対峙━5
白衣に身を包む、狂気の男。その双眸は今、眼前の標的を嘲るような色を宿している。彼が見下ろす少女は、大きく裂けた脚から血を流しているため、動く力はほとんどない。
一歩、また一歩と彼の足が踏み出されるたび、這って逃げようとする彼女との距離は確実に縮められていった。
「何故拒絶するのです? 受け入れれば、あの少年と共にいられるというのに」
「くっ……止まれ!」
イルミナは振り返り、ドクターに銃を向ける。その銃口には、巨大な水の塊が形成されていた。アクアリボルバーの弾丸を、何十発も凝縮したものだ。死なない程度に威力は調節してあるが、直撃すればタダでは済まないだろう。
どんな実力差であれ、ここまで詰められた距離で発砲すれば防御する時間はない。どれだけ発動の早い魔術だろうが、それさえも壊して弾丸は突き進むだろう。
にもかかわらず、ドクターは歩みを止めない。寧ろその表情には面白がるような笑みが張り付けられている。
「おやおや、恐ろしいお嬢さんだ。私のようなただの人間相手に、そんな物騒なものを向けるかね」
「……本当に撃つわよ」
「どうぞ、お構いなく」
その口が開かれた瞬間、イルミナは引き金を引き絞った。ずしりとした重い音が生まれると同時、砲弾にも等しい弾丸が放たれる。
だが、男にそれが直撃する寸前。
それは、まるで元々存在しなかったかのように掻き消えた。
「そんな……何を――!?」
困惑と同時、イルミナは後方に何かを感じ取った。吐き出しかけた言葉を切り、彼女は勢いよく背後へと体を捻る。
「〈水壁〉!」
咄嗟に作り出した水の壁。しかし完成する前のそれを突き破り、何かが少女目掛けて突き進んでくる。
それは、先ほどの水の砲弾。着弾する衝撃を感じた時には、少女の体は宙へと吹き飛ばされていた。
「か――は……」
殺風景な天井と床が、目まぐるしく入れ替わって上下の感覚をなくす。気が付けば固い床に強かに打ち付けられていた。うつ伏せに倒れる彼女に、弾けた弾が雨のように降り注ぐ。
「はっ! 随分と無様な姿ですねぇ」
男の手がイルミナの髪を掴み、彼女の顔を強引に上へと向けさせた。その痛みに、彼女の朦朧としていた意識が呼び戻される。
「抵抗するだけ無駄です。それに、どうせあなたは十年前にこうなっているはずだったのですから」
「十年……前?」
「ええ、よく覚えているんじゃないですか? それとも、自分を道具のように扱った者達のことなどもう忘れていますかね」
ドクターの言葉に、イルミナの瞳が揺れる。男の手から逃げようとするも、その手は彼女を更に引き寄せた。
「痛ッ――離せ!」
少女の右手に、瞬く間に空気中の水蒸気が凝固する。形成されたのは、青の短剣。肩口を狙って振るわれたそれは、惜しくもあと数センチというところで男の手に止められた。
「っと、今のは危なかったですねぇ」
飄々とそう抜かす男。一拍の間を置いて、ドクターの後ろから何かが床に落ちた音が響く。一瞬の内に、イルミナの手からは短刀が失われていた。
背後から現れた自らの弾丸。一瞬で奪われた武器。立て続けに起こる説明がつかない現象。考えられるとしたら一つの可能性しかない。
――〈転移魔術〉。
馬鹿げた考えであることは、魔術に精通したイルミナ自身が良く知っている。何故ならそれは、長年にわたってエンシャントラの高名な魔術師達が研究中の技術である。しかし未だスタート地点と何ら変わらぬところにいるという話だ。
だが、今彼女たちが相手をしているのは常識という理から外れた連中。彼らの前では常識など、砂上の楼閣よりも脆い。
それを、改めて認識した。させられてしまった。
「おや……随分といい表情になりましたねぇ」
顔を覗き込むようにして見るドクターの言葉に、イルミナはハッとする。自分がどんな表情をしているか、分からなかったのだ。
「絶望、恐怖、諦め……ククッ、いい顔だ、実にいい。このまま人形にでもしてしまいたいくらいですよ」
唐突に、男がその顔を近づけてくる。その歪んだ瞳が湛えるは、異様な光。イルミナには、それが自分を飲み込もうとしているのではないかと感じられた。
人の為りをした悪魔が、彼女の耳元で囁く。
「――あの時も、そんな顔をしていましたよぉ……?」
「――ッ!?」
