凱旋━5
「……いつからここは宿泊施設になったんだ」
ウルスはやれやれと言わんばかりに首を振った。車内でのセロの真似と瓜二つだ。幸い、危うく吹き出しそうになったイルミナの顔は見られていない。
三人がアースラに着いたのは、御者の見立て通り夕方だった。そこから手続きを済ませて、イルミナとリンはセロと分かれた。初めて魔力を行使したことで相当に疲れていたらしく、その足取りは見ているこっちがひやひやするほどだった。
道中でリンの《治癒》をかけてもらったが、それは傷を治すものであって消費した体力や、疲労の回復の効果はない。
アースラの社長室。相変わらず殺風景なそこに、イルミナは帰還してからというものやけにびくびくとしているリンを連れ、任務失敗の報告と彼女をを入社させたいという旨をウルスに話したところだった。 あくまでも依頼の内容は『村の護衛』。ゼイナードを捕縛しても達成とは言えない。
一応その報告だけは《通話》で済ませていたが、その際にはリンのことは話していなかったのだ。
「そこのちっこいのが上級の治癒魔術の使い手、ねぇ……」
やはり俄かには信じられないらしく、ウルスは無遠慮な視線をリンへと向ける。彼に悪気はないのだろうが、一方のリンはというと相当に緊張しているらしく、直立不動、というより動きたくても動けないのだろう。蛇に睨まれた蛙よろしく、今にも失神せんばかりの表情を浮かべていた。ウルスの目の奥に潜む光に気が付いてしまったのかもしれない。
イルミナは内心でため息をつきながら、わざとらしく咳払いをする。
「あの、まだショックから立ち直れていないようですので……」
「ん? あぁ、そうだな。悪かった」
幾分か視線は和らいだが、それは未だリンの方へ向けられている。
「一つだけ聞かせてくれ……覚悟は、あるんだな?」
「覚……悟……?」
辛うじてリンは問われたことをオウム返しに聞き返す。それに対してウルスは一つ頷くと、ゆっくりと話し始めた。
「ここの仕事はお前が村にいたよりも大きな危険が付きまとう。外で依頼をこなすのはもちろん、ここに居たって絶対安全とは言い切れないしな……。それに――」
「ウルスさん!」
イルミナは声を上げずにはいられなかった。彼がこれから口にしようとしている言葉が、この幼い少女にとってはどれだけ辛いものであるかを察したのだ。
だが、そんな彼女をウルスは視線を向けることで制する。口出しは許さない、という厳しいものだった。
何か言いたそうに口を開け、再び閉じるということを何度かした後、イルミナはウルスに従った。彼は間違っていない。これから彼が口にしようとしているのは、決して起こらないとは言い切れないことなのだから。
それを見届けるとウルスは言葉を続けた。
「それに……また大事な人を失う可能性だって、十分にあるんだぞ」
はっとしたようにリンの両目が見開かれる。その瞳の奥では兄が、家族が、そして見知った村の人々が無残にも焼き殺されていく光景が甦っているのだろうか。
しばらくの間、沈黙が小さな部屋の中を支配する。静寂さそのものが音として聞き取れるような時間だけが流れていく。イルミナ、そしてウルスの視線は俯いているリンへと向けられていた。
ここに残るか、はたまたディアナの森へと戻るか。揺れる少女の心は、二人には窺い知ることはできない。
――この子にそれを決断するのは酷過ぎる。
小さく震えるその肩が、あまりにも小さく見えるその背が、一秒ごとにイルミナの心を締め付ける。
数時間前に仲間を失ったばかりの子どもに、何故このような苦しみを与えなければならないのか。まだ起こるとも言い切れない可能性を提示することに、何の意味があるのか。
ウルスに何を言われたっていい、今すぐに彼女をこの責苦から解放してあげよう。
その決意の元、イルミナが口を開きかけた時だった。
「私は……自分の力が嫌いでした」
リンが顔を上げる。未だ体は怯えているかのように震えてはいるものの、先ほど臆していたはずのウルスの眼光を正面から受け止めていた。
「この力を持っているから、みんなは私のことを特別扱いしました。でも、私はそれが嫌で……みんなと同じように接してほしくて……だから、この力は使いたくなかったんです」
