覚醒━7
細い路地を全速力で駆ける、一人の少女。喘ぎに近い呼吸に合わせ、月明かりに照らされた金の髪が揺れる。荒い息遣いは、アースラからここまでの長駆のみが原因ではない。
「ッ……!」
ぐわん、と視界が歪み、足が(もつ)れそうになる。
それでも少女は歯を食いしばり、闇に沈みかけた意識に必死に縋りつく。
まだ倒れられない。
未だ麻痺毒が抜けきらない体を鞭打ち、制止をかける仲間の声を振り切ってここまで来た。そうしなければ、取り返しのつかないことが起こってしまいそうな気がしたから。
それが何かは彼女自身も具体的には分からない。だが、それが悪い方向へ事態を動かす引き金になるように思われてならないのだ。
今までは少年が護送されるであろう、エンシャントラ北部に聳える王城に向かっていた。しかし、その途上で闇夜に煌めく光を見た。静寂を震わせる轟音を聞いた。
何かが起こっている。しかも、今自分が追っている少年に深く関係した事態が。
直感からそう判断した少女――イルミナは、王城からその場所へと目的地を変更する。恐らくは現在いる場所からそう離れていないだろう。
彼女が路地を抜けて大通りに飛び出した時、『それ』が視界に映し出された。同時に、人のものとは思えない咆哮が大気を震撼させる。
しばらく前に王の政策によって整備された、エンシャントラを貫く大通り。そこに穿たれた幾つもの巨大な穴。何者かの攻撃によって残骸と化した護送車。
それらを背景に、王国騎士団の二人が立っていた。そして、その先には二人に対峙するようにして咆哮の主が佇んでいた。
「セ……ロ……?」
彼ではないかと思える影。だがそれは断定にまで至らない。
透き通るような白髪に、見慣れた黒衣。それらは少年を表すもっとも特徴的なものであるが、それ以外がそれをイルミナが知る少年とは異なる者にしていた。
元々白かった肌は褐色に変色し、前傾した姿勢で佇むその姿はまさに獣そのもの。
そして何よりもイルミナに衝撃を与えたのは、その顔の上で輝く二つの光。
目だ。まるで鮮血を滴らせたかのように紅く濁ったそれは、リンの村で対峙した男のそれを彷彿とさせた。
「うお!? 何でこんなところに君が!?」
呆けたような表情で立ちつくす此方に気が付き、ルイスが目を見開く。その右隣に立つロイは、ちらりと視線を向けただけだ。
「ねぇ、あれセロなんでしょ!? 一体何がどうなって――」
「――ガァアアア!」
再びの咆哮。同時に、金属がねじ切れるような快音が響く。
「……おいおいマジか」
それが何の音かいち早く察したらしいルイスが、苦々しい表情を浮かべた。その直後、小さな影がセロの背後に転がる。それが何かを理解した時、思わずイルミナも絶句した。
それは、彼を拘束する際に用いられたと思われる、捕縛錠。
王国騎士団特注のそれは、確かに破壊すること自体は不可能ではない。腕力に自信を持つものならば、魔術で筋力を最大まで強化することで容易く粉砕できるだろう。
だが、あくまでそれは拘束されていなければ、の話である。それが取り付けられた時点で魔術自体が使えなくなり、加えて力が入りにくいよう後ろ手に拘束されているのだから、それを破壊することなどありえないのだ。
その不変であったはずの常識を、たった今目の前の者がぶち壊して見せた。たったそれだけの出来事が、その存在の異質さを如実に物語っている。
始まりは突然。
何の前触れもなく、まるで中空を掻くようにしてセロが片腕を大きく振るう。その動作に合わせるようにして、巨大な黒渦が、三人を飲み込まんと生み出された。
「そんな――ッ!?」
明確な敵対行動。驚愕しつつも、イルミナは寸でのところで反射的に左へ跳ぶ。巨大な破砕音が、豪風を伴って通過したのを肌で感じとった。
見ると、一瞬前まで彼女がいた場所が幅数メートルにわたって抉り取られている。まともに受けていれば怪我では済まないだろう。
「あの男……ふざけた真似を!」
その破壊痕の向こう。大地に伏せていた二つの影のうちの一つ。それが跳ね起き、イルミナが止めるよりも早く、セロ目掛けて突進する。両足に魔力を付与する光彩と同時、その肉体は爆発的な加速を得る。
