戦備━2
奇妙な少女との遭遇から、数時間。
青々としていた空は、今は対照的な朱色に染まっていた。一日中特に雲が出ることもなく、空模様としては最高のものだった――案の定、イルミナによって落とされた雷を除けば。
結局、あの後すぐにイルミナを見つけることができた。彼女を見つけた時の様子からすると、どうやら向こうもセロのことを必死に流してくれていたようだ。
「……だからあれだけ真剣やれって私は」
「う……面目ない」
前を歩く彼女の口からは未だぶつぶつと不満げな呟きが聞こえるが、どうやら山場は越えたらしい。取りあえずは一安心だ。
その後の巡回でも特に目立ったことはなく、二人の担当している時間は何事もなく終了した。現在、二人はアースラへの帰途を辿っている。
「ったく、次に私と組んだ時もこれだったら承知しないからね」
「だから悪かったって……でも、心配してくれてたんだな」
「一人で帰ったら私が怒られるでしょうが!」
「ああ……ですよねー」
一瞬でも期待した自分が馬鹿だった、と溜め息を吐くセロ。顔を上げれば、ようやく街並みの向こうにようやくアースラの影が見えてきたところだ。
ともあれ、今日の任務は終了した。任務というか、主にその他の要因で疲弊しきったセロとしては早々にアースラに帰還し、寝てしまいたい気分なのだが。
実は、セロにはこの後も予定があるのだ。
「魔術の訓練、か……今日も、厳しい教官殿が待ってんだよな」
実は、セロはまだ自分の魔術について多くを理解していない。今まではただ「相手の魔術を打ち消す能力」として何となく使ってきたが、魔術とは使い方によって、実に多様な効果を発揮する。
例えばイルミナは水を操って武器を生成するし、王国騎士のロイのように、それを使って己の身体能力を強化することもできる。
自分の使える魔術で、何が出来て、何が出来ないのか。それを把握するため、セロは先日バスクに協力を仰いだのだ。快諾してくれたのは良かったが、予想通り、彼の稽古は生易しいものではなかった。ここのところ、訓練が終われば部屋に直行して、疲労困憊でベッドに倒れ込む日々が続いている。
それを思い出した独り言のつもりだったが、どうやらイルミナにも聞こえていたらしい。
「それはご愁傷様。でも自分で頼んだんだから、ちゃんと行きなさいよ。バスクだって、治療やら後始末やらで暇じゃないんだし」
「治療……」
イルミナの口から出たその言葉に、セロは思わず苦いものを感じてしまう。それが表情に出ていたのか、どうやら彼女はその意味するところを悟ったらしく、その手で自分の右足を軽く叩く。
「私は大丈夫よ、リンちゃんがちゃんと治してくれたし……まだ気にしてるの?」
小さく苦笑する彼女に、胸のどこかが、ぎしり、と軋む感覚が生まれる。言うなれば、罪悪感だろうか。まるで質量を持ってのしかかってくるようなそれが、セロを俯けさせる。
「……忘れられるわけ、ないだろ」
その視線の先には、己の手。この手で、暴走した自分はイルミナを傷つけたのだ。
幸いと言っていいのか、致命傷になるような深手を負わせることはなく、結果として右足を浅く斬りつけただけだと聞いた。
それでも、彼女を攻撃したことに間違いはない。自分を救おうと危険に飛び込んだ彼女を、傷つけてしまった。たとえ怪我が少なくても、味方だった人物から攻撃されたという事実は、どれだけ彼女の心をなぶったか分からない。
何度目したかも分からない謝罪に、いずれも、イルミナは笑って「気にしていない」と言ってくれた。にもかかわらず、その後ろめたさはなくならない。
何度謝罪の言葉を口にしようが、その過去が消えるわけではない。
それを分かっていても、気が付けば「ごめん」と口にしてしまっている。そして同じように、セロが口を開きかけた時だ。
パン、という乾いた音が、それを遮った。
顔を上げれば、両手を打ち合わせた状態で立つ少女が目に映る。
「はいはい、謝んないでよね。もう聞き飽きたっての」
「いや、でも……」
もごもごと口を動かすセロの前に、びしっ、と指が突きつけられる。
「なっ……」
