覚醒━1
イルミナはリンを連れて社長室を出た。セロの時と同様に、これから彼女が使用する部屋まで案内するようウルスから頼まれたのだ。
イルミナ自身は元からそうするつもりで、その後にバスク達に彼女を紹介しようと思っていたので何ら問題はない。むしろその職業柄、ただでさえ女性隊員が少ないという中で、リンという自分と年が近い少女の入社は嬉しいものだった。
時間が時間であるためか、人の気配は全くしない。静寂な空間だけが広がっていた。
「リンちゃんの部屋は私の部屋のすぐ近くだから、何か困った事とかあったらいつでも相談してね」
「はい! よろしくお願いします、イルミナさん」
入社が認められたことがよほど嬉しかったと見え、今までの緊張した面持ちはリンの顔にはない。さらに心を開いてくれたということが、イルミナの気持ちを弾ませた。
しかし、不意に二人以外の声が静寂を払った。
「おぉ、ようやくイルミナちゃん発見!」
「なっ……」
数歩も行かぬ内に、そんな気分は一瞬にしてどこかへ消えてしまった。原因は二人の前に立つ長身痩躯の青年。近くに寄るまでその気配を感じさせることもなかったが、初めからそこにいたのだ。
胸に鷹の紋章が施された、緑を基調にした制服はアースラの隊員のものではない。そのだらしない着こなし方や、男にしては長く伸ばされた金髪からは不真面目そうな印象を受ける。だがその容貌は、すれ違った大抵の女性ならば思わず振り返ってしまいそうなほどに整っていた。
そんな人懐っこい笑みを浮かべる彼とは対照的に、イルミナの顔は引き攣っていく。
「……何でアンタがここに――」
「あぁ、俺に会えなくてさぞかし寂しかっただろうに!」
彼女の言葉に答えるでもなく、男が駆け寄ってくる。
「さぁ、募る思いの丈を今――痛いッ!?」
両手を広げて抱き付こうとしてきた男の顔面に、イルミナの鋭い突きが見事に炸裂した。冗談とは思えないほどの威力を込めた一撃だったが、床で転げまわって悶絶する男の顔からじゃ笑みが絶えない。
「うおぉ……ハッ、そうか……これが噂に聞くツンデレというものなのか!? 一種の愛情表現なのか!?」
「……チッ、入り方が浅かったわね」
全くダメージを受けている様子がない男に、イルミナは心底悔しそうに毒づく。
「えっと……あの、これは……」
「おや、新人さんかな?」
そんな二人の様子を見て、どうしたら良いのか分からずにおろおろするリン。その存在に、男はようやく気付いたようだった。転げまわった際に付着した埃を手で払い、床から上体を起こす。
「俺は王国騎士団副団長、ルイス・ロアルドっていうんだ。よろしくね」
にっ、と爽やかな笑みを浮かべるルイス。その笑顔はどこからか黄色い歓声が聞こえてきそうなほどに魅力的だった。鼻血さえ出ていなければ、だが。
「王国騎士……副団長……」
リンは思わず驚きに声を漏らした。どう見たとしても彼の年は二十歳にはいっていない。その若さでその肩書を得ていることがどれだけ凄いことかということくらいは、人間の世界に疎い彼女にも分かる。
「いやぁ……人間の女の子もかわいいけど、エルフもなかなか……」
そんな少女に興味を持ったのか、好奇の視線を向けて近づこうとするルイス。それを遮るようにイルミナが二人の間に割って入る。
「……で、その副団長殿がわざわざここに何をしに来たの? また仕事抜け出してきたっていうんなら、あの『英雄気取り』さんに引き渡そうと思うんだけど」
「まさか。前回仕事サボってここに来た時は、あいつにこっぴどく怒られたからね」
邪魔されたことに一瞬だけ顔を顰めるルイスだったが、その意識はすぐにイルミナの方へと向けられた。その二人の距離は一メートルも離れていない。
ルイスは気取った動作でイルミナの手を取り、まるで王に忠誠を誓う騎士のように跪いた。
「ここに来たのはあくまでも任務達成のため。そう……俺は愛しのイルミナちゃんに会うという、人生を懸けて全うするべき崇高な任務を授かっているのさ」
その声に冗談の色はない。「うわぁ……」とリンは一歩分ルイスから距離をとった。誰がどう見たってドン引きしているのは明らかだ。
「……聞いた私が馬鹿だった」
イルミナは呆れたように溜め息を吐き、右手の人差し指と中指を合わせて耳に当てる。〈通話〉の発動動作だ。
「……あーもしもし? 今アンタの副隊長が――」
「うわわっ、ちょっと待った! 冗談だから、冗談! な?」
イルミナは慌てて離れるルイスをしばらく眺めていたが、やがて二度目のため息をつきつつ魔術を解いた。
「私もアンタに構ってられるほど暇じゃないの。用事があるならさっさとしてくれない?」
「いや、まぁ……これ自体が用事というか何というか……」
「はぁ?」
要領を得ない会話にいい加減嫌気がさしてきたのか、イルミナはリンを連れて彼の脇を抜ける。
「あっ、ちょっ……! あぁ、クソ!」
それを見たルイスは一瞬何かを躊躇うような素振りを見せる。だが逡巡の後、観念したように悪態をつくと、離れようとする背中に向かって叫んだ。
「待ってくれ! 下の階にアガノフの旦那が来てるんだ!」
「……え?」
