戦備━7
エンシャントラの街中。
普段よりも二割増しくらいの喧騒の中、街道の端に設置されたベンチに座るは狼型の獣人。バスクは中天を越したばかりの日天を睨むと、諦観混じりの溜め息を吐いた。
顔を挙げれば、こちらに向けられていたいくつかの好奇の視線が逸れていく。そうした者達は時折こちらを振り返りながら、潜めた声で言葉を交わし始める。普通の人間ならば聞き取れないようなそれも、聴覚の鋭いバスクならばある程度聞き取れた。
それでなくても、それが自分に向けられたものであること、そしてあまりいい内容ではないことが容易に推察できるのだが。
――獣人のくせに。
憎悪をもって吐かれる言葉は、幾度となく聞いた。
この国が、獣人の国であるウルムガントと戦争をしていたのはそう遠い昔ではない。
その時には奴隷として多くの獣人がこの町に存在していた。現国王の代でアンデッドの脅威が増したことから、この二国とエルフたちとの間で友好条約が結ばれ、奴隷制の撤廃とともに獣人たちは解放された。
そして現在、エンシャントラ、ウルムガント両国の王の努力によって少しずつ人間と獣人は歩み寄り始めているが、それでも深く根付いた敵意や憎しみを持つ者は未だ多くいる。
だから予想はしていたことだが、あまり気分のいいものではない。
すると、近くにいた者達が怯えたように肩を跳ね上げる。
その理由は、何者かが一瞬だけ、凄まじいほどの殺気を周囲に振りまいたからだった。
一般人である者でも、何か嫌な感じを持ったのだろう。足早にその場を後にする彼らの背から、バスクはベンチの隣に腰を下ろした人物へと視線を向ける。
「……あまり、穏やかなやり方じゃありませんね」
「さて、何のことかなー」
涼しげな表情で返答するエレナ。
「ん」と突き出された器には、柑橘系の香りがする液体がなみなみと注がれていた。
礼を言ってそれを受け取り、バスクは喉を潤す。炎天下の中、半日歩き続けたのだ。体が水分を欲していたためか、すぐに半分ほどがなくなってしまう。
「それで、どう思う?」
こちらが一息ついたのを見計らって、エレナから声が掛けられる。あまりにも抽象的な質問だったが、半日の間彼女と同じ景色を見てきたバスクにはその意図が理解できた。
「……あまり、良い兆候ではないかと」
「あー、やっぱりそう思う?」
「参ったなー」と零すエレナ。苦笑しつつも、その視線は通りを往来する者達から離さない。バスクも同じように、行き交う人々へと視線を移す。
現在二人がいる区画は非常に治安が悪い。エンシャントラの中でも最低レベルだろう。国の心臓部とされる王都とは言え、こうした負の要素が集積される場所は必ず存在する。
行き場を失い自棄を起こした者のたまり場となり、口論や喧嘩は日常茶飯事だ。噂では、非合法で殺しを請け負う傭兵集団もあると聞く。バスクはそのような者を実際に見たことはないが、その噂を耳にする頻度から、どうやら信憑性はありそうだ。
だというのに、ここ最近は全く諍いがないのだという。実際に来てみれば、争いどころか通行する者の数自体が少ない。付近の住民にとってはいいことなのかもしれないが、バスク達にとってはあまり是とできる状況ではなかった。
「タイミングが、明らかに不自然だよねー」
エレナの言うとおりだ。教団が戦争を示唆してから、他の区画では住民の不安が高まっている。その焦燥から、町全体の雰囲気がぴりぴりしているのがはっきりと分かるのだ。
なのに、ここでは逆のことが起こっている――?