瞬間、イルミナの中で封印されていた記憶が堰を切ったように流れ出す。真っ白な記憶の断片が色を持ち、映像として再生されていく。
アンデッドと化した村の者達が。
命を削るようにして彼女を守る、バスクの姿が。
そして目の前で死にゆく、父が。
「いや……やめて……」
かろうじて残った理性が口を動かすが、体に力が入らない。穴の開いた風船のように、入れた先からどこかへと抜けていく。ドクターの先ほどの言葉通り、人形になってしまったかのようだった。
髪を掴んでいた男の手が開かれ、イルミナはその場にへたり込んだ。それでも、男の眼光はイルミナを捉えたままだ。イルミナ自身、そこから目を逸らせずにいた。
「本当のことを教えてあげましょう……あなたが知るべき、真実を」
男の言葉と同時、頭の中の映像が乱れ、再び鮮明になる。それは、イルミナの知るものとは違うものだった。
赤いローブの男が放った氷の杭。それが、バスクの体を刺し貫いた。
その傍らでは、その場にいなかったはずのエレナやリンが、喜々とした表情で助けに来た王国騎士達を地に沈めていく。殺戮される男達の中には、父の姿もある。
嘘だ、と叫びたかった。頭のどこかでは、偽物の記憶だと理解している。しかし、それ以外の全てがこれを真実として受け入れようとしていた。
「あなたは無力だった。大切なものを壊され、踏みにじられ、この世界を恨んできた」
「いや……」
耳を塞ぐが、悪魔の囁きは遮れない。それ自体が魔術であるかのように、容易く隙間を縫って奥深くへ侵入してくる。
「思い出せ。悲しみを、苦しみを。さすれば我らが神は、汝に救済を差し伸べよう。縋れ、そして――堕ちていくといい」
滲み始めたイルミナの視界が、薄い笑みを浮かべた男の顔を捉える。しかし、既に彼女からは抵抗する気配が失せていた。
思考力を完全に奪われた状態。人形との唯一の違いは、虚ろに揺れる瞳程度のものだ。
その細い首筋に、注射器が押し当てられる。
それと、同時。
「――ぐあッ!?」
男の絶叫が、部屋に響いた。その体が転がり、床の上をのたうつ。白衣の右肩部分が、滲みだした血によって赤く染まり始めた。
「あ――」
催眠から解放され、視界が徐々に色を取り戻しつつある。
気が付けば、目の前にはドクターと自分を隔てるように佇む黒い背があった。透き通るような白の髪に、対照的な黒衣。彼女が再開を切望した少年の後ろ姿だ。
先ほどのように幻ではないかと、イルミナは何度も瞬きを繰り返す。しかし、彼の姿は消えない。
言いたい言葉は山ほどある。会えたら何と言おうかと、来るまでに何度も考えた。それらが全て消えてしまっていた。文字通り、頭の中が真っ白だ。
それなのに。
「よぉ、大丈夫か?」
振り返り、少年はその顔に笑みを浮かべた。いつもと変わらぬ、その笑みを。
「……バカ、遅いっての」
彼と会えた喜びに、悲しくもないのに一筋の涙が零れた。だが、それをすぐに拭う。
彼に見せるのは、泣き顔ではないと決めている。
それがきっかけになったように、一つの言葉が浮かび上がった。絶対に言おうと思っていたものだ。
「セロ……」
「うん?」
大きく息を吸い、一呼吸置いた。それが、どうしても必要だった。
「――おかえり」
それを聞いた少年の頬が、僅かに赤くなった――気がした。照れ隠しなのか、頬を掻きながら視線を逸らすセロ。しかし、イルミナの耳には届いた。
「ただいま」という、彼の小さな呟きが。
一つ浮かぶと、あれだけ出てこなかった言葉が次々に浮かんでくる。それを、少女はそっと胸にしまった。
今である必要はない。これから、時間をかけて言葉にしていけばいいのだから。
「ぐぅ……もう少し、だったのですがね」
二人の視線が鋭いものへと変わる。その先には、傷口を押さえながらよろよろと立ち上がる男。あまり痛みには慣れていないのか、その額からは汗が滲んでいる。
「しかし何故、動けるので……? あの様子なら、もう戻らぬと思ったのですがね」
「さぁな。お前のところのボスに聞いてみれば分かるかもしれないぜ」
「……そうかあの男、勝手な真似を」
内で燻る激情を、毒のように吐き出す白衣の男。〈真紅の王〉に仕える者にはふさわしくないその言葉に、セロの眉が顰められた。