移動強化魔法、『迅雷』。その速度はまさに雷。イルミナでさえ、刹那にその姿を一筋の紫電として視認するのが精々だ。
瞬時にセロの死角に回り込むロイ。そして刀を振りかぶり――その目が驚きに見開かれた。
不気味に擡げられた首。
二つの紅い光が彼を見据えていた。
「ぐっ……!」
元々は無力化を目的として、腕か足に狙いを定めていた刃。その切っ先が跳ね上がる。
横薙ぎに振るわれた刀。狙うは少年の首。確実に死を齎すことのできる、頸動脈。纏う雷の魔力によってその太刀筋は見えないほどに早い。
防御のためか、少年は黒い霧を生成。だが、あくまで実体のない霧だ。刃を止めるほどの力はない。
そう判断したのか、ロイの握る刀の速度が上昇する。そして刀が霧を通過した瞬間。
「なっ……!?」
刀が失速した。まるで切っ先に鉛の塊でもぶら下げられたように、目に見えて斬撃の速度が落ちたのだ。しかし、違う。刀自体に目に見える変化はない。
変化は見えないところにあった。刀に込められた魔力。そして併用した筋力を上昇させる魔術。霧を通過した瞬間、それが解除されていたのだ。上位者の戦いにおいて、魔力を使用しない剣戟など、攻撃の範疇に入らない。
案の定、次の瞬間には刀はセロの手で止められていた。
ロイが刀を引き抜こうとするよりも早く、セロが動いた。捉えた刀ごとロイの体を中に放ったのだ。片腕で苦も無く人間の体を投げる、凄まじい膂力。
宙で支えを亡くしたロイ。舌打ちをし、何とか中空で体勢を立て直して着地。
ロイ、そしてルイスとイルミナの二人に挟まれる形になったセロ。そしてその顔は――二人の方に向けられていた。
「グッ……アァアアアア!」
雄叫びと共に、真っ直ぐに二人目掛けて地を駆ける。その速さは〈迅雷〉ほどではないにしろ、凄まじいものがあった。
「俺のトコに来るとは、いい度胸してるぜ!」
猛獣の如く迫りくる少年目掛けて鞭を構えるルイス。しかしイルミナが両者の間に割って入るように躍り出る。
「私が止めなきゃ――!」
このような状況になった理由は分からない。だが、少年が好き好んで王国騎士団と事を構えるとは考えにくい。
先ほどのロイとの短い戦闘の最中、イルミナの目に留まったのは赤く混濁した双眸。そこに理性はなく、垣間見えたのは少年を突き動かす何らかの衝動だけだった。
暴走。彼女の脳裏に真っ先に浮かんだ言葉はそれだ。ロイと互角に渡り合えるだけの力が、彼の限界を突破し、彼の理性を押し流した。
何かがあったのだ。この場所にたどり着くまでの間に、自分の知らない何かが。
――だが、今はそれを問いただすよりも少年を止める方が先だ。
そう判断したが故に、彼女はルイスの前に飛び出した。正面にセロを据えると同時に、ベルトポーチに右手を伸ばす。
取り出したのは指ほどの大きさをした褐色の瓶。器用に指先のみでその栓を外し、水平に傾ける。
あくまでも目的は捕縛。
「封じよ――〈水牢〉!」
紡がれた言葉。小瓶を満たす透明な液体が、それに応じる。
宙を滑るように、緩い弧を描いて進んだ液体は疾駆する少年の頭上へ。
彼が反応するよりも早く、それは変化を見せる。空気中の魔力を吸収し体積を激増させたそれは、彼を囲むようにして広がる。
不定形である液体が、鉄以上の硬度を持った固体へ。瞬時に小型の檻へとその姿を変えた。既に相当の勢いがついていた少年の体は、頭から格子へと激突。鈍い衝撃音に、怒りの咆哮が続いた。
魔力を最大限まで高めることで、下手な金属よりも硬化させた檻だ。そう簡単に壊すことはできないだろう。
格子が前後にゆすられる音を背後に聞きながら、イルミナは鋭い視線をルイスへと向けた。「ひっ」と掠れた悲鳴を漏らしながら身を縮ませる優男。両腕を顔の前で交差させて防御の姿勢を取る。
「麻痺毒を使ったのは悪いと思ってるよ、いやマジで! で、でもさ、あれはイルミナちゃんのことを思ってのことで――」
「そんなの今はどうでもいい! 教えて……ここで何が起こったの?」
恐る恐るといったように、合わさった腕の隙間からルイスの怯えた顔がわずかに覗く。
「……殴らない? 本当に?」
