戦備━5
その後の特訓は、バスクが気を遣ったのか、さして長い時間にはならなかった。
リンが不安定ながらにも身体強化魔術を使用し、バスクに拳を打ち込む。それをバスクが防ぎ、時々反撃するといった流れだ。小柄なこともあってか、リンは俊敏な動作でそれを躱していたのが鮮明に記憶に残っている。
先ほどのセロとエレナの模擬戦の後だからか、リンはやけに気合が入っていたようで、終了を告げたバスクに抗議していた。しかし「もし倒れても、今度は放っておくからな」というバスクの一言で、渋々折れてくれたようだった。
「しかし……意外だったな。リンがああまで食い下がるとは思ってもいなかった」
アースラの通路に生まれた、低い呟き。セロが隣を向けば、そこには険しい顔をしたままバスクが歩いている。
「そうか? ああ見えて、結構あいつは気の強いとこあるぞ」
そう言うセロの頭の中に浮かんだのは、かつてゼイナードに食って掛かったリンの様子だ。彼女の手には小さなナイフが握られており、場合によってはあの場でそれが使われていたこともあり得た。あんな大人しそうな少女が人を殺める。ぞっとする話だ。
――なんで、私を見逃したの?
ふと、あの時のリンの言葉が思い出された。そういえば、何故ゼイナードはリンを見逃したのだろうか。
思考に浮かびかけた疑問は、しかし隣で聞こえた溜め息のせいでどこかへいってしまった。
「いや、彼女を甘く見ていたわけではないんだが……」
むう、と歩きながら唸るバスクの様子に、セロは苦笑する。
今、食堂へと向かうセロの隣には、バスクしかいない。エレナとリンは着替えてから来るとのことで、後から合流するのだ。おそらく食堂には、既にイルミナが待っていることだろう。
「でも、熱心なのはいいことだろ。……俺とは違ってさ」
先ほど、バスクに言われた言葉を借りておどけてみせる。しかし、おとがいに指をあてたまま、バスクは険しい表情を崩そうとしなかった。心配になり、セロが声を掛けようとした時。
「空回りしなければ、いいんだがな」
「それって……」
セロはその瞬間に、彼がリンとイルミナを重ねているのだと悟った。
父を奪った男へ復讐するため、イルミナは傭兵としてその人生の多くを捧げてきた。セロと会った頃はその仇討ちのため、感情的に振る舞うことも多かった。今でこそその傾向は薄れてきたように思えるが、しかし完全ではない。きっと、復讐を果たすまで彼女の中で区切りがつくことはないのだろう。
まるで、呪いだ。
バスクは同じような呪縛に、リンまでもが囚われているのではないかと危惧しているのだ。彼女もまた、目の前で実の兄を、村の仲間を殺されているのだから。
尚も不安そうな面持ちで、バスクは歯切れの悪い言葉を連ねる。
「もし、己を守る目的以外で、彼女が力を使うつもりなら……これ以上教えるべきでは――」
「そんなことないだろ」
セロはバスクの言葉を遮り、彼の正面に回る。その目でバスクと正面から向き合う。
「あいつが決めたことだ。だったら、俺達がやるべきことは見守ってやることじゃないのか」
その言葉に、バスクは何かを言おうと口を開きかけた。だが、一瞬言いよどむような様子を見せ、それからどうしようもないと言いたげに言葉を発した。
「……俺は、イルミナ様に戦いの道を選ばせたことを後悔している」
突然の言葉に、セロは少なからず動揺した。話によれば、イルミナと最も長い付き合いになるのはバスクだ。だから、彼女の一番の理解者でもあるのだと考えていた。
しかし、今その者は、彼女の生き方を明確に否定したのだ。
「イルミナ様は、あの氷の男を殺すために強くなった。それを止めなかったのは、俺はもうあの男と関わることはないだろうと楽観視していたからだ。それほどまでに、当時は教団の存在を示唆する情報がなかった。だが……今はこんな状況だ」
バスクが言いたいのは、赤の教団との戦争ということだろう。そして、そうなれば教団にかかわりがあると思われる氷の男と会う確率は限りなく高まる。
そして、彼の言葉が暗示していることも、セロには理解できた。