「お前……」
「――ドクターッ!」
唐突に、どこからともなく幼さが残る声が響いた。その声が発されたのと同じくらい突然に、白衣の男の傍らに巨大なトカゲに乗った少年の姿が浮かび上がる。
赤いローブを纏っていることから、おそらく教団の者だろう。ただ、何故かそのローブはボロボロだった。切断された後に加え、焦げて黒ずんでいる部分もある。
その少年の出現に戸惑ったのは、セロやイルミナだけではなかったらしい。
「イズル……? どうしたのです、その姿は」
怪訝そうに目を細める白衣の男に、銀髪の少年は息も荒く叫ぶ。どうやら興奮のあまり、イルミナ達の存在には気が付いていないらしい。
「どうしたもないよ、何で上の階にゼイナードがいるのさ!? あの馬鹿、僕のことまで燃やそうとしたんだぞ!」
「……あぁ、それは災難でしたね。いや、念を入れて、と思って呼んだのですが」
少年の訴えを、面倒そうに聞き流そうとする男。その二人のやり取りの中で、聞き逃せない名をイルミナは耳にした。
「ちょっと待って……ゼイナード? 何であの男が!?」
リンの村を破滅に追いやった、火の魔術の使い手。セロと協力して捕縛し、エルフの警察組織にその身柄を渡したはずだ。しかしその男が、ここに来ているという。
二人のやり取りに介入したことで、彼らの視線がイルミナの方へと向く。「誰?」という視線を向けてくる少年を気にせず、白衣の男は薄い笑みを浮かべる。
「捕まったと聞いたので、取り戻してきました。あの耳長族に任せるべきではありませんでしたねぇ、弱すぎますよ」
「お前……ッ!」
ぎり、とセロが歯を軋ませる。イルミナにも分かった、あの誇り高きエルフたちはもうこの世にはいないのだろうということが。
「まぁ、今日はこのあたりで引きましょうか。ゼイナードは勝手に帰ってくるでしょうし……クロード!」
ドクターは振り返ると、未だ激しい戦いを続けている老戦士の名を呼ぶ。部屋の奥、閃光を散らしながら剣戟を放つ男は、何とかロイの一撃を捌いたところだった。
「……ここまで、ですか」
悔しそうにそう漏らし、彼はドクターのところまで一息に跳躍する。彼も所々に攻撃を受けた跡が目立ち、ドクターはそれを冷たく眺める。
「無理をするなと言ったでしょう。あなたの力は、接近戦には向いていない」
「申し訳ない。あの男が現れたので、つい」
「……次からは、慎むようにお願いしますよ」
言うが早いか、三人の足元から魔方陣が放射状に伸び始めた。おそらくは長距離転移のための魔方陣だろう。方陣魔術のそれよりも紋様が簡素で、込められた魔力は少ない。
不意に、何かを思い出したようにドクターの顔が不気味に歪んだ。
「そうだ、言い忘れるところでしたよ。あなた方に、いいお知らせです」
「……何だと?」
セロも、ロイも、イルミナも。嫌な予感に、思わず身構える。その男が発する言葉が、文字通りの良いことであるはずがないことを、三人は十分すぎるほど分かっている。
その三人が浮かべた表情に、満足げに頷くドクター。たっぷりとその表情を眺めてから、、その言葉は告げられた。
「――近いうちに、我々は王都エンシャントラを落とします」
「なっ……!?」
この時ばかりは、普段感情を表に出さないロイでさえもその顔に驚愕を現していた。つまりは近い将来、戦争が発生するということ。
五年前に終結したかのように思われた生者と死者の争いが、再び始まるのだ。
いつの間にか、展開された魔方陣が完成していた。弱々しかった光は、すでに眩い輝きへと変化している。
「ククッ、人間の町がアンデッドで溢れるのですよ……さぞ良い眺めになるでしょう。せいぜい残り少ない命を楽しむよう、国民に伝えておいてください」
「逃がすか……!」
イルミナの視界に、広がりつつある魔方陣目掛けて駆けるロイの姿が映る。ここでドクターを討ち、戦を未然に防ごうという考えなのだろう。
接近するロイの姿に、銀髪の少年が反応した。巨大トカゲから飛び降り、視線鋭く標的を睨む。
「〈見えぬ狩人〉」!」
下された命令に忠実に、僕は咆哮とも奇声とも取れる叫びを発しながらロイに跳び掛かった。
単純な軌道で迫る巨体が、鍵爪を振り上げる。一方、騎士は恐れる素振りも見せない。