「アンタの態度次第」
見せつけるようにして固く握られた拳を掲げる。瞬間、男の体が跳ね上がり、直立不動の姿勢に。胸を張り、両手の指先を真っ直ぐ伸ばす。教本の手本にもなりそうな「気をつけ」だ。
一瞬本当に殴ってやろうかと思わないでもなかったが、時間の浪費だと判断したイルミナはその衝動を抑え込む。
「えーとですね……少年の護送中、赤いローブを纏った謎の老人に襲撃されましたであります! 孤軍奮闘、私めが――私めがその男を撃退するも、続いて現れた男の介入によって捕らえることは叶いませんでした! ゴメンナサイ!」
ふと、ゆっくりとした足取りで歩いてきた男の方に振り向き、イルミナは小さく首を傾げる。
「……ねぇ、こいつ思いっきり殴っていい?」
「我慢しろ。あとで俺が代わりにやっておく」
ロイだ。視線はこちらとは別の方向に向けられている。イルミナも追随する。案の定、そこには未だ重音を響かせる檻があった。
「何かを注入された……ように、俺には見えた」
「それで、セロはああなった……?」
ロイは答えない。代わりに、右手に持つ刀の握りに力を込める音が微かに生じる。その意図に、イルミナはいち早く気が付いた。視線を鋭いものへと変える。
「ちょっと待ってよ! まさか殺す気!?」
それがどうした、と言わんばかりの視線が彼女に向けられる。視線と同時、相反する意志が交差した。
「それしか方法がないだろう。お前が元に戻す方法を知っているというのなら話は別だが」
「そんなの――ッ」
分かるわけがない、と続く言葉は、背後の強く大地を踏み抜く音で掻き消された。
即座に振り返る。
映るは喉元目掛けて振りかぶられた腕。その先に黒衣に包まれた四肢、次いで赤く濁った目。
そして、少年の体が通り抜けられるほどの空間が開いた鉄冊。同時、イルミナは自分の過ちに気が付いた。
彼の魔術は純粋な魔力のみを消滅させるのだと考えていた。だからこそ、檻という形で実体を持った魔術には対処することができないと踏んだ。しかし今になって理解する。その力は、魔力を媒介にしたものならばあらゆるものを消滅させることが可能なのだと。
――反則だろう、そんな力は。
呆れすぎて苦笑も浮かばない。
頭では取るべき行動が明確にはじき出されている。魔術同様、反則じみた域にいる打撃を防ぐ術は、イルミナにはない。回避しなければ、死。
が、肝心の足が自分のものではなくなってしまったかのように動こうとしない。自分に危害を加えようとしているのがセロである、という事実が行動を阻害していた。
背後で二人が動き出した気配がする。しかし、その行動はあまりにも遅すぎた。
「あ……」
鎌状の形に曲げられた手が、イルミナに到達する――寸前、それは動きを止めた。
時が止まったかのような静寂。聞こえるのは胸の上下によって生まれる自らの浅い呼吸のみ。
そして――。
「う……あ……ッ!」
苦しげな呻き。彼女の僅か数センチ手前で停止した手に震えが走り、それはもう片方の手と共に彼の顔を覆う。指の隙間から漏れ出る赤光が、徐々に薄れていくのが分かる。
僅かな沈黙。ゆっくりと手が下ろされる。
そこには少困惑したような少年の顔があった。目の輝きは失せ、理性が戻っている。僅かに動いた口から洩れたのは、抑えきれない不安に震えた声だった。
「俺は……何を……」
「それはこっちが聞きたいくらいなのだがな」
声と共にロイが進み出る。その刀の切っ先がセロの首へと動いた。動揺のためか、少年は突きつけられた武器に怯んだ様子はなかった。
「覚えていないのか? お前は俺たちに襲い掛かった。冗談にしては度が過ぎるほどにな」
「襲った……俺が……?」
嘘だ。
少年の口が動く。その形からイルミナは彼が何を言いたいのかは理解できた。が、それが音となることは叶わなかった。
恐らくは本当に自分が何をしていたのかを覚えていないのだろう。彼の表情から、イルミナはそう判断した。そこに浮かべられた困惑は、意図的に出せるものではない。
いや、もしかしたら微かには記憶の残滓のようなものが残っているのかもしれない。だが、その程度なのだろう。
