対峙━1
「――なぁ、もういい加減諦めろって」
そんな言葉が広間に生まれ、どこへともなく消えた。その言葉を発した本人には、それが相手に聞こえているのかどうかすら分からない。
ルイスの前で、既に白毛の獣人は立っているのがやっとの状態だったから。
満身創痍。特に酷使された両腕は未だ流れ続ける血によって朱に染まっている。はっきり言って、もう意識さえあるのかも疑わしい。それでも、ふらふらと立つ姿はいっそ不気味にすら思える。
案の定反応のないバスクの姿に、ルイスは思わず溜め息を吐いていた。
「お前、よく頑張ったよ。途中でロイは行っちまったけど……その状態でよく耐えたもんだ」
すたすたと、奥へと続く通路へと歩む。バスクの近くを通ることになるが、もう反撃も来ないと判断したのか、警戒はしていない。
すれ違いざま、意味はないと理解していながらも再び声をかけた。
「まぁお前ら全員、運が良けりゃ軽い罰で済むから――」
そこで寝ていろ。そう続けられるはずの言葉は、不意に途切れた。
――狼の、刺す様な視線とぶつかったから。
「――ッ!?」
殺される。
慌てて飛びずさり、獣人から距離を取る。
だがバスクに追撃するような素振りはなかった。ただ、あれ以上進めば殺されていただろう。ありえないと理解している。動くだけで寿命を縮めるほどの怪我だ。動けるはずがない。
それでも、数々の死線を潜って来たルイスだからこそ、自らの戦士の勘というものを信用していた。
「聞こえてんのかよ、おい。お前それ以上動くと本当に死ぬぞ」
バスクからの反応はない。再びの沈黙を選んだその男からは、先の異様な目の光も消え去っていた。ひょっとするとあれが見間違いではないかと思えてしまうほど、静かだ。
しかし、そんなはずはない。
「お前な、主を生かすことが、従者の務めじゃ……」
「――生きるとは、どういうことだと思う?」
「あ?」
要領を得ない突然の問い。面を上げたバスクの表情には、似つかわしくもない苦笑が浮かべられていた。
「確かに、ここで俺が引けば生き延びられるだろうな。もしかするとイルミナ様も助かるかもしれんが……セロは死ぬ。お前のところの団長殿がそうするだろう」
「……それが、何だってんだ」
確かに、このままいけばあの少年は殺されるだろう。しかし、それはこの獣人が抵抗して変わることではない。その結果、無駄に消える命が一つ増えるだけだ。
別に自分には相手を無駄にいたぶる趣味もないし、バスクに殺したいほど恨みがあるわけではない。一人を切り捨てることで死なずに済むなら、それに越したことはないではないか。それがルイスの考えだ。
その心の内を読んだように、バスクは小さくかぶりを振る。
「セロが居なくなった後のイルミナ様は、見るに堪えなかった。泣いて叫びたかったのかもしれんが、立場がそれを許さんのだ。何を見ても、何を聞いても、その心は枯れていた……何も感じず死んだように生きる、はたしてそれは生きていると言えるか?」
「生きてりゃなんだっていいだろ……そのために死ぬとか、ただの馬鹿だぜ」
「俺は、死ぬつもりはない。イルミナ様と、そう約束した」
「……あぁ、そうかい」
もう何を言っても無駄だ。
それならば、答えは一つ。
「――だったら、せいぜい気が済むまで頑張るんだな!」
自らの得物である鞭を、哀れな獣人目掛けて振り下ろした。
■
「――はぁ!? 尾行だと!?」
イルミナ達が施設へと向かう前日。空に浮かぶ月が最も高く上がったあたりのこと。
ルイスは目に前の男が発した言葉をオウム返しに叫び返していた。
十分ほど前、ルイスは寝ようして宿舎に帰ったところだった。
この宿舎は王国騎士のために用意されたもので、当然騎士であるルイスやロイもここで生活している。騎士は八つの師団に分かれており、それぞれの師団ごとに一つずつ宿舎が与えられている。ロイとルイスは第一師団所属であった。
薄暗い通路を歩き、部屋の扉を開く。
そこは両脇に二段で組まれたベッドがあるだけの簡素な部屋。四人用のもので、ロイとルイスはそこを使う四人の内の二人だ。ちなみに左側の下段がルイスの場所で、ロイはその上である。
その日は訓練の後に任務はなく、はっきり言って暇だった。普段はそういう日はイルミナのところに遊びに行く。まぁ大抵殴られるか蹴り飛ばされるかのどちらなのだが。
「……ま、行けるわけねぇわな」
壁に寄りかかり、雲一つない黒の天蓋を眺める。遮られることのない月明かりに思わず目を細めた。
正直言って、今の彼女の姿を見たくなかった。その原因の一端を自分が担っているということもあり、後ろめたい気持ちが拭いきれない。
「はっ……俺、こんなキャラだっけ?」
自分を知るものが今の姿を見れば、どう思うだろうか。そんなことを考えていた矢先。
「……何をしている」
声に、思わず振り返っていた。
「……月に照らされる俺様。かっこよくね?」
「余計馬鹿面が映えるだけだ」
ルイスの言葉を一蹴し、扉の前に立つ人物――ロイが溜め息を吐く。
「今日は何をしていた」
「何って……訓練終わったら暇だったし、街の酒場で時間潰してたけど」
「なら、休養は十分だな」
その先に待つ言葉を察し、ルイスは苦い表情を浮かべる。いつものパターンだ。
「……楽な任務だと言いなぁ」
「残念だったな、そうなる可能性は低い」