リンの言葉を聞いているうちに、イルミナは自然と自分の幼少の頃の記憶を辿っていた。自分も同じように、周囲よりも魔術を操る力に長けていた。大人たちからは優しく接してもらっていたが、その優しい顔が見せかけのものであると見抜いてしまった。彼らが欲したのは自分という存在ではなく、自分が持っている力なのだ、と。
リンはそのまま話し続ける。ウルスは頷くこともなく、ただ少女の話を聞いていた。
「それでも、兄だけは違いました。力なんて関係なしに、たった一人の妹として私のことを見てくれたんです。兄だけがの支えでした。でも……私は助けられなかった」
一瞬、リンの表情に陰りが差す。それは兄を救えなかったという自責の念の表れだろう。
が、すぐに別の表情が現れる。
イルミナはその顔をよく知っていた。十年前の自分と全く同じ表情。それは人が何か大きな決意をしたときに見せるもの。
鍛え上げられた刀剣のように真っ直ぐな視線。何処までも曲がることなく、信念を貫こうと決めた者の顔だ。
「私は変わりたい……大切な人を――セロさんや、イルミナさんを、今度こそ私の力で守れるように! だからここに来たんです!」
言い切ったときにはリンの目には大粒の涙が光ってた。彼女なりの勇気を出したのがよく分かる。
リンが言葉を終えた後、再び静寂が舞い降りた。が、それは一瞬だった。
ウルスの口元が笑みの形に歪む。
「――上出来だ」
「……え?」
聞き取れなかったのか、はたまたその言葉が信じられなかったのか、リンがポカンとした表情を浮かべた。
「それだけ言えりゃあ十分だ。いいだろう、うちに入れてやる。部屋は……まぁ上級の《治癒》使いだって言うんなら、イルミナの階と同じでいいか」
「あ……ありがとうございます!」
勢いよく頭を下げるリンを見て、イルミナは内心で胸を撫で下ろしていた。何せセロには大丈夫と言ったものの、はっきり言って何の根拠もなかったのだ。
「これからよろしくね、リンちゃん」
「はい! ありがとうございます!」
少女に向けて微笑むと、リンもそれに笑顔で答えてくれた。目の前の少女は今日、変わるための第一歩を踏み出したのだ。それが、イルミナにとっては自分のことのように嬉しかった。
■
「……何で私たちがこんなことしなきゃいけんのかねぇ?」
アースラ二階層、食堂のとあるテーブル。そこに二人の人物――正確には一人の人間と一匹の獣人が座っていた。
「あー……これだから貴族様ってのは嫌いなんだよ、私は。権力ってのは厄介なもんだね」
一方はぐったりとテーブルにもたれかかり、見るからに疲れているのが分かる。羽織っている純白のロングコートには皺が刻まれ、本来流れるような艶やかさを持つはずの紫紺の髪は、その多忙さを物語るかのように光沢が失われていた。
向かい側に座する獣人は、狼のその顔に困ったような笑みを浮かべていた。その表情の豊かさは人間に近い。
「まぁ、これであの二人が助かるのならいいではありませんか。大体、今回この話に乗ったのはエレナ様自身ですよ?」
「そうだけどさぁー……あれだけこき使われてタダ働きってのは流石に頭にくるよ。それと……」
エレナがテーブルに突っ伏していた状態から顔だけを上げる。赤いフレームの眼鏡の奥には不満の色が湛えられていた。
「その『エレナ様』っていうのどうにかしてくんない? あんたのご主人様はイルミナだろ?」
「イルミナ様の師であるエレナ様に、敬意を払うのは当然のことです」
何がおかしいのか、と言わんばかりにバスクは首を傾げて見せる。どうやら抗議をしても聞き入れられそうにないと知り、再びテーブルに体を預けるエレナ。
「……律儀なことで。さすがは忠犬バスクだ」
「いえ、狼です」
このまま内容など特にない会話になるかと思われたその時、別の声が二人の会話に入ってきた。
「お、バスクと……エレナさんか。何してるんすか?」
二人が声のした方に顔を向けると、そこには黒衣の少年が佇んでいた。その手には料理の乗ったトレイを持っている。
「あれ、何かやけに疲れているような……大丈夫ですか?」
「まぁ、あのクソ貴族のところでちょっとタダ働きを――」
「エレナ様! そのことは言わないようにと……」
ハッとした表情で、慌てて手で口を押さえるエレナ。そんなやり取りを見せられては誰でも怪しむだろう。