「……調べた方がいいですね」
エレナを見れば、珍しく、神妙そうな面持ちをしている。
「それなんだけどさ。さっき、面白い話を聞いたよ。ちょっと眉唾だけど」
「面白い……? 一体、どのような」
聞き返すが、すぐに答えは返ってこない。
彼女のその表情を見るに、どうやら告げるべきかどうかを迷っているというよりも、彼女なりに解釈して言葉にしようと悩んでいる様子だ。
だから、バスクは待った。
そしてちょうど器の中が空になった時に、エレナが小さく息を吐いた。
「念のため言っておくけど、もしかしたらつまらないデマかもしれない。でも、嫌な予感がしたんだよね……私が聞いたのは、こう」
一呼吸おいて、彼女はその先を続ける。
「――『今夜、神の使いが王国の民を導く』。どう思う?」
「……神、ですか」
確かに、嫌な想像を掻き立てるフレーズだ。すぐに思い浮かぶは、バスク自身目にしたことはないが、アンデッドを創造した絶対者。
教団の象徴――真紅の王。
「……一応、王国と他の傭兵会社に連絡を入れたほうがいいよね。その間に、私たちでその噂を調べる。私はそれが最善だと判断するけど」
「では、連絡は私の方から」
バスクは頷くことで肯定の意を示すと、ウルスの元へと連絡を飛ばすべく〈通話〉魔術を起動させる。相手が呼び出しに応えるのを待つ間、ただ得体のしれぬ不気味さがぐるぐると頭の中を回っていた。
■
終わりがないように思える程長大な、幅広の廊下。
両端に設置された、高尚な絵画や調度の数々。
時折すれ違い、そのたびに深々と頭を下げる召使いたち。
そのどれもが、普通の者では目にすることすら叶わないものばかりだ。こういう時、平民の代表格である者にとって正しい反応とは、その荘厳さに呑まれるか、あるいは夢のような光景に目を輝かせるかのどれかなのだろう。
にもかかわらず、セロの反応はそのどれでもない。いや、それどころではないと言うべきか。
右手側に目をやれば、花が綻んだかのような笑みを浮かべる少女、ロゼットが隣にいる。
以前は目立たないように簡素なローブを纏っていたが、目の前にいる金糸の装飾があしらわれたドレスを着こんだ姿は、王家としての気品を漂わせる。以前会った時も不思議な雰囲気を感じたが、その正体はこれだったのかもしれない。
ふと、向けられている視線に気が付いたのか、少女と視線が合った。途端、「くすっ」と返された不意打ちの微笑に、慌てて顔を逸らすセロ。
自然と反対側に視線が流れ、そして――絶対零度の視線とぶつかった。
もちろん、その視線の主はイルミナだ。こちらはセロと視線が合うと、憮然とした表情で鼻を鳴らした。どうも、先ほどからロゼットの機嫌が良くなればなるほど、イルミナの発するどす黒いオーラが増している気がする。
――何故、こうなったのだろうか。
出かかった溜め息を押さえ、セロは考える。
イルミナが機嫌を損ねたのは、明らかにロゼットが原因だろう。
しかし、そもそも何故ロゼットがここまでセロに好意を持つのか。そう言えば、混乱していたので曖昧だが、先ほど彼女は「運命の人」がどうとか言っていた気がする。
考えるまでもなく、彼女との初対面は昨日だ。騎士に追われていた彼女を、セロが匿った。しかし、それだけだ。それだけで、ここまで気に入られるとは思えないのだが。
「……あの、ロゼット――様」
「まぁ、『様』などと……ロゼットでいいですわ」
いや、無茶言うな。
はは、と乾いた笑みを浮かべ、セロはそっと背後を見やる。後ろにいる騎士団長殿の手が刀の柄に掛かっていた気がしたのだが、見間違いであって欲しいものだ。
「え、と……あなたとは、昨日会ったばかりですよね? 何故、こんなにも気にかけてくれるんです?」
昨日、という部分を少し強調してみる。これでイルミナに「俺は悪くない」ということが伝わればいいのだが。
ロゼットはというと、セロが自分の呼称を流したことがやや不満そう様子だったが、意外なことにその質問に少し考えるような仕草を見せた。頬に手を当て、小さく唸って見せる。
「うーん、二つ目の質問は説明が難しいですね。でも、一つ目ならば答えはこうです。確かにセロ様は、私に会うのは初めてだったと思いますよ?」
「俺は、って……」
何故、そのような答え方をするのだろうか。それではまるで、彼女はそれよりも前から、自分のことを知っていたように聞こえる。
そのことについてもう一度聞いてみようとしたセロだったが、それは前から聞こえてきた声によって遮られてしまった。
「さあ、着いたぞ」
前を見れば、先頭のジェインが大きな扉の前で立ち止まっていた。そのすぐ後ろにはウルス。
両端に不動の姿勢で佇んでいた衛兵が、ジェインの言葉に合わせるようにしてその扉を開く。その先には、アースラの社長室の優に二倍はありそうな空間が広がっていた。中央には大きな円形テーブルが置かれ、それを囲むようにしていくつもの椅子が並べられている。