「謝るくらいなら、次は暴走なんてしないように気を付けること。いい?」
そう口にして、にっと口元を綻ばせるイルミナ。
それが彼女なりの思いやりなのだと気が付いたセロは、「ありがとな」と苦笑するしかなかった。
■
アースラに帰還した後、セロは訓練室へと向かった。
本来ならば、任務終了後にはウルスの元へ報告に行くべきなのだが、「仕方ないから、任務の報告は私が行く」という彼女の言葉に甘えさせてもらったのだ。
階段でフロアを上に上がり、廊下を少し進めば個人に与えられた部屋のそれよりも大きな扉がある。それを抜けた先、二層に分かれた上階部分、観客席に目的の人物の姿を見つける。
狼型の獣人、バスク。二メートルを超える巨体を小さな客席に収めた彼は、眼下の闘技場を心配そうな面持ちで眺めていた。
声を掛けようと近づいてみれば、さすが実力者というべきか、すぐに視線がセロへと向けられる。
「ああ、セロか……随分と早かったな」
「おう、報告はイルミナがやってくれるみたいだからな。先に来たんだ」
その言葉に、バスクの目が僅かに細められた。狼の顔だからか、すごむとやたら迫力がある。本気ではないと分かっていても、背に嫌な汗が流れてしまう。
「……あまり、イルミナ様に迷惑をかけるな」
「わ、分かってるって! 次は俺が行くさ」
その視線から逃れようと、咄嗟に別の話題を探すセロ。
視線を下の階層に向けた時、訓練で動き回っている二人の人物が、自分の知っている顔ぶれであることに気が付いた。
二人の内、喜々とした表情で立ち回っている女性はエレナだ。拳や蹴りを受け流しながら、時折相手に何か指示をしているようにも見える。
そしてその相手に、セロは驚かずにはいられなかった。
「なぁ、何でリンがあそこにいるんだ? 確か、治癒魔術しか使えないはずだろ?」
セロの視線の先、エレナの師事を受けているのは薄桃色の髪をした人物。セロの後にアースラに入社した、エルフの少女だ。確か本人の話では、治癒魔術しか使えないという話だったはずである。
問いに、バスクも困ったように頭を掻く。
「以前まではな。しかし、彼女は身体強化魔術の習得を希望している。俺のように硬質化などじゃなく、一時的に身体能力を上昇させる魔術なら、適正は関係ない」
「いや、でも……」
セロは再び、その視線を広い訓練場へと向ける。
リンの動きを見ていれば、心配性のバスクでなくても不安になるだろう。彼女の動きは、まだまだ拙い部分が多い。拳でも蹴りでも、一撃を繰り出すごとに、大きく重心が揺らいでいる。相手であるエレナはそれを考慮して反撃はしていないようだが、それがなくとも勝手に倒れてしまいそうだ。
「何でまた、そんなこと考えたんだ? 治癒魔術師って、わざわざ自分で戦う必要ないだろ」
「……私とエレナ様も、必死に止めたんだがな。しかし言っても聞かんのだ、足手まといになりたくない、とな」
「足手まといって……」
その言葉に、セロの脳裏にこの前聞いた報告が浮かび上がる。記憶が正しければ、、リンが教団の魔術師の捕えられ、人質になったとあったはずだ。
「で、でも……それはエレナさんが助けたんだろ?」
「その時はな。だが、いつもそれができるとは限らない」
「だったら、俺達がもっと強くなればいい」
その言葉に、一瞬バスクの動きが止まる。僅かにその目が見開かれるも、しかしそれはすぐに、小さな苦笑へと変わった。
「……お前も、言うようになったものだ。入った時期で言えば、リンと大して変わらないというのにな」
「最近はどっかの獣人に、散々しごかれてるからな」
「ほう? なら今日は少し変えてみるか」
「……は?」
どういうことかと尋ねるよりも早く、バスクが椅子から立ち上がった。手をメガホンか何かのように口に添え、未だ眼下で訓練を続けている二人へと呼びかける。
「――お二方、今日はそのあたりにしておいてはどうでしょうか」
すると、動きを止めたエレナ達がセロ達の方へと視線を向けた。
「えー、私はまだ大丈夫なんだけどな」
その言葉通り、額に汗一つ浮かべていないエレナが口を尖らせる。
