傭兵会社アースラ━1
意識がだんだんと浮上していく。
先ほどの目覚めとは違い、不快感を抱かせる痛みも周りを満たす液体もない。
「ん……?」
薄く瞼を開く。その先にあったのは自分の顔を覗きこむ、透き通るような青い瞳をした少女の顔。成人しきっていないあどけなさが残る顔に、今は若干警戒しているような表情が浮かべられている。
高級な金色の糸のような髪は後ろで束ねられており、動きやすさを重視したような紺色の服を身に纏っている。胸の部分に何かの紋章のようなものがあるところから、何処かの制服なのだろうかと見当をつける。少なくとも学生のそれとは違うようだが……。
「気が付いた?」
その少女は彼が横たわるベッドの、すぐ脇の椅子に座っていた。
少年はゆっくり上体を起こすと、辺りを見回す。
小さな一室は白を基調に成されており、そこには少年が寝ているものを含め、六つのベッドが二列に分けて置かれていた。
薬品によるものか、空気には仄かに鼻につくような匂いが混じっている。
「……ひょっとして、どこかの病院かな?」
少年の問いかけに対し、目の前の少女は首を横に振る。
「私の所属する傭兵会社、『アースラ』の医務室。あの研究所で倒れた君をここまで運んできたの」
アースラ、と聞いても少年の記憶に重なる点は特別なかった。まず傭兵会社というのも聞き覚えのない単語だ。
「取りあえず、君の正体が分からないから武器はこっちで預かってる。さっきみたいに暴れられたら困るからね」
「さっき、って……」
少し記憶を手繰ると、先ほどの戦闘が鮮明に頭に甦る。見たこともない化け物に襲われている少女達を見て、少年は自分が助けなければいけないと思った。
迫りくる異形に対処するイメージが不意に頭に浮かび、何故かそのイメージを現実のものにできるという確信があった。
だから、やった。
根拠はなかった。だができる気がしたのだ。
さて、と少女が一呼吸おいてから別の話に移ろうとする気配を見せた。話すうちに彼女の警戒心が少しづつ解けてきたようだ。
「私はイルミナ=ルシタール、イルミナでいいよ。これからいろいろと君に聞いていきたいんだけど、いい?」
「う……まぁ、そうなるよな……」
此方のぎこちない反応に不思議そうに首を傾げるイルミナを尻目に、少年は内心頭を抱えていた。理由は至って単純なものだ。答えられない――否、分からないから。
何故なら彼は、目覚める前までの記憶がないのだから。
何故あの場所にいたのか。何故あのような力を持っているのか。当然のごとく予期される質問に、彼は答える術を持たない。
(やばい……記憶がないので何も分かりません、じゃ怪しさ丸出しじゃないか……!)
イルミナが一つ目の質問――当然こちらの名前についてだろうが――をしようと口を開きかけた時。
二人のすぐ近くにあった、どちらかと言えば白に近いグレーの扉が、ゆっくりとスライドして開いた。
「あぁ、ここにいらっしゃいましたか」
少年は、丁寧な言葉遣いと共に入ってきた人物の方を見やる。
そして、固まった。
またしても少女――イルミナに怪訝な目を向けられるが、彼はそれにすら気が付いている様子はない。それ以上に、目の前の現実に目を、意識を奪われていた。
「犬が、喋った……」
少年の驚きをより正確に表わすとすれば、決して喋っただけが理由ではない。顔以外は犬というより人間そのもの。
二本の足で直立した身長は二メートルほどある。イルミナの服と同色のジャケットとズボンを身に着け、本来人間であれば肌が見えるところからはふさふさとした体毛が見え隠れしていた。しかもその肉体はかなり鍛え上げられているようで、腕の太さは人間の太腿ほどあるのではと思われた。
少年の言葉に目の前の人物は苦笑しながら「一応狼なんだが……」と零し、少年に手を差し出した。
「君のことは報告で聞いている。私はバスクというものだ。イルミナ様を助けてくれたこと、感謝する」
「あ、あぁ……どうも」
戸惑いながらも流暢な人語と共に差し出された、岩のように固く巨大な手を握り返す。獣の顔をしていながら、バスクの表情は実に豊かなものだった。
「そんなに驚かなくても……。ひょっとして獣人を見たことがないとか?」
イルミナの言葉に含まれている真実。獣人とやらはどうやらありふれた存在だということ。
「ウソだろ……こんなのがたくさんいるのか」
少年の驚きようからそのようだと判断したのか、呆れたといわんばかりの顔でイルミナが続ける。
「どこか辺境の村とかの出身? なら分かるんだけど、でも君のあの強さは村人なんかじゃ到底……」
「ちょっ……ちょっと待て!」
少年はどんどんと自分を怪しい存在に昇華していくイルミナの言葉を遮る。かといってうまい言い訳などは思いつくはずもない。適当に誤魔化して後々ばれた場合、下手をすればさらに立場が悪くなる。
少年は観念したというふうに顔を伏せ、ぽつりと呟いた。
「記憶がないんだよ、あの研究所で目覚めてから」
そして、カプセルで目覚めてからのことを滔々と語った。
話を終えた途端、沈黙が部屋を支配する。
イルミナとバスクの二人、いや、一人と一匹の反応は少年が予想した通りのものだった。話を聞いている間、ずっとぽかんと口を開いたまま少年を見つめ続けていたのだ。
やがて脳内での情報処理が終了したのか、イルミナがその沈黙を破った。
「じゃあ君は……自分のことも、あの場所にいた理由も分からないってこと?」
「いや、名前は……多分だけど、分かる」
そう言うと少年は自らが纏う漆黒の衣類を指でつまんだ。
「カプセルの中では何も着ていなくてさ。それを壊して出た時に気が付いたんだけど、その装置に『セロ』って書いてあるトランクが付いてたんだ。中にこの服が入ってた」
次いで、剣もその近くにあったのだと付け加えた。
「研究所という場所から考えるに……何かしらの実験の被検体として扱われ、その過程で魔術によって記憶を消去されたというのが一番考えられる線ですかね」
バスクの推測に、さらにイルミナが補足を加える。
「さしずめ、アンデッドに襲撃されて研究は中断されたってとこでしょうね。そして〈ゾンビ〉は知性が低いから、カプセルの中の君は標的とみなされなかった、と」
まぁ予測の域を出ない話ではあるけどね、という言葉で彼女は自らの補足を締めくくった。
二人が考えられる他の可能性について話している間、少年――セロはある決断を迷っていた。記憶がないとばれることを懸念して今まで聞くに聞けなかったことがある。それを知らないことは今後、取り返しのつかないことになるのではないだろうか。が、今更聞いてもいいものかと躊躇しているのだ。
しばらく悩んだ挙句、セロは決心する。
「あのさ……ちょっといいかな?」
二人が話を中断し、セロの言葉に耳を傾けてくれているのが分かる。聞けば即座に何でも答えてくれそうな気がした。
記憶がない。そう言われれば相手は親身になっていろいろなことを教えてくれるだろう。
ならば、こう言われたらどうか――常識を知らない、と。
「アンデッドとか魔法とかって……何?」
結果――再びの沈黙が、狭い一室に舞い降りた。