彼が予想した通り、その言葉は彼女の足を止めた。振り向いたその顔には、驚愕と不安、そして恐怖が複雑に混じった表情が浮かべられている。
「……何しに来たのかなんて、言うまでもないだろ? イルミナちゃんがそこに行くとマズいことになるんだ。それは俺も……君が『英雄気取り』と馬鹿にしてる、ロイも望んじゃいない」
「ッ……!」
イルミナは今にも爆発しそうな不安を、血が滲むほどに唇を噛みしめることで何とか抑えた。
アガノフの狙いは分かっている。この前の復讐だ。だが、あのロイが彼にイルミナの足止めを指示したのなら、何かの目的があって彼女を助けようとしているということだ。おそらく貴族に刃を向けたセロに全ての罪を擦り付け、罪人として連行することに決まったのだろう。
第一彼女が向かったところでできることは何もない。セロを助けようとしたとしても、連れて行かれる罪人が一人増えるだけのこと。もしかするとアガノフの権力で、彼女は彼の邸宅に送り込まれるかもしれないが。
ここにいれば安全、行ったとしても無力。それが分かっておいても尚、彼女は迷う。
手に入れた友を、仲間を、いや、それ以上にいつのまにか生まれていた不確かな想いを向けた相手を、こんな不条理で奪われてもいいのか。今までのように、ただ権力に怯えているだけでいいのか。
背に感じる視線が、「行くな」と訴えている。
繋がれた手の温もりが、そうすることに罪悪感を呼び起させる。
そして、彼女は決断する。
「――私は、行くよ」
「なっ……どうなるのか分かってんのか!? 下手をすればあの馬鹿の奴隷に――」
「分かってる」
ルイスの言う、可能性と呼べるほど淡くない最悪の未来。
それでも、未だに絡みつこうとするその迷いを振り切るようにしてそれを遮る。
「私はセロと約束したの、『今度は私が守る』って。だから行く。それに――」
イルミナの視線が、彼女を見つめるリンの視線と交差した。
「私も、大切な人は二度と失いたくないから」
そして、彼女は前へと足を踏みだす。
一瞬でも迷ってしまった自分が馬鹿らしい。今はその時間さえも惜しかった。こうしている間にも、セロが囚われてしまうかもしれないのだから。
ルイスに邪魔をされる前に、駆ける。あの男の実力は、イルミナはよく知っている。国からの依頼が来た際には何度も共に戦ってきたのだ。まともにやり合って、楽に勝てる相手ではない。
背中越しにリンの存在を感じる。止めるべきかと思ったが、考え直してそのまま走る。ルイスの言葉を聞かなかった自分が、彼女を止める資格はない。
そして最高まで加速した時――異変は起きた。
「……え?」
突然、重力が無くなったかのような感覚を持った。じれったい空気抵抗も、地を蹴っている両足の感覚も消える。
床と壁、天井の境界がぼやけ、色が滲んで混ざり合っていく。まるで視界に映る全てが解けだしたかのような錯覚を覚える。
気が付くと、イルミナは床に倒れていた。かなりの派手に転倒したはずだが、その痛みも、硬質な床の冷たさも、全くと言っていいほど感じない。立ち上がろうとするも、指一本さえ動かせなかった。
「イルミナさん!?」
何が起こったのか分からず、彼女を心配して声を上げるリン。だが近くにいるはずの彼女の声すらも、どこか遠くのもののように聞こえる。
(麻痺毒ッ……!)
罪人が抵抗した際、王国騎士たちがその捕縛の為に用いる神経毒。ごく微量でも容易くその人間の動きを封じられる、強力な代物だ。
一体いつ打ち込まれたのか、その答えはすぐに導けた。
イルミナが許した、接触の唯一のチャンス――彼が手を取り、戯言としか言えない歯の浮くようなセリフを吐いた時。
「やら……れたッ……!」
自分のふがいなさに歯を軋ませる。
油断した。注意さえしていれば気付くことはできたはずだった。
視界の端に、悠長な動作で向かってくる者を捉えた。首すらも動かないためにその者の顔は窺えないが、その顔にはまたあの微笑が湛えられていることだろう。
「いやぁ、念のために神経毒を仕込んでおいて正解だった……何事も準備は大切だね」
彼が右手を見せびらかすようにしてぷらぷらと振る。おそらく、その掌には仕込み針が付けられているのだろう。
その言葉で原因を理解したのか、リンが両手をイルミナに向けて翳す。治癒魔術はこの程度の毒なら瞬時にして解毒可能。だが、彼にしてみればそれはあまりにも十分な隙だった。
「っと! それは困るな」
瞬く間にリンとの距離を詰め、その首に手刀を落とす。
「あ……」
意識を失った少女の体が、イルミナの隣にゆっくりと崩れ落ちた。
「ルイス……アンタは!」
「ゴメンね、でもこれも、イルミナちゃんを守るためだからさ」
業火の如き怒りを目に宿して睨み付けるも、彼は肩を竦めるだけ。此方に背を向けて、立ち去ろうとする。
「待って……待ってよ! お願い……だから……」
彼女の声にも彼は耳を貸す気配はない。その背中がどんどん小さくなっていく。
頭の中が徐々に真っ白く塗り潰される。完全に毒が回ろうとしているのだ。
「セ……ロ……」
意識が途絶える寸前、一筋の涙が彼女の頬を伝い、床へと落ちた。