覚醒━2
傭兵会社アースラの二階層、つい先ほどまで会話が絶えることのなかった食堂。しかし今、その場所は水を打ったかのように静まり返っていた。ある者は椅子から立ち上がり、またある者は静観を決め込んでいるのか座ったままだ。
だが、皆一様にこれから起こることへの不安を露わにしていた。
「ふむ……あの女の姿が見えんな」
静寂の原因である男が辺りを見渡すと、セロに下卑た笑みを向けながら言う。あたかも独り言のように思われるそれが、セロを嬲ろうと意図してのものであるのは明らかだった。
「……イルミナのことか」
自分でもそれが分かっていながらも、煮えたぎる感情は声にはっきりと表れていた。
その様子にアガノフはククッ、と小さく笑う。愉快でたまらない、といった笑みだ。
「あぁ、その通りだとも。本当はアレを連れ帰って儂が可愛がってやりたいのだが……」
「アガノフ候……今回の件であの者は裁きの対象にはなっておりません」
一人の男がアガノフの前に進み出た。
短く切り揃えられた黒髪に、見る者を委縮させるような鋭い眼光を放つ三白眼。いかにもどこかの軍人らしい厳格な表情を浮かべた人物。胸に鷹の紋章が施された、緑を基調にした制服はセロ達の周囲を取り囲む者達と同じ。しかし、その紋章の隣に付けられたもう一つの銀色のバッジが、彼がその者達との地位の違いを雄弁に物語っていた。
「わ、分かっておるわい……してロイ殿、君は爵位に憧れはないかね? 何でも己の好きなように出来るだけの地位を与えるくらい、儂が少しコネを使えば――」
「お言葉ですが、私は権力には興味がありません。ただ王国の安寧を維持し、それを脅かす敵を排することが私に与えられた職務。王より頂いたこの刀だけで、私には身に余る光栄でございます」
腰に差した銀色の刀の柄に手を当て、ロイという男はアガノフに首を垂れる。それも高位の魔術が掛かっているものなのか、彼が触れると柄の中央に嵌め込まれた宝石が淡い輝きを放った。
――まるで人形みたいだ。
無感情に淡々とアガノフへの言葉を返すその男の姿に、セロが持った感想はそれだった。儀礼的行為をただこなしているだけという感じさえ受ける。
だが、目先の欲にしか目がない醜悪な男はそれを全く気にしてはいないようだった。
「そうか……まったく、いや本当に、このままで終えるには惜しいのだが……」
見え透いた稚拙な買収が失敗に終わり、アガノフは残念そうな表情を浮かべる。
まさか本当にうまくいくとは思っていなかったのだろうが、何故そこまでイルミナに執着するのだろうか。単に楯突いたことの腹いせにしては妙な気がする。
「――捕縛しろ」
「……ッ!」
いつの間にかセロの方へと振り向いたロイの指示で、セロを囲む男達がじりじりとその輪を縮め始める。反射的に身構えたセロを警戒しているらしく、やけに慎重な足運びだ。
抵抗するべきか、大人しく捕まるべきか。
セロとしても捕まるのは不本意ではあったが、ここで戦っても罪を重くするだけだ。下手をすればアースラにも罪が飛び火しかねない。
「クソッ……」
構えを解き、力なく両腕を垂らす。自分を受け入れてくれた者達に迷惑をかけるわけにはいかない。セロが選んだのは大人しく捕まることだった。
そして男たちが一気にセロへと詰め寄ろうとした時――セロの前に、白い背が立ちふさがった。
「ちょっ!? エレナさん!?」
「エレナ様!?」
セロとバスクの声が重なった。突然のエレナの乱入に、囲んでいた兵士たちが一斉にたじろぐ。どうやら彼女はなかなかの有名人らしい。
「おかしいな……私が聞いた話じゃあ、アンタの依頼を全てこなしたら二人の罪は咎めない、ってことだったんだけど?」
「なっ……そんな約束を?」