そしてそのうち二つの椅子には、既に先客が向かい合うようにして座っていた。
その一人、こちらから見て左側に座す妙齢の女性とは、セロも面識がある。
傭兵会社シリウス社長、フリージア・ゼーエンハイト。
身に纏うは群青と純白で彩られた軽装鎧。
切れ長の目と薄い笑みを浮かべた口元。それは、積み上げてきた経験に裏打ちされた自信の表れだろう。その背の中程まで、細く束ねられた白色の髪は、それ自体が輝いているようにも見える。
当然美しいだけではない。
先の暴走事件において、窮地に陥ったエレナとリンを狙撃で援護してくれたのだという。彼女の直属の部下であるレインという男もだが、施設から脱出した後にセロも少しだけ顔を見ることができた。しかしセロ自身検査や治療と予定が立て込んでいたため、言葉を交わす機会はほとんどなかったのだ。
もう一方は、全く知らない長身痩躯の男だった。
色褪せたジャケットに年月を感じさせるジーンズが表わしているように、粗野な雰囲気を纏っている。西部劇に出るような鍔の広いハットを目深に被っているため、顔はよく見えない。それが一瞬だけ、セロ達を確認するかのように上げられたが、すぐに元の位置に戻されてしまった。
おそらくは彼も、ウルスやフリージアと同等、もしくはそれ以上の実力を持った手練れなのだろう。
ジェインの姿を見ると、まずフリージアが立ち上がって首を垂れる。僅かに遅れて男もそれに倣ったが、彼女がやるような慇懃な所作ではなく、形式的、という感じを受ける。帽子も少しの間持ち上げただけだ。
「おいおい、楽にしていてくれ。そう畏まられると私も疲れる」
微苦笑を浮かべるジェイン。どうやら彼が以前出会ったアガノフのような、傲慢な男ではないらしいことはこれまでの様子で分かっている。まだ対面してから間もないが、セロはこの国王に好意を抱き始めていた。
そんな彼につられるように、顔を挙げたフリージアもまた苦笑を浮かべる。
「そうはいきません、陛下。我々傭兵会社の者は、皆陛下に大恩ある身ですので」
微苦笑を浮かべるフリージア。僅かに、男も首肯するようなそぶりを見せる。
それに対して、困ったようにジェインは肩を竦めた。
「ならば、今日はその言葉を全面的に信じさせてもらうぞ。さて、ウルス達も座ってくれ」
「へいへい。おら、適当に座れってよ」
「いや、座れって……うわっ」
ウルスに背を押され、つんのめるように前に出るセロとイルミナ。彼はさっさと近くの席に座すがしかし、二人にそんなことできるはずがない。
名だたる傭兵会社の社長に、一国の国王と王女。彼らと同じ席に座るなど許されるのだろうか。
そんな二人の迷いに気が付いたのか、ジェインはその相好を崩す。
「君たちは私が招いた客人なんだ、あまり立場など気にしないでくれ。アースラから歩いてきたんだろう?」
「おう。呼びつけるんなら、迎えの馬車でも寄越して欲しかったぜ」
そう言って背もたれに寄りかかり、足を組むウルス。ここまでくるともはや呆れを通り越して尊敬する。 一種の才能なのではないかとさえ思えてしまうくらいだ。
この時ばかりは、セロとイルミナの気持ちは一致した。
つまり――自分たちだけでもしっかりしよう、と。
「……お前はいいのか?」
セロが後ろのロイに尋ねると、彼は小さく鼻を鳴らす。つまらないことを聞くな、と言われたようだった。
「俺の任務は護衛だ。会議に参加することじゃない」
「ああ……これ、やっぱり何かの話し合いなんだな」
「何をしに来たんだ貴様は」
呆れの視線を向けられるが、そう言われても困る。なにせ、ウルスからは何の説明もされていないのだから。
とりあえず、言われたとおりに座ることにしよう。そう考え、ジェインの方へと頭を下げ――上司の非礼を詫びる意味も込め――それぞれウルスの隣に座る二人。セロはウルスの右隣に座ったため、反対側はあの男だ。
二人が座ったのを見届けると、ジェインは当然空いている上座に、ロゼットはその隣の椅子に腰掛ける。
瞬間、僅かに空気が硬いものに変わった。
「――さて。まずは、謝辞を述べさせてくれ。わざわざご足労すまなかった。本当は迎えを寄こしたかったが……」
「分かっています。あまり目立つわけにはいきませんから」
言葉を継いだフリージアに、再び「すまぬ」と苦笑する国王。
「集まってもらったのは他でもない――きたる、教団との戦についてだ」
やはり、という思いと共に、セロは話に耳を傾ける。
しかし、先ほどから同じ問いが答えの出ぬまま、自分の中で繰り返されている。
「教団のことだ、どこで聞き耳を立てているか分からんでな。外部にあまり洩らしたくない話ゆえ、ここに呼んだのは『必要最小限』の者達」
――何だって?
眉をひそめるセロ。そんな自分へ、ジェインの視線が向けられる。
はっきりと、聞き間違いの余地がない口調で、彼は断言した。
「私とロゼット、三大傭兵会社の長たち、そして――『運命の子』らだ」