「俺は……どうすれば――?」
「今、ここで俺に斬られろ」
三人の視線が一斉にロイに向く。当然、真っ先に抗議したのはイルミナだ。国を守ることで王に忠誠を尽くそうというのは分かる。しかしそうだと言っても限度というものがあるだろう。
「そんなの無茶苦茶じゃない! あんた、自分が何言ってんのか分かってんの!? セロだってあんたが守るべき国民の一人のはずでしょう!」
ロイは額に右手を当て、苛立ちを隠そうともせずにため息を吐く。「お前もか……」という呟きもかすかに聞こえた。
「俺が守るものは国だ。一人の人間と十人の人間、どちらを取るかと言われれば、俺は迷わず十を取る――例え、その一人が誰であったとしても、な」
「でもよ、もしかしたらもう二度とああはならないのかもしれないぜ?」
イルミナの後ろから、既に緊張感が抜けきった声が発される。ルイスだ。
「まだよく調べてもいねぇことなんだし、それを見極めてからでもいいんじゃねぇの?」
「甘いな。今はあの二人が去ったからだったからよかった。が、次こいつが襲い掛かってきたのが戦闘中だったとしたらどうする? 俺は常に背後を注意していなければならないなどという状況は御免だ」
それに、と続けるロイ。虚無を湛えた目が、イルミナの方へと向く。
「分かっているのかどうか知らんが、いちばん危険なのはお前なんだぞ?」
「……分かってる」
答え、ロイの視線を受け止める。しかし。
――本当に、分かっているのだろうか。
確かめるように、イルミナはセロの方へと左手を伸ばす。
ゆっくり、ゆっくりと伸ばされた腕は、果たして――。
一瞬前の記憶が、脳裏をよぎる。
信頼していた少年から発された、紛れもない純粋な殺意。
命をかすめ取るべく振り上げられた右手。
そして、紅く、邪悪に輝く双眸。
「――ッ!」
イルミナは見た。
微かに、少年の元へと伸ばされた左手が震えているのを。
それは、動きとしてはほんの僅かなもの。だが、答えを表わすのには十分過ぎるものだ。
震えを止めようと右手で右の肘の辺りを押さえる。だが、それを嘲笑うかのように小刻みな振動は止まる兆しを見せない。
自分は、目の前の少年を恐れている。
それをはっきりと理解した時、不意に眼前の景色が滲んだ。その滲みは先の麻痺毒によるものではない。手先から冷えていくような感覚ではなく、その逆。感情が熱となり、体の奥からこみ上げてくる。
滲みが薄れると同時、頬を何かが伝っていく感覚。その時になって、自分が泣いているのだと気づく。
ぼやけていた視界が、はっきりとその境界を取り戻した。そしてそこに映った少年の顔は――諦めたような笑みを浮かべていた。
「いや、いいさ……結局は自分を取るよな」
「え……?」
後ろでルイスがわずかに呻いた気がしたが、イルミナがそれを気に掛けるよりも早く、少年はロイの方を向いた。
「この街から出ていくよ。もう……戻ることはないと思う」
ほう、とロイの眉が僅かに持ち上げられる。
そして、しばしの熟考。
「まぁいいだろう。もうエンシャントラに立ち入らないというのならば、今回は見逃してやる。この馬鹿二人の情けに感謝することだ……だが、次は斬る。覚えておけ」
「……分かった」
短い応答の後、その視線がほんの一瞬、イルミナの方へと留まる。
「あ……」
それだけだった。こちらに背を向け、足が踏み出される。既に夜は疾うに過ぎ、東の空が白くなり始めていた。残された漆黒の中へと、その背が溶ける様にして薄れていく。
伝えなくては。
イルミナは口を開く。少年を呼び止めるために、それは誤解なのだと告げるために。
心の中にある言葉は、しかし、声となることはなかった。
迷った。
僅かな時間とは言え、アースラでルイスが自分の前に現れ、アガノフが来ていると告げた時、自分と少年を秤にかけた。その事実が、躊躇いとなって掛けるべき言葉を心に中に押し留める。
遂に、少年の姿が完全に闇に飲まれて消えた。
しばらくすると、簡素な煉瓦造りの住居の合間から朝日が差し込み始め、頬の涙を乾かしていく。
少年が潜った闇。薄暗い路地の中で作り出されたそれは、依然として濃く蟠っていた。