戦備━3
上下二層に分かれた、ドーム状の空間。アースラ内部にある、訓練室という場所で。
その中央、十数メートルの距離をもって黒衣の少年は、自分よりも遥か格上の存在と相対していた。
「……お手柔らかに」
「どうしよっかなー」
軽く準備運動をしているエレナの手がゆるりと振られる。この反応からして、彼女の言葉をあまり信用しない方がいいだろう。以前バスクと模擬戦をした時よりもひどい状態になる可能性が大いにある。
――ああ神様、どうか私にご慈悲を。
思わず祈ってから、そう言えば、この世界の神が真紅の王であったことに思い至る。セロ達にとってはラスボスに等しい存在である彼に、この願いが通じるかどうか甚だ疑問なところだ。
そんなことを考えていると、徐にエレナが立ち上がる。その顔には、いかにも楽しそうといった笑みが刻まれていた。
「んじゃ、始めよっか!」
「……もう、どうにでもなれ」
半ば自暴自棄に陥りながら呟くと、後ろからは「セロさん頑張れー」というリンの声援と、「死ぬなよ」という冗談に感じられないバスクの脅しが耳に入ってくる。
当然ながら、二人ともセロが勝つことなど微塵も考えてない。
相手は傭兵会社の中でも上位に位置するアースラのメンバーの中で、最強と称される女傑。その真の実力を知る者は少ないが、王国の中で五指に入るという噂もある。そんな相手と、今から一戦交えようというのだ。
だからこそ、一つの疑問が浮かぶのは当然のことだった。
「……あの、一つ聞いてもいいですか」
「んん?」
ぐるぐると回していた右手を止め、彼女の視線がセロのそれと重なる。
「何で、俺なんですか? 強いやつなら、他にもこの会社にたくさんいるじゃないですか。それこそバスクとか、イルミナとか……」
「ああ、面白そうだから」
「……は?」
返ってきた、文字にすればたった数文字の言葉。抽象的にもほどがあるその回答で、当然納得などできようはずもない。
「面白そうって……どこがです⁉ だってエレナさんと会ったのは、俺がイルミナにここまで連れて来られた次の日じゃ……」
「そう、それだよ」
ぴしっ、と指された指が、セロの言葉を切った。
「君は知らないかもしれないけど、あの子は結構人見知りなんだよ? まあ君の場合は、自分が拾ってきたからってこともあっただろうけど……それでも、君はごく自然にイルミナと話してた。そうかと思えばなんかいいカンジになってるみたいだし。ねぇ?」
「いや、『ねぇ?』とか言われても……それに、それって俺が戦わされてる理由と関係ないんじゃ……」
「そんなことはないよ。私には、ちゃんと見定める義務があるんだから。だから悪いけど、手加減はしない。今、そう決めた」
そう言って、エレナは右手を頭上へと持ち上げる。
真っ直ぐ天へと伸ばされた瞬間、その手に収まる形で一筋の光芒が走った。数度の回転。そして――。
――キンッ、と澄んだ音をたてて、それが空を断った。
振り下ろされると同時、それはようやくその姿を現出させる。
一メートル以上あるだろう細い柄。その先に伸びる、金属特有の滑らかさを持つ湾曲した刃。凶悪な輝きを宿したそれは、長大な大鎌だった。
かなりの重量があろうそれを、エレナは片手で軽々と持ち上げる。ゆっくりとした動作で挙げられたそれは、その直線上にセロを捉えたところでぴたりと制止した。
同時、大気をたわませるほどの存在感が、悪寒としてセロを襲った。
「――私は師として、あの子には本当に幸せになって欲しいんだ。何もかもを奪ってきた、今までの過去なんか霞んじゃうくらいに、ね」
大鎌を振り下ろしたはずみで隠れていた双眸。その一方がセロを射抜く。
そこには、先ほどまでの柔和な雰囲気など皆無。まるで先の動作が、「優し気なお姉さん」じみた彼女を切り捨てたようだった。
その時になってようやく、セロは無意識のうちに数歩後退していたことを自覚した。先ほどから警鐘を鳴らし続けている本能が、「今すぐ逃げろ」と叫んでいるのだ。