「イルミナじゃ、その男には勝てないってことか?」
「……そうだ。あの人は優しすぎる。きっと……最後で躊躇う。そうなれば――」
「――あ、いましたよ」
急に聞こえてきた少女の声に、びくりと肩を跳ね上げる二人。セロが振り返れば、反対側の廊下からイルミナがやってくるのが見えた。その後ろには、アースラの社長であるウルスがいる。
まさか聞こえていたかと肝を冷やしたが、どうやらそうはならなかったらしい。此方に近づいてくる彼女の表情には微笑が浮かべられている。不思議と、先ほどより機嫌がいいように見えるのは気のせいだろうか。
「あ、と……どうかしたのか、ウルスさんまで連れて」
「ウルスさんが、あんたに話だって」
「ああ、訓練で疲れてんだろ? 呼び出すのもどうかと思ってな」
そう言って疲れ切った様子のセロを面白そうに眺めると、ウルスは苦笑を浮かべた。
「随分と厳しくしごかれてるみたいじゃねぇか。厳しい教官様だな、おい」
「あの、これは私がやったわけでは……」
どこか苦々しい表情を浮かべつつ答えるバスクに、前の二人は首を傾げる。
「何かあったの?」
「はは……まあ、いろいろとな」
まさかエレナと模擬戦をしたなどと言ったら、何を言われるか分からない。さらに、その原因がイルミナ絡みだなど言えるはずもなく、セロには引き攣った笑みを浮かべるのが精いっぱいだった。
「……ま、面白そうだから後で聞かせてくれや。そんで、俺の方の用件にうつってもいいか?」
頷くが、用とは一体何だろうか。また警備の仕事だろうか、と内心では考えていたのだ。
だから、予想外の単語に一瞬固まってしまった。
「――明日、王城行くぞ」
――はい?
「え、と……オージョーって、あの王様が住んでいる……?」
「他にどこがあんだよ。あのむっつり騎士団長様がいるから嫌か?」
「う……確かにあいつは苦手ですけど」
騎士団長であるロイとは、あの事件以来一度も会っていない。彼とはどうにも気が合いそうになく、セロが苦手ということもあるが、おそらく彼自身もセロのことを嫌っているようだ。
しかし、だからといってせっかくのウルスからの頼みを無碍にするわけにもいかない。
「大丈夫大丈夫! 私も行くし」
「……へ? イルミナもついていくのか?」
「何よ、嫌なの?」
「いえ全然」
即答。もはやこのやり取りは条件反射になりつつある。
セロの後ろでは、バスクも興味深そうに話を聞いている。
「バスクは、王城は行ったことあるのか?」
「いや、ない。あの周辺は貴族の邸宅も多いからな。できるなら近づきたくはない。……しかし、一体どんな用件で?」
「ま、そいつは行くまでのお楽しみだ。何ならお前も来るか?」
冗談半分の誘いであることを知っているからか、バスクは苦笑しながら首を横に振る。
「明日は一日中、エレナ様と警備の任務が入っていますから。それに、私もあの騎士殿はどうにも……」
にやりと笑うバスクに、セロ達もつられて苦笑する。
「――あれ、まだこんなところにいたのかい? てっきりもう食堂行ったかと思ったのに」
「あ、イルミナさんとウルスさんもいますよ!」
声に振り向けば、イルミナ達が来た方向とは逆の方からエレナとリンの二人が見えた。手を振ってくる二人に、セロも小さく手を振り返す。
「俺達はこれから飯にしますけど……ウルスさんもどうですか?」
「いや、俺はまだやることがあるからな。残念だが、また部屋に戻るわ」
「お前らも早く寝ろよ」と言い残し、ウルスは再び来た道を戻っていってしまった。
結局予定していたメンバーでの夕食になったが、食事中の話題は王城についてが大半を占めた。このメンバーは誰も近寄ったこともないということで、エレナやリンはしきりに羨ましがっていた。
この時は、王城を見られるという好奇心と、あの騎士たちに会うという億劫な気持ち程度しか持っていなかった。
だが、エンシャントラにじわじわ広がっていた不穏な空気。漠然と感じていたそれをはっきりと認識したのもまた、王城に行った日のことであった。