覚醒━4
「同胞……だって?」
彼我の距離はおよそ十数メートル。しかし普通聞き取れるはずがないその距離で、その老人は自分の呟きに微笑むことで肯定の意を示した。
同胞。同じような言葉を聞いたことがある。
リンの村を襲った炎魔術の使い手、ゼイナードとの戦いの後に彼が自分に対して仲間という言葉を使っていた。その時はエルフが彼を連行したために問い詰めることができなかったが、この男からそのことを聞けるかもしれない。そして、おそらくはそれが「自分が何者なのか」という答えへの足掛かりになる。
「私や火の坊やと同じように、あなたも『赤の教団』に加わるべき存在です。私はそのお迎えに参上しただけのこと」
「『赤の教団』……それがあんた達の組織の名前か」
つまり、アンデッドを支配している者達は組織立って動いているというわけだ。そして、その組織の頂点に真紅の王が鎮座している。紅いローブは彼らの信仰の証ということになるのだろうか。
イルミナからの説明ではその言葉は出てこなかったが、彼女が意図的にそうしたということは考えにくい。そんなことをしても何のメリットもないだろうから。ならば、この組織の存在を知らなかった、という可能性の方が高い。
組織の名を明かしても、男は狼狽した素振りを全く見せなかった。その顔にあるのは慈愛に満ちた微笑み、ただそれだけだ。
「詳しいお話はまた後でということで……取りあえず、一緒に来ていただけませんか? 我らが偉大なる神の名に誓い、悪いようには致しませんので」
「勧誘にしちゃあ、かなり強引なんじゃないのか? 自分の名も明かさないで、それはないだろ」
老人は「困りましたね」と渋面を作ってみせた。不思議なことに、この男がやると困り顔でも柔和な雰囲気が崩れない。もしわざとやっているのだとしたら、かなりの曲者だ。
「私の名でよろしければお教えいたしましょう。クロード、と申します――まだ、駄目ですか?」
「……さすがにそれだけじゃあな」
もちろん、どれだけ情報など話されてもセロに『赤の教団』とやらに加わるつもりはない。ただ敵のことを、ひいては自分のことを詳しく知りたいだけだ。
僅かな沈黙が流れた。その刹那にクロードという老人が何を思ったのかは知る由もない。こちらをただ微笑と共に見つめていただけなのだから。
そして長い溜め息に次いで、その答えが発された。
「……あまり望むところではありませんでしたが、実力行使、とさせていただきましょうか」
「ッ……!」
言葉が終わらぬうちに、硬直するほどの圧力に襲われた。クロードの顔には未だ笑みが張り付いているが、それはただの仮面に過ぎない。その奥に潜む狂気が、剣呑なオーラとなって叩きつけられたのだ。
反射的に身構えようとするも、後ろ手に付けられた拘束具がけたたましい音をたててそれを妨害する。ルイスが口にしたように、どうやらこのが魔力の放出に干渉しているらしい。何度か黒煙をだそうと試みたが、全て徒労に終わった。
状況は最悪。まず全力で戦えたとしても、クロードがあのゼイナードと比肩するならば勝利は難しいだろう。魔術も使えない状態でそのような者を相手取るなど、丸腰でライオンに挑むようなものだ。
「万事休すってやつか……」
そんな絶望的な時に、この状況を作り出した張本人の声が耳に入った。
「いきなりどデカいのぶっぱなしやがって……びっくりしたじゃねぇか」
その男は片手で乱れた金色の髪を整えつつ、もう一方の手で束ねられた鞭を弄びながら、ふらりとセロの近くまでやってきたのだ。身構えることはおろか、緊張感すらも感じさせないその登場の仕方に、セロは怒りを通り越してただ呆れるしかなかった。
だがこの現状を好転させるにはこの男が必要だ。錠をかけたのがこの男なのだから、その鍵を持っているのもこの男だということになる。
「おい! えっと……ルイスだったよな? これ外してくれよ、これ!」
彼に背を向け、両手を拘束する手枷をアピールする。が、こともあろうに、この男はあからさまに嫌そうな顔をしたのだ。