逆手に構えた刀が、ロイ目掛けて振り下ろされた一撃を弾く。素早く刀を翻すと、そのモンスターを両断した。飛沫となって散る体液と断たれた胴が、空中で元の魔力へと分解された。
「あ、もう一ついいこと教えてあげるよ。上の二人、早く助けに行かないとヤバいかもよ?」
余裕の笑みを浮かべ、少年は天井の方を指す。上の階ではバスクとルイスが戦っているはずだった。しかし、今はそこにゼイナードまでもが加わっているという。
イルミナはバスクも、ルイスも、高い実力を有していることを知っている。だが、それでもあの男に敵うかどうかと言われれば、こう答える。
万全の状態で戦ったとしても、良くて引き分けだろう、と。それほどまでに、あのゼイナードという男からは計り知れない実力を感じ取っていたのだ。自分たちに見せた力は、その一端でしかないのではないかとさえ疑っている。
少年の言葉が終わるのを見計らったかのように、閃光が広間を蹂躙した。
「ぐっ……」
最早攻撃にも等しい莫大な光量が、三人の視角を奪う。光から守るための腕を下げた時には、既にドクターたちの姿はなかった。
遅れて、轟音が施設全体を揺るがす。爆風が広間の壁を吹き飛ばし、連鎖的に続く爆発がその周辺の床や天井を瓦礫と化した。
「クソッ! あいつ、施設ごと吹き飛ばす気かよ……なぁイルミナ! バスク達もここに来てるんだな?」
「うん。エレナさんも、リンちゃんもいる」
「そっか……」
自分のことを思ってくれている者達がいることを知り、セロの鋭い視線が揺れた。だが、それも一瞬。すぐにその表情は引き締められる。
「他にも教団の奴らがいるなら、助けに行かないとな。早く――」
セロの言葉は、そこで途切れる。
磨き上げられた刀が、その首に押し当てられていたからだ。黒衣の少年の背後には、いつの間にかロイの姿があった。抜き放たれた刀と同じような鋭さが、その目には宿されている。
「そう、教団の者はここで排除すべきだ。疑わしい者も全て」
「ロイ……あんたはッ!」
今はそんなことをしている場合ではないだろう。あと数分で、施設が完全に吹き飛ばされるというのに。
イルミナが抗議の声を上げるも、彼は取り合う気もないらしい。その剣呑な雰囲気は、一瞬の迷いさえ見せない。
しかし、刀を向けられたセロ自身もその状況に慌てている様子はなかった。振り向き、ロイの視線と正面から対峙する。
「……この前、俺のこと騎士に入れたいとか言ってなかったっけ」
「暴走などするなら話は別だ。戦っている最中に、後ろの仲間まで警戒しなければならないなど御免こうむる」
「もう、あんなことにはならない」
きっぱりと、暴走の危険を否定するセロ。イルミナも、根拠はないがそう確信している。
二度目の爆発が、反対側の壁を吹き飛ばした。
「確かに、今はあの生意気な面に戻っているが……保証はできまい?」
「なら俺は、お前を倒してでもアースラに戻る」
瞬間、二人の間の空気が一気に張りつめた。
教団と対峙していた時よりも凄まじく、荒々しく。大気が、引き伸ばされた。
イルミナは、心配そうに少年を見上げた。実力で言えば、その差は圧倒的だろう。しかし勝てないはずの格上に、微塵も怯まない少年の意志がそこにはっきりと表れている。
一指の動きでさえも火蓋を落としかねない、そんな緊張の中。
「……いいだろう」
ロイが、刀を下ろした。それをゆっくりと鞘に納め、戦闘態勢を解く。
「今は、お前の言葉を信じよう。だが少しでも妙な真似をすれば、斬る」
それだけ言うと、足早にもと来た階段へと向かっていく。遠ざかっていくその背を見ながら、セロが深いため息をついた。
「いやぁ、危なかったなー」
「危なかったじゃないでしょ!? 本当に戦ってたらどうするつもりだったのよ!」
「まぁ、普通に負けてただろ」
その言葉に、盛大に肩を落とすイルミナ。
「ちょっとだけ、かっこいいと思ったのに……」
その小さな呟きも聞き逃したセロは、彼女の近くで片膝を突く。その意図が分からず、首を傾げるイルミナ。
「何、してるの?」
「いや、その脚じゃ動けないだろ」
「……え?」
そういえばとイルミナはある事実に辿り着く。片脚だけならまだしも、両方の脚を怪我しているイルミナは、セロに運んでもらうしかないのだ――どうやって?