その隣のリンはというと、バスクの声が掛かった途端集中が切れたのか、両手を支えにしゃがみこんでいた。その色素の薄い肌に、いくつもの汗が玉になって滲んでいるのが見て取れる。
しかし、その目はまだやれると主張していた。
「私、も……まだ、大丈――」
「いやいや、根詰め過ぎだって。リンは休め」
「でも……」
「んー分かった。私もちょっとだけ休むからさ、な?」
「う……そういうことなら」
エレナの説得でようやく折れたのか、渋々と言った様子ではあったが、リンも上階へと通じる通路へと向かうのが見える。
その様子に、セロだけでなく隣のバスクも吐息した。
「何か、姉と妹みたいだな」
「エレナ様もリンが気に入ったらしい。あの子は真面目で、頑張り屋だ。……どこぞの誰かとは違って」
「……不真面目で悪かったな」
「別に誰とは言っていない。自覚があるのなら直せ」
「ンの野郎……」
今日の訓練は覚えてろ、と一人闘志を燃やすセロ。すると後ろに会った通路から、エレナ達が歩いてくるのが見えた。いつの間にか、リンはエレナに背負われている。
「よ、セロ。巡回ご苦労さん」
「……お疲れ様、です」
「ありがとうございます。リン、お前本当に大丈夫か?」
「……不甲斐ないですぅ」
それだけ言うと、少女はくてっ、とエレナの背に顔を埋めた。
「はは……まぁ、一日中身体強化使ってりゃ、そうなるわな。けど、結構いい線いってるんだ。バスクもそう思わないかい?」
「ええ、短期間であれだけ動けるのは見事です。もう少し時間が掛かると思っていましたから……それで、話は変わるのですが」
リンを椅子に横たえるのを手伝いながら、バスクの視線がエレナの方を向く。
「エレナ様、この後もう一戦いかかがでしょうか?」
「おっ、珍しいね。バスクが相手してくれるなんて」
「あ、いえ……相手は私ではなくてですね」
そこで、バスクの視線がセロの方を向く。どこか面白がるような、そんな悪戯っぽさが見え隠れしているのは気のせいだろうか。
――まさか。
嫌な想像に、思わず反射的に右足が半歩下がった。左足が続かなかったのは、その前に腕ががっちりと掴まれていたからだ。
目の前に、どこか恐ろしい笑みを浮かべたエレナの顔がある。さっき怒っていたイルミナと同じくらい、いやそれ以上に怖い。
「……そういえば、この前バスクの次は私と、って約束したもんねー」
「い、いやあの時はエレナさんがどれくらいすごいのか知らなかったですし」
「うんうん、じゃあその身をもって体験してみようか」
先ほどの組手のせいか、ほんのりと上気した顔が、ゆっくりと近づいてくる。
「も、もう充分噂は聞いてますから! 何でも素手でバスクをボコボコに――」
「んー、でも噂じゃあ分からないこともいっぱいあるんじゃないかなぁ?」
ひえっ。
せめてもの抵抗に精いっぱい上体を逸らすも、もう限界だ。ついに、互いの吐息が感じられるほどの距離にまでなってしまう。
「セロ君には、もっともっと、私のことを知って――」
「――それ以上やると、イルミナさんに嫌われますよ」
思わず怖気だつほどの冷めた声が、エレナの動きを止めた。
「う……それは困る。じゃ、先行ってるよん」
苦笑し、エレナはそそくさと下のフロアへ降りて行ってしまう。一方で、完全に停止しかけていたセロの思考はが、数秒後にようやく活動を再開する。
「……サンキュ、リン」
「いえ、セロさんの満更でもなさそうな顔が苛立たしかったので」
「そ、そんなわけないだろ⁉ なぁバスク!」
リンの、じとっとした視線から逃れるべく、バスクに助けを求めるセロ。しかし、返ってきたのは「さっさと行け」という言葉だけだった。
とぼとぼと通路へ入っていく黒衣の背が見えなくなると、リンは横になったままバスクを見上げる。目の前の獣人は、厳めしい顔をして腕組みしたまま動く気配もない。
「……今の、バスクさん的には止めなくてよかったんですか?」
「むしろくっついてしまえばいい。ヤツの実力は認めるが、イルミナ様との仲は別の話だ」
「……イルミナさんも大変ですねー」
この場にいない少女の苦労を想い、リンは盛大に溜め息を吐いた。