一呼吸おいて、ロイはこう告げた。
「――明日、あの水使いの女を見張るぞ」
「……は? ちょっと待てよ、俺そんなこと聞いてねぇぞ!?」
「今言った。聞こえたのなら準備しておけ」
確かに、作戦を前日に伝えられるなんてことは日常茶飯事だ。だが、自分が言いたいことはそんなことではない。
「そうじゃねぇって! 俺が言いたいのは、あのセロとか言うヤツは見逃す話じゃなかったのかってことだ」
ロイはセロに、王国から離れるならば手は出さないと言っていた。イルミナと同様、ルイスもその言葉を信じていたのだ。
そんな自分に、ロイは呆れたような目を向ける。「お前までそんな言葉を信じていたのか」と言われているようだ。
「考えてもみろ、教団はやつを仲間に入れようとしていた。敵の戦力が増えるかもしれないのに、お前は手をこまねいて見ているつもりか? 第一、次に理性を失った時にやつが俺の言葉通りにするはずがない」
そう言って、彼は丸められた羊皮紙を投げて寄越した。何かと思い開いてみれば、上位傭兵会社に向けられた、セロの討伐要請だ。それも、下に見えるサインは王のもの。
こんなものをいつの間に用意したのか。そう尋ねようとした矢先、ロイが口を開いた。
「偽物だ」
「はぁ?」
「勘違いするな、一応ジェイン様からの了承は得てある。ただ二日後に行う討伐作戦が偽りのものだという意味だ」
何故そんなことをする必要があるのか。訳が分からず困惑する一方の頭に、ロイの説明が流れ込んでくる。
「期限を二日後にすることで、奴らが行動を起こす日を明日に絞る。後は奴らについていけば、おのずとセロの居場所も分かるだろう? 上手くいけば教団の拠点も掴める。そういうことだ」
「……あ、そう」
「気が進まないか?」
当たり前だ。そう返したかったが、第一師団副長という立場がある。優先すべきは私情より騎士としての責務。
無理やりいつもの笑みをつくる。
「お前が正しいと思うんなら、付き合うぜ」
それを聞いたロイがどんな表情をしているのか、ルイスには暗くてよく分からなかった。たとえ見えたとしても、いつもの透徹したような目が見えるのだろうと、そんな気はしていた。
■
「――〈不可視化〉」
ルイスの振り上げた鞭が、まるで中空に溶ける様にして消えていく。
名の通り、不可視化の魔術。それを鞭に掛けたのだ。本来は隠密行動の際に使用されることが多い魔術ではあるが、戦闘にも使える汎用性の高い魔術として知られている。
加えて攻撃力を強化する魔術に、遠心力が追加された一撃は、鋼鉄のように硬質化させられたバスクの皮膚さえも容易く引き裂く。
そうして放たれた一撃は、さながら獲物を見定めた大蛇のよう。死角となっているバスクの側頭部目掛けて襲い掛かる。
だがバスクは人間と違い、あらゆる感覚が鋭敏に研ぎ澄まされている。
僅かな風切り音で攻撃を察知し、バスクは後方へと跳んだ。
避けた一撃が、その鼻先を掠めて通り過ぎる。すかさずそれを片手でつかみ取るバスク。そのまま引きよせられれば、カウンターの要領でルイスに逆転の一撃を加えることができる。そう踏んでの行動だった。
しかし、この時点で意識が朦朧としていたからか、バスクは自身がミスを犯したことに気が付かない。
彼は完全に失念していた。自らが対峙している相手も、天才という領域に名を連ねる存在だということを。
「――ッ!?」
生存本能。それが得体のしれない、しかし明確な危険をバスクに知らせた。
風切り音は、まだ続いていた。
避けたはずの大蛇の牙。
しかし、そうして体勢が崩れたバスクを追随するように、もう一匹の蛇が放たれていた。
「もう一本……!?」
目前まで迫った一撃。避けるには気づくのが遅すぎた。
ならばとれる道は一つ。
捉えた鞭を手放し、即座に左腕を硬質化。直撃の寸前で、それを鞭の軌道に割り込ませた。
たった一度の判断ミス。その代償は決して小さなものではない。
赤い飛沫が上がるのと、何かが砕ける音がしたのは同時だった。
「ぐ――あああああッ!」
かみ殺しきれない痛苦が、灼熱となってバスクを襲った。今までのどの表情よりも、大きな苦しみが表れたたそれは、何が起こったのかを雄弁に物語っていた。
「……今の、骨が逝ったんじゃねぇの?」
鮮血を吸い赤黒く染め上げられた得物を手元に戻すルイス。その鞭はちょうど真ん中の辺りで二股に分かれ、双頭を成している。
「これは幻覚なんかじゃねえ。魔力を使って、正確に同じものを再現してんのさ」
まるで何でもないことのように言うが、実際にはそれほど簡単なことではない。難度だけでいえば、セロやゼイナードが使った魔方陣による魔術――方陣魔術に匹敵する。当然威力はそこまでではないが、精緻な魔力コントロールが要求されるものだった。
天才。
その言葉は、一昔前ならば「三大英雄」、元王国騎士団長のレイ、獣人の王やエルフの長などに当てはめられる。今ならばロイやエレナなどがそうだろうか。
しかし先天的に恵まれた才能を持たずして、彼らに比肩するだけの力を得る者もいる。
属性魔術の才を持たずして生まれた男。武芸のみを追及し、属性魔術を使えることが前提とさえ言われる騎士にして、副団長という名声を得た異端児。
ルイス=ロアルド。畏怖を、尊敬を込めて、人々は彼をこう呼んだ。
「恵まれざる天才」と。