ふと、彼女の脳裏にあるイメージが浮かんだ。俗に言う、「お姫様抱っこ」。
途端、イルミナの顔が紅潮する。
いや何を考えているのだこんな時にしかしでも嫌というわけでもなくうわぁあああ――と、こんな感じの心境だった。
思えば、セロと初めて出会ったときは倒れた彼を自分が彼を背負ったし、バスクとの模擬戦で気を失った時も自分が運んだ。それが、逆の立場になったわけだ。ただ、彼女にとってはそんな単純なことではない。
意図せず、恥ずかしさのあまりにぎゅっと目を瞑っていた。
すると、彼の手が自分を持ち上げたのが分かった。
期待と恥じらい。ごっちゃになった二つの感情を抑え、ゆっくり、ゆっくりとその目を開け。そして――。
「……ねぇ、一つ聞いていい?」
「うん? あんまり喋ると舌噛むぞ」
「そうなんだけどね……何で私、肩に担がれてるのかな?」
目を開けた先に映ったのは、少年の顔ではなく無機質な床。所々めくれ上がり、抉られ、原形を留めぬ戦いの跡である。
「いや、こうすればもう片方の手が動かせ……」
「せめて背負えぇえええッ!」
目一杯勢いをつけられた少女の膝が、少年の背にめり込む。
「ぐおっ!? お前、元気いっぱいじゃねーか! 歩け!」
「うるっさい!」
広間に響く、他愛ないやり取り。
束の間、それが二人にとっての辛い戦いを忘れさせてくれた。
■
上階へと向かう階段を、会話もなく駆ける三人。響く音は、階段を上る三人の足音と、下から追いかけてくる爆発音だけだ。先頭にロイ、その後ろにイルミナを背負ったセロが続く。
もうすぐバスク達の元に着くというその時。イルミナが、沈黙を破った。
「ねぇ、おかしいと思わない?」
「おかしい……?」
何か変わったことはないかと周囲を見るが、薄暗い通路が続くだけの状況に変化はない。彼女の言う意味が分からず、セロは聞き返す。先を行くロイも、視線を此方に向けていた。
「もしゼイナードがいるなら、煙とか、炎の熱とか、そういったものがあるはずじゃない?」
言われてみればそうだ。もう一度セロは前を向くが、黒煙も、炎の残滓さえも感じ取れない。むしろ、別のものを感じ取っていた。
「冷気……?」
気のせいか、進めば進むほど温度が下がっている気がする。
「……急ごう」
イルミナの表情に、先ほどまでの穏やかさはない。異変を察知し、すでに戦士のそれへと変わっている。 彼女の吐き出した呼気が白く揺蕩うのが目に入った。
「見えたぞ、気を引き締めろ」
ロイの低い声が、警戒を促す。三人の前に、出口がシルエットとなって近づいてきたのだ。
そして、三人がそれを潜った。
セロの目に飛び込んできたのは、予想とはまるで異なる光景だった。
「どうなってんだよ……これ」
思わず、といった様子でその当惑が零れる。背負われているイルミナも、二人の前に立つロイも、言葉には出さずとも抱いている感情は同じだった。
炎魔術を扱うゼイナードと闘っているのならば、リンの時と同じように火の海が眼前に広がるものだと考えていたセロ。しかし、実際に広がる光景は、全くの別物。
色で言うならば、紅ではなく透き通るような青。
展開された火炎は、悉く凍り付かされていた。炎だけではない、天井も、壁も、床も、視界に収まるすべてが凍結されている。
「そこを――どけってんだよぉおおおッ!」
呆然と立ち尽くすセロの耳に、聞き覚えのある叫びが届いた。部屋の中央、かつてイルミナと二人で倒した男が、確かにそこにいた。怒りの形相で、勢いよく手を振り下ろす。
人間など容易く飲み込んでしまえるような、巨大な火球。部屋を埋め尽くすほどの数のそれが、天からセロ達の方に降り注いだ。
「ヤバい……!」
咄嗟に右手を突き出すセロ。しかし黒い霧を出現させる前に、別の力が空間を過った。
灼熱の礫。三人を蹂躙する寸前で、それが音もなく凍り付いていく。
直後空中で静止し、儚い破砕音と共に、砕ける。
「凍結……氷の、力……」
消え入るような少女の声。それが、ある事実をセロに気付かせる。
「まさか……!?」
ゼイナードと自分たちの間にゆらりと立つ、赤い影。