「エレナ……さ――」
「――エレナ様!」
左手側、客席から聞こえてきた怒号。見れば、目一杯体をせり出したバスクがエレナを睨んでいた。そもそもこの状況にさせたのは彼自身なのだが、どうやらこうなるとは思っていなかったらしい。その隣には、心配そうに二人の様子を窺うリンの姿も見える。
「一体何を考えているのです⁉ まさか本気で……セロを殺す気ですか!」
こちらもさすが実力者といったところか、その声に含まれた憤激はそれだけで周囲を威圧できそうだ。だが、エレナは気にも留めていないようだった。そちらを見ることさえもしない。
そんな彼女の様子に痺れを切らしたか、バスクの視線がセロへと向けられる。
「セロ、早く上がってこい。この模擬戦は中止だ、危険すぎる」
「あ、あぁ……」
そうだ、本気のエレナと戦うつもりなどなかった。元々自分の魔術を把握するつもりで模擬戦をしているのだ。わざわざ命を危険に晒す必要はない。
バスクの言葉に従おうと、更に一歩下がりかけた時。
「――怖いなら、止めたっていい」
吐息と共に吐かれた言葉。その一瞬だけ、元の穏やかさが戻った――ような、気がした。しかし、それもほんの一瞬のこと。
再び、洗練された刃のような輝きがその目に宿される。
「ただ、そうしたらもう、私は君のことを絶対に認めない。その程度の男を、これ以上イルミナの傍にいさせるわけにいかない」
「――ッ⁉」
――さぁ、選べ。
促すように、ギラリ、と鎌の刃が凶悪な輝きを放った。
「そんな……」
勝てるわけがない。
それが、真っ先にセロの脳裏に過った言葉だった。模擬戦として手を抜いてもらっていてもまず互角にすら渡り合えないだろう相手が、本気で潰しに来る。
バスクが言ったように、退くのが正しい選択だろう。己の命と、仲間から認めてもらうこと。天秤にかければ、どちらが重要かは明白だ。
そう、明白――なのか?
セロは自問する。
ここで身の安全を選ぶということは、エレナの言葉通りならイルミナに近づけなくなるということ。少なくとも、彼女からは何かしらの妨害が入るだろう。イルミナの師であるエレナから認められない以前に、自分はそれで胸を張ってイルミナの隣に立てるのか。
すると、客席から再びバスクの声が聞こえてきた。
「セロ、何をやっている。この人の言ったことなら気にするな、そんなものはただの……」
「――駄目だ!」
思わず、口を突いた言葉。自分でも予想していた以上の声量に、同じようにバスクも一瞬口を噤んだ。だが彼へと視線を向けた時、すぐに低い唸り声が洩らされる。
「お前……死ぬぞ」
「悪い、バスク。でも駄目だ。ここで逃げちゃいけない――気がする。上手く説明できないけど……」
セロは、バスクの隣で怯えるリン、そして正面に立つエレナへと再び視線を交差させた。
やはり、直視するだけで先ほどの恐怖が呼び起こされる。
「これから先、きっと同じように何度も選択を迫られるんだと思う。今みたいに逃げられる時もあれば……逃げられない時も、ある。きっとエレナさんは、それを教えてくれてるんだと思う」
そして、おそらく彼女はこうも問うているのだ。
――これから先、イルミナを守るために命を捨てる覚悟はあるか、と。
だから、セロは視線を逸らさない。震える足を叱咤し、今にもなりそうになる歯を抑え、僅かに腰を落とす。
水平に、空手を一閃。
直後、右の掌に、剣の柄の感触が生まれた。今までの戦闘で使ってきた、紅刃の剣。視界に映る、圧倒的な存在感の大鎌を克服するように、それを強く握りこむ。
「だから――俺は逃げない」
それを聞いたエレナの表情に、薄い笑みが刻まれる。おそらくそれが表わすものは、愉悦。
だが、それを隠すかのように、即座に顔が俯けられてしまう。
「……一戦、お願いします」
「よく言った」
まるで、その言葉が皮切りになったかのように。
相対した両者は、同時に疾駆した。