「……それ、絶対俺怒られるじゃん。どうせあれだろ、あいつ倒したらお前逃げるんだろが」
「ぐっ……分かった。ちゃんとまた捕まってやるから」
自分でも馬鹿なことを言っていると自覚しながらも、諦めるわけにはいかない。何せこっちにとっては死活問題だ。
「本当かよ……胡散くせぇな。まぁ確かに死なれても困るんだけどよぉ」
口では何かと言いつつも、髪を弄るのを止め、ルイスは隊服のポケットを探り始める。が、すぐにその動きが停止し、再びその手が別の場所へとのびる。そして、再びの硬直。
「おい……まさか……」
嫌な予感を覚えつつセロが聞き返すと、ルイスの顔がゆっくりと此方に向けられた。そこには爽やかな、しかしどこか馬鹿っぽさを垣間見せるあの笑みが浮かんでいた。
「悪ぃ、さっき吹き飛ばされた時にどっかやったわ」
「はぁあ!? どうすんだよ、俺は!?」
「ん、しらね」
「テメェ、あとでロイとか言うやつに言いつけて――」
「――そろそろ、よろしいですかな?」
完全に蚊帳の外になっていた老人の声が、二人のやり取りを遮った。その声にはわずかな苛立ちが含まれていた。自分を前にして口論などはじめられたら当然だろう。
はっきり言って今まで何もしてこなかったのが奇跡だ。
「まぁ見てろって。俺様がぱぱっと片付けてやるからさ」
へらへらと笑いながらセロの前に進み出るルイス。そこまで言う実力があるのか、はたまた相手の実力が分からないのか。未だにはっきりとはしないが、今は彼に賭けるしかない。
ルイスは慣れた手つきで鞭を解き、その感触を確かめるようにしてそれを握る。そしてうまく手首を使いながら、上から下へ振り下ろした。まるで生き物のように空中で蠢き、周囲に乾いた音を響かせる。
「俺は年寄りだからって手加減はしねぇぞ? 痛い目に合わないうちに降参した方がいいんじゃねぇか」
「おや、こちらを気遣っている余裕があるのですか? 神に楯突く愚者は、やはりどこまでも愚かですね」
微笑という仮面が次第にずれ、もはやその眼にははっきりと狂気の色が見て取れる。敬虔などというレベルはとうに超えている。最早狂信の域だ。恐らく『真紅の王』とやらから「死ね」と言われれば、喜んでその命を投げ出すだろう。
「……邪神崇拝もここまで来ると感心するぜ、ったく」
思わず漏れたと言わんばかりのルイスの呟き。それが、戦いの幕開けとなった。
クロードの両眼がまるで血を注いだかのように染まりだし、異様な輝きを放ち始めたのだ。それにより、セロはクロードとのやり取りで幾度となく感じた既視感に襲われた。
紅く輝く双眸。それはゼイナードと恐ろしいまでに酷似していたのだ。
先ほどの紳士然とした雰囲気はすでに無い。後ろに撫で付けられた髪は逆立ち、その面は鬼気迫るものへと豹変していた。
「神を冒涜するとは、愚か! その大罪、貴様の命ごときで償えると思うな!」
そう言い放つ彼の周辺、何もないはずの中空に、古代文字めいた曲線と直線が複雑に入り混じったものが浮かび上がる。形象文字のように見えて、しかし何に似ているわけでもない。
それは現れた時と同じように、不意に眩い光を放った。
「マズい!?」
そこまで見たセロは、反射的に左へと身を投げ出した。それよりもわずかに早く、ルイスも反対側に跳躍したのを辛うじて視認した。刹那の後、直径一メートルほどの光が柱となって地に突き刺さる。
再びの大地を揺るがす轟音。その音は鼓膜どころか、全身を震わせるほどの衝撃となって背後から叩きつけられた。
振り返れば真新しいクレーターの向こうで、止まることなく地を駆けるルイスの背、そして彼の後を追うようにして降り注ぐ光が見える。まさに紙一重と言える距離を光が通過していく。彼が蹴った瞬間その場所が焦土と化していく様は、お世辞にも心臓にいいとは言えない。
「クソッ、あいつ鍵何処やったんだよ!」
文字通り手が出ない状況に歯噛みしながらも、セロは慎重に辺りを見渡す。だが、それらしき物は全く見つからない。欲しい時に探している物がなかなか見つからないというのは、どうやらどこの世界でも変わらないらしい。