セロがバスクの方に振り向くと、彼は苦々し気に頷く。彼女の言っていることは嘘ではないようだ。
その時、ようやく分かった。二人がやけに疲れて見えたのは、二人を守るために依頼をこなしていたからなのだ、と。そして今、その二人にさらに迷惑をかけようとしている。
「何だよ、やっぱり守られてばかりじゃんか……俺はッ……!」
そんなセロの様子には気づかず、エレナはアガノフに殺気のこもった視線を投げかける。それは、獰猛な獣を思わせた。
「ひっ……!」
そのようなものに耐性など皆無なアガノフ。まるで蛇に睨まれた蛙だ。だがその直線上にロイが割り込むと、その圧力から解放されたらしい。セロはその得体のしれない男がかなりの実力者であることを悟った。
「そ、そんな口約束を信じる方が悪いのだ! ロイ殿、あの女を儂に近づかせるな!」
「……了解致しました」
一歩進みでると、ロイが白銀の刀に手をかけた。同時に埋め込まれた宝石が赤い輝きを放ち始める。まるで使われる時を待ちきれないと言わんばかりだ。
「へぇ――いいね。アンタとは一度やってみたいと思ってたんだ。こういう形も悪くないかも」
瞬間、広間にいた全員が戦慄した。
先ほどの殺意ですら冗談に思えてしまうほどの、解放された破壊衝動。敵味方を問わずに、間近でそれを受けた者のうちの数人が腰を抜かし、崩れる。歴戦の強者ですら恐怖するほどのオーラをもっとも近くで受けながらも、セロが意識を保っていられたのは単なる偶然にすぎなかった。
その空間において、表情を微塵を動かさなかった者が一人。
「……お前らは下がっていろ。その女はお前らが手に負える相手じゃない」
姿勢を低く構え、エレナと正面から相対するロイ。未だ抜刀はしていない。
エレナが荒れ狂う獣だとすれば、こちらは澄んだ湖面だ。
何も圧力を感じさせないが、研ぎ澄まされた視線は斬るべき相手の僅かな動きさえをも見逃さない。
静と動。
清流と激流。
正反対のものが混ざり、別離し、今にもはじけるのではないかと思うほど空気が緊張する。
龍虎が牙を剥こうとした、まさにその時。
「はいお終い、っと」
ガチャリ、と無機質な音が響いた。
「……え?」
背後で声が聞こえたのに一瞬遅れて、セロはそれが自分の両手首に枷がはめられた音だと気が付いた。
振り向くと、見知らぬ金髪の男が背後に立っていた。
「……ルイス、来るならもっと早く来い」
「いやぁ、なかなか手こずっちゃってさ……悪い悪い」
「ッ……!?」
ロイが構えを解いたことで、エレナも異変を察知したらしい。慌ててセロの方を向き、ルイスに標的を変える。だが――。
「エレナさん、すいません……もう、いいです」
「……何でさ? 君は何も悪いことなんか――!」
「――イルミナを、頼みます」
その言葉でエレナが動きを止める。その表情は怒りに、迷いに、そして――諦めに変わった。
「……分かった」
セロは首を回し、後ろで佇む獣人の方へ何とか作った笑みを向ける。
「バスクも……頼んだぜ?」
「……あぁ」
彼の顔にもはっきりと諦めきれない迷いの色が現れていた。
それ以上は見ていられなくなり、セロは顔を背ける。
怖くて、寂しくて、涙を隠し通せる自信がなかった。
自分は、うまく笑えていただろうか。イルミナに会えなかったことが心残りだが、仕方がない。
その様子を見て、ロイが兵士たちに指示を下していく。
「お前はそのまま外の護送車まで連れて行け。あとの者は動けなくなった者を連れてこい――撤収だ」
「へーい」
「はっ!」
しばらくして、腰を抜かしていた兵士たちの全員が運び出された。
残された者達は、白髪の少年が連れて行かれた方向をただ見つめていることしかできなかった。




