 そこに浮かび上がるのは悲壮的な彼女の覚悟――刺し違えてでも復讐を遂げるという決意だ。きっと、目的を遂げた後の未来を、彼女は考えていなかったのだ。

 

「それでも今は、違うんだろ?」


 胸中に生まれた一抹の不安。気が付けば、セロはそんな言葉を口にしていた。

 ベッドの上に座った彼女は、少しの間をおいてから、小さく頷いた。

 それを見て、セロは胸に詰まっていた不安を吐き出すようにため息をつく。

 ひとまず不安が解消されたところで、セロはこの部屋に来た元々の目的を口にする。


「……それで、ロゼット王女とは何を話してたんだ? 少なくとも、楽しい話をしてたわけじゃなさそうだけど」


「ああ、それなんだけどね……」


 セロの言葉に促されて、イルミナも口を開く。

 ただ、その表情はあまり晴れやかではない。視線はセロを離れ、しばらく部屋の隅のあたりを行ったり来たりしていた。それほど言いにくい内容だったのかと思うと、余計に気がせいてしまう。

 空白の時間は呼吸一つ分ほどだったろうか。それでも、セロにはやけに長く感じた。


「……深紅の王と三大英雄たちの戦いを詳しく聞かされて、不安になっちゃったの」


「は……?」


 聞かされた答えに、しばらくセロは唖然としていた。

 そんなセロの様子を見て、イルミナは気恥しそうに笑う。


「ほら、以前の戦争で深紅の王と戦って封印した三大英雄って、もうエルフのミュレイ様一人しか残ってないでしょ? 当然深紅の王と戦うときは、ウルスさんとか他の傭兵会社の強い人達も戦ってくれるんだろうけど、『運命の子』である以上、私とセロもそんな相手と向き合わないといけないって思ったら……ね。セロは怖くならない?」


「いや、そりゃあ怖いけどさ……」


 言われてみれば、確かに当時深紅の王を封印した三大英雄のうち、かつての騎士団長だったレイ・クロウラーは終戦後に行方をくらまし、最強と言われたサイクスという獣人も、既に命を落としているという話を聞いた。

その三人はそれぞれの種族から最も優秀な人物を充てたという話で、現在に至るまでまだ比肩する存在は出てきてないといわれているほどだ。

 そんな存在が一人しか残っていないことは、懸念材料ではあるだろう。


「でも、アースラにはウルスさんや、エレナさん、バスクだっている。今日会った他の傭兵会社のあの二人の社長だってそうだし、ロイだって……まあ嫌な奴ではあるけどめちゃくちゃ強いだろ?」


 最初は不安そうな表情だったイルミナも、最後は苦笑しながらセロの話に頷いていた。


「他の種族だって、強い人はきっとたくさんいる。だから――きっと大丈夫だ」


 皆で力を合わせれば、きっと勝てる。

 そう口にするセロに、イルミナは笑って頷いた。

 その後も二人は少しだけ話をして、イオラに言われていた打ち合わせ終了の時間が間もなくであることに気が付いた。


「そろそろだな……俺はレインに会ってくるけど、イルミナは?」

「なら、私も着替えたら行くね。さすがにドレスじゃ目立つし」

「分かった。それじゃ後で」


 手を振って部屋を後にするセロに、イルミナは手を振り返す。

 そうして扉が閉まったのを確認すると、その手は所在を失ったように宙をさまよう。


「……嘘つき」


 思わずこぼれた言葉は、自らを責める言葉だ。

 言えるはずがない。その真実は、あの少年にとってあまりにも残酷だ。

 

――私からも一つ、あなたに教えて差し上げましょう。あなたの想いが導く、誰も望まない破滅の未来を。


 それは、セロが去った後にロゼットが口にした言葉。

 あの王女はこう口にしたのだ。


「この戦争の中で、セロ様は命を落とします――イルミナ、他の誰でもないあなたが原因で、ね」


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