邂逅━1
施設の地下二階、長方形の広大な部屋の中央。総勢十五名からなる傭兵連合部隊は撤退を余儀なくされる事態に巻き込まれていた。
その隊の副隊長に就くイルミナは、誰に言うでもなく一人呟く。
「最悪……」
自らの部隊に襲い掛かる生物――いや、正確にはもう生きてはいないが――アンデッドの群れを見渡す。下級アンデッドと呼ばれる〈ゾンビ〉ばかりだが、その数はこちらの十倍をゆうに超えるだろう。そのほとんどが血や脳漿に塗れた白衣を着ていることから、ここの研究員であったことは容易に想像がつく。
イルミナ達がこのような状況下におかれた経緯は至極単純だった。
数日前、人里離れた辺境の地に、既に捨てられたと思われる研究施設のようなものが発見された。その調査のために複数の傭兵会社が合同で選りすぐりの人員を集めて部隊を結成し、潜入を試みた。その結果がこれというわけだ。
しかし、今回の潜入には不審な点がある。それは、危険性が全く不明の段階でイルミナ達を送り込んだことだ。まず斥候として数人送り込み、その危険度を見極めた上で人選を行うのが通常の手段である。いきなりこれほどまでの戦力をかき集めて投入することは異例としか言えない。
(いつもどおり斥候を送っておけば、こんなことには……ッ)
今回の指令を下した上層部への幾通りもの呪詛が頭をよぎるが、それらを無理やり締め出す。
余計なことに気を取られていては、一瞬後には命を落とす。
イルミナ達はこの部屋で既に二十分以上交戦していた。
たかが二十分と笑う者もいるかもしれないが、命を懸けた戦いというものは予想以上に人の神経をすり減らす。本来ならばアンデッドの中でも最弱の部類に属するといわれる〈ゾンビ〉程度なら、一人で複数体を同時に相手どるだけの実力を持つ彼らといえども、疲労が重なってくれば話は変わる。
疲労しきった者から喰われていった。
この部隊の隊長を務めるエルゴという剣士も、先ほどからその姿が見えない。おそらく今頃は屍の一体となっているのだろう。よって現在はイルミナが隊の指揮をとらざるを得ない状況にあった。
十五名いたはずのメンバーは、イルミナを含めて半分ほどしか残っておらず、残された彼らも既に精神的に限界が近づきつつあった。
前方で剣士が巨大な盾で〈ゾンビ〉を食い止めつつその隙間から槍で突き、射手と魔導士が後ろから援護する。この隊形を崩さないようにしながらじりじりと亀の歩みのような後退を続けるのが精いっぱいだ。
「グオオオオオ!」
盾をすり抜けようとする三体の〈ゾンビ〉。それらを、イルミナは手にしている銃で的確に頭部を撃ち抜いて手早く倒す。仮初の命を失った者達は、体液を吹き出しながらゆっくりとその場に崩れ落ちた。
何も考えず全力で逃げられたらどれだけ楽だろうか。
イルミナは歯噛みするが、それは不可能だった。この隊は八人が接近戦の剣士、四人が遠距離兼サポートの魔導士、彼女を含めた三人が火器を用いた中距離の攻撃という役割構成になっている。何も考えずにただ入口まで逃走を図った場合、重装備のために動きが遅い八人の剣士は間違いなく入口にたどり着くまでに死者の波に飲み込まれ、命を落とす。
もしそうなった場合。引き返した先で更に敵と遭遇すると、魔法の詠唱時間や弾の装填のための時間を稼ぐ役割を果たしている剣士を失った彼らがすぐに殺されるのは容易に想像がつく。
どちらにしろ前衛の彼らの被害が大きくなるが、死の恐怖を前にして背を向けないのは彼らに残された責任感とプライドのためだ。
自分たちを犠牲に後ろの仲間を逃がす。その鋼のような意志が彼らの背中越しにひしひしと感じられた。
しかし現在は広間のちょうど中間地点。疲弊し始めた隊が入口にたどり着くころには何人が生き残れるだろうか。
イルミナの考えが悪い方向に転がりそうになった時。
「うあああああ!助けてくれえええ!」
その考えを裏付けるかのように、後ろで悲鳴が上がった。
声の方向を見ると一人の魔導士が死者に押し倒され、数体が彼の肉を喰らおうと群がっていた。いつの間にか後方から数体の〈ゾンビ〉が回り込んでいたのだ。
イルミナは即座に銃弾を放つが、疲労のために狙いが逸れ、一体だけ仕留め損ねた。それが魔導士の喉笛に喰らいつき、肉を引きちぎる。さらに数体が群がり、魔導士の体が死の奔流に埋もれる。
脳にこびり付くような湿った音。吐き気を催すような酸っぱい臭い。
魔導士の男の絶叫が広い室内に響き渡るが、だんだん弱弱しくなっていき、途絶えた。
「うっ……」
イルミナは目の前のあまりにも凄惨な光景に、一瞬だけ目を逸らした。これは何度見ても耐えられるものではない。
「イルミナさん! 後ろ!」
どこかで隊の誰かが自分の名前を叫ぶ。はっと息を呑み、慌てて後ろを振り返るイルミナ。命を懸けた戦いにおいて、油断するという致命的なミスを犯したことに気がついて。
だが、もう遅かった。
イルミナの視界を覆う、半分ほど腐り落ちた顔。白濁しきった眼。
いつの間にか一体の〈ゾンビ〉が剣士の壁を抜けてきたのだ。イルミナの首に噛みつこうと大きく開かれた口から、黄ばんだ歯が露わになる。
銃で頭部に狙いをつけようとするがそれよりも早く、腐りかけた手が伸びてイルミナの腕を押さえつけた。
あぁ、もうだめだな。
周りで彼女を助けられるほど手の空いているものはいない。皆自分に迫るアンデッドを退けるので手一杯だ。
既に〈ゾンビ〉は饐えた臭いのする吐息が分かるほどに迫っている。
イルミナが目を閉じ、目前に迫った死を受け入れようとした時だった。
轟音と共に、彼女の近くの壁が吹き飛んだ。人間の頭部ほどもある瓦礫が、イルミナに襲い掛かろうとしていた屍に直撃し、まるでスイカがはじけるようにして四散する。
「えっと……どういう状況だろうな、これは」
呆けたような顔をしていたイルミナの耳に、緊張感のまるでない声が届く。
死者も、イルミナも、その場にいた全ての者の視線がその声の主に注がれた。