赤の教団。氷魔術の使い手。それが意味する者は、たった一つ。
イルミナから故郷を、親を奪った男。
それが、そこに立っていた。
「あいつが……」
ゼイナードとは違ってフードを目深に被っているため、その顔は窺えない。だが、立っているだけで漂うその存在感が、強者であることを明確な事実として伝えていた。
「イルミナ様に……セロ!? よくぞ御無事で!」
部屋の隅から聞こえる、別の声。此方も、セロは聞き覚えがある。
そこに、壁にもたれかかるようにして立つバスク、そしてその傍らに立つルイスの姿があった。
懐かしく思える狼型の獣人。ボロボロの彼に、セロは急いで駆け寄る。バスクの顔には、揶揄するような笑みが浮かんでいた。
「こんなところまで迎えにこさせるとは……手間を掛けさせる男だ、お前は」
「悪かったよ、小言ならアースラでたっぷり聞くって。それより、だ」
「あぁ、分かっている。いや、分かってはいないんだが……この状況のことだろう?」
バスクの視線が、部屋の中央で戦う二人へと向けられる。
「俺とルイスが戦っていると、あの炎使いが現れた。危うくやられそうになった時に来たのが、あの氷の男だ。なぜこうなっているのかは、分からん」
「あいつの目的は……?」
イルミナの問いに、バスクは首を振る。しかしその後、ですが、と口を開いた。
「興味がないのか、それとも敵とも見なされていないのか……どうも、我々を攻撃する意図はないようです」
「そんなはずは……ッ!」
感情を破裂させようとするイルミナ。以前のように感情のまま動くほどではないが、彼女の目に憎しみが浮かんでいるのは確かだ。
セロの肩を掴む彼女の手に、少女の者とは思えないほどの力が入る。
「落ち着けよ。気持ちは分かるけど、襲ってこないなら好都合だ」
「ああ、急げ。施設が破壊される前に逃げるぞ」
「はぁ!? 何の音かと思えば、この爆発ってそういうことかよ!?」
言うが早いか、ルイスが即座に立ち上がる。その脚が動く前に、彼の肩を大きな手が掴んだ。
「待て、俺に肩を貸せ」
「嫌だよ絶対重いだろお前!?」
「お前の毒のせいで動けないのだろうが」
「くっそ……何であの白髪がイルミナちゃん背負ってんのに、俺はこんな獣を……」
しばらく悩み、渋々と言った様子でバスクを立ち上がらせるルイス。どうやら、根は悪い男ではないようだ。
セロとイルミナを先頭に、バスクとルイスが続き、ロイが殿を務める。爆発の黒煙に包まれ始めた部屋を、できる限りの速さで一行は駆ける。
「……イルミナ」
「ごめん……分かってる。今は、時間がない」
そう言いながらも、彼女の視線はあの男に向けられたままだ。
「――次は、必ず……ッ!」
「クソッたれが! 逃がすかよぉ!」
ゼイナードが彼らに向けて再び放った火球は、一瞬にして蒸気に包まれた。結果は、先ほどと全くの同じ。その間に、彼らの姿は通路へと消えた。
苛立ちを、獣のように咆哮として発散させる。
「あぁあああ何なんだよテメェはよぉおおお!」
「……どうやら、最近のガキは口の利き方も知らねぇらしいな」
彼らの姿が見えなくなったのを見ると、男はゆっくりとフードを外す。手入れのされぬぼさぼさの乱れ髪。覇気のない目。しかしそこには氷よりも冷たく、鋭い光が宿されている。
「教団の奴じゃねぇな? 名乗れ! 俺の邪魔をしやがったからにはどうなるか、分かってんだろうなぁ」
「どうにかする? お前が、俺を裁いてくれると? ハッ……無理だな。俺を裁けるのは、一人だけだ」
ウルスは、野禽が翼を広げるように、ゆっくりとその左右の腕を広げる。
「どうやら、うちの社員をなかなかに可愛がってくれたみたいじゃねぇか」
「あぁ? それがどうした――」
不意に、ゼイナードの言葉が途切れる。体が凍り付いたように動かなくなっていたのだ。
対峙するウルスの目が、瞬く間に緋色に染まっていく。
「――絶望に、沈め」
■
その日、樹海の深奥で、巨大なクレーターを作るほどの爆発があった。原因は不明とされる。
〈終焉戦争〉。誰かが名付けた、生者と死者の戦争。その前哨戦がこの場所であったことは、一握りの人間しか知らない。