一際大きな衝撃に振り向くと、ルイスが反撃を試みているところだった。
「取りあえず……そこから降りろッ!」
繰り出された鞭がまるで獲物を捉えた蛇の如く中空を這う。だが、どう見ても長さが足りない。両者の距離は十メートルは離れている。対して彼の鞭は五メートルがいいところだろう。
しかし、この世界では常識は常識たりえない。
突然それはぼんやりとした光を纏い、見る見るうちにその飛距離を伸ばしていったのだ。一瞬のうちにクロードの目と鼻の先に到達する。
それを見越していたのか、その先を阻むように老人の手が待ち構えていた。セロはその一撃は軽く受け止められてしまうと予想した。だが――。
「これはッ――!?」
何かを察知したクロードは即座にその手を引き、身を屈めることでそれを躱したのだ。獲物を捉え損ねた蛇は、その勢いのまま煉瓦造りの煙突へ伸びていく。そして、驚きの光景を見せた。
鞭が煙突を、豆腐を切る如く両断したのだ。
目の前で起こった出来事に固まるセロとは対照的に、クロードの目には理解の色が浮かんでいた。
「成程……〈武器強化〉の使い手ですか。〈長射程〉に〈切断効果付与〉とは、恐れ入る」
再び鞭を元の長さまで戻し、ルイスが驚きに僅かばかり目を見開く。おどけているのではなく、本当にに驚いているようだ。
「へぇ、あんたよく知ってるんだな。これを使うやつなんてほとんどいないはずだけど」
「戯言を……〈武器強化〉など、誰でも習得できる基礎的なものではありませんか。いやはや、ここまで極めている人物を目にしたのは流石に初めてですが」
そういうクロードの目は、先ほどまでと違う警戒するようなものになった。余裕を見せられる相手ではないとルイスの評価を改めたらしい。
「自らの愚をその頭でも分かるように教えてから、と思っていたのですが……仕方ありませんね」
不意に、ルイスの足元に先ほどとは別の奇妙な文字が浮かび上がる。さすがの彼もこれには意表を突かれたのか、反応できなかった。
文字より伸びた鎖のようなものが彼の体を二重、三重に拘束し、その自由を奪う。
「しまったッ……!?」
ルイスが振りほどこうともがくが、それは微動だにしない。その様子に、クロードが愉快気に目を細める。その頭上では、先ほどの文字が一際盛大な輝きを宿していた。
「終わりにしましょう――どうかその邪な魂に、神の慈悲があらんことを――」
「――待てッ!」
クロードが光を放つべく振り下ろそうとした腕が、その寸前で動きを止める。ルイスの前に、黒衣の少年が立ちはだかっていたのだ。
「……一体、それは何の真似ですかな?」
「――あんた、俺に死なれちゃ困るんじゃないのか?」
セロの言葉に、クロードの眉がピクリと動く。
一方でセロの行動が予想外だったのか、ルイスの顔にはその驚きがありありと出ていた。
「お、お前……何でこんな――」
「黙ってみてられるわけないだろうがッ!」
例え自分を連行しようとした張本人とは言え、みすみす目の前で殺されるのを黙ってみていられない。そこまで薄情になりたくはない。その選択を選んでしまえば、今度こそ本当にゼイナードと同じ人間になってしまうという気がした。
ルイスを安心させるべく、無理やり笑みを作ってみせる。
「心配すんな。俺がいればあいつだって――」
「――愚か」
セロの言葉を、クロードの冷徹な言葉が断ち切る。見ると、彼の眼は冷ややかなものを湛えていた。
「確かに私はあなたを連れ帰るよう言われております。しかしこうも言われているのです――もし思い通りにならぬようなら始末しろ、とね」
止まっていた手が振り下ろされ、今までよりも強大な光の奔流が二人目掛けて解き放たれた。
「……ウソだろ!?」
自分は魔術が使えない。ルイスは動くことすらできない。
完全に、詰んだ。
そう思った瞬間――。
「本当に……世話のかかる奴らだ」
静かな声と共に、二人の眼前を紫電が迸った。