「……何か、隠してますよね?」
「い……いや、そんなことはないぞ!? それよりもだ、開いている席を探していたんじゃないのか?」
バスクが開いている椅子を指で示す。
ちょうど二人が座っているテーブルには椅子が三つ置かれていた。既に夕食の時刻は過ぎたとはいえ、セロのように任務で遅くに帰ってきた者も多く、未だこの場所は変わらぬ賑わいを見せている。
「……あとでちゃんと教えてもらうからな」
椅子に腰かけながらも少年は訝し気な表情のままだ。バスクは疑いの種をまいた張本人を目で窘める。本人も悪いとは思っているらしく、話題を逸らそうと必死に頭を絞っているらしい。
「あ! そうだ、背負ってた剣はどこにいったのさ? 今は持っていないみたいだけど」
「いや、それが滅茶苦茶強い奴と闘う羽目になっちゃいまして……さっき見てみたらもうぼろぼろだったんです。もう使えないですよ」
「うっわ、それは災難だったね。また買うなら結構な値段するよ、あれくらいの上等な剣は」
エレナのその言葉に、少年は得意げな顔で答える。
「ふふ、実は俺も魔術が使えるようになったんですよ。まだ自分でもよく分かってないけど、なかなか使えるものですよ」
「へー、それじゃあ今度は私と模擬戦だな」
目の前で微笑む女性がよもやランキング一位、生きる伝説と称される存在とは露知らずに話を進めるセロ。そのテーブルの会話を耳にした者達は、静かに少年に合掌を送る。
そんな光景を前に、未だバスクの表情は晴れない。その理由は先ほどのセロが発した言葉にあった。
「……その滅茶苦茶に強い奴というのは、紅いローブをしていなかったか?」
彼がした質問の意図が分かり、セロも先ほどとは違う、真剣な表情でバスクに向かい合う。
「あぁ、そうだった。そいつが炎の魔術を使って村とエルフを――バスク?」
腕組みをする獣人が浮かべた険しい顔に気が付き、セロは言葉を中断した。
「――氷、じゃなかったのか」
「……え?」
バスクの漏らした呟きに、セロが固まる。
そして一瞬の後、少年は理解した。理解してしまった。が、それでもなお頭がその事実を受け入れようとしない。
「俺達が倒したのはイルミナの父親の仇じゃない……そう言っているのか?」
今の言葉が聞き間違いであってくれと願いつつ、何とか掠れた声を絞り出す。だが、残酷にもバスクの首は縦に振られた。
「忘れるわけがない……あの赤いローブの男は、俺達の目の前でいるイルミナ様の父上を、氷の彫刻に変えたのだ」
爪が食い込むほど握りしめられた拳が、バスクの内で燃える怒りを表す。恐らくその瞬間を思い出したのだ。
「そうか……」
ゼイナードのような強敵がまだ存在する。その事実は眩暈がしそうなほど強烈な衝撃となってセロを襲った。だが、呆けている暇はない。まだ敵がいると言うのなら、それも全て倒すだけだ。
決意を静かに固める少年の瞳が、微かに紅く揺らいでいることに気付く者は誰もいなかった。
そして――。
荒々しい扉の開閉音が食堂に響く。続いて大勢が中へと踏み込む足音。
「うわっ、何だ!?」
「王国騎士団? 何でこんなところに!?」
突然の出来事に、周囲で驚きの声が上がる。一瞬の後、先ほどまでの喧騒はどこかに消え失せ静寂だけが舞い降りる。
「……何だ? こいつら」
セロは素早く立ち上がり、腰を低く落として周囲を囲む者達を警戒する。統一されたフルプレートの鎧。同じような紋章を胸に付けた者達が優に数十名。
バスクやエレナもセロより早く同じように動いていたが、その顔には不安が色濃く映されている。
「まさか……あの男ッ!」
バスクが何かに気が付いたのか、怒りに牙をむき出す。セロも同じ方向を向くと、その答えに辿り着いた。
ゆっくりと、杖を突きながらこちらへ向かってくる人物。周囲の者達はその人物の姿を認めるとすぐにその道を開ける。
身長は低く、日々の贅沢で弛みきった体。以前よりもぎらぎらとした光をその眼に宿した醜悪な顔。一目で高級であると分かるような紅白の服の上にマントをさらに随所に宝石を散りばめて着飾っている、その男。
「アガノフッ――!」
「頭が高いぞ……大罪人めが!」
怖気だつような下卑た笑みが、その男の口元を歪めた。




