エンシャントラ王国━4
アガノフは足を上げた姿勢のまま、油の切れた人形のような動きで、自らの首に剣をあてがっている少年の方を向く。
その顔には恐怖がありありと表れていた。
「きっ、貴様! 私が誰か分かっているのだろうな!? 私はここの区域を治め――」
「――関係ねぇよ、お前が誰かなんざ」
甲高く喚くアガノフを、少年は冷ややかに遮る。
「その足をどかして、とっとと失せろ。そうすれば殺さないでおいてやる」
アガノフは助けを求めるように部下たちの方を見やるが、その瞬間、剣がさらに首元に食い込む。
「ひぃっ!」
「余計なことはするな。足をどけろ、今すぐに」
剣がつきつけられている部分の皮が浅く裂け、うっすらと血が滲んできた。
「貴様、『アースラ』の人間だろう! いいのか、こんなことをして!?」
「残念だな、俺は正規の隊員じゃない。客人扱いらしいぜ」
「ぐっ……!」
観念したのか、アガノフはゆっくりと足をイルミナの頭上から遠ざけていく。
そしてそのままよろよろと馬車の方に後退し、巨剣の届かないところまで逃げると再び喚く。
「お、覚えていろ、私にこのような真似をしておいてただで済むと思わないことだ! 貴様にはたっぷりと礼をしてやるからな!」
セロを恐れてか、それだけ叫ぶとすぐさま馬車に乗り込む。その肉の塊のような体型からは考えられないほどの素早さだった。
「……ごめん。必死に探したんだけど、道迷っちゃって……」
馬車が遠ざかって行った後、最初に口を開いたのはセロだった。本当に申し訳なさそうな顔をしていたのが一層イルミナの心の痛みを強くする。
「……何で君が謝るの……? だって――」
――全部私のせいなのに。
声を出そうとするが、嗚咽のせいで上手く声が出ない。
首を横に振ることでセロの言葉に否定の意を示そうとする。
私があのローブの男を追わなければ。
私がこの騒ぎに首を突っ込まなければ。
私がもっと、もっと強ければ、こうはならなかったのに。
その心の内を読んだかのように、セロはイルミナと同じ高さになるようにしゃがみ込んだ。
「イルミナが何もしてなければ、後ろの二人は殺されてたんだぞ? あの親子を助けたんだろ?」
「違うよ……私は何も、何もできなかった。あの二人を助けたのは――」
イルミナが言葉を終えるより早く、彼女の右手に何かが触れた。
「おねーちゃん!」
顔を上げると、いつの間にか後ろにいたはずの子どもが自分の傍に立っていた。
その顔には、まだ穢れのない、純粋で無垢な笑顔が浮かべられている。
「助けてくれて、ありがとう!」
「――ッ!」
セロの前で涙を見せまいと堪えていたイルミナだったが、もう限界だった。
堰を切ったかのように次々と涙が頬を伝い、地面へと吸い込まれていく。
自らの右手を握る、温かく、小さな手。
さらに反対側の肩の上に、それよりも大きな手がポン、と置かれる。
「二人を守ったのは、お前だよ」
事実を確認するかのようにゆっくりとした口調で紡がれる言葉。
その声の主は自分よりも弱いはずなのに、その時だけは全てを委ねられるほどに頼もしく感じられた。
ふと、このように自分をさらけ出して泣くのはいつ振りだろうと考えた。
思い出すことができない。
それもそのはず、自分は泣くことは弱さであると思っていたのだから。
だからあの日、泣いてばかりで何も守れなかった自分と決別するかのように、人前で涙を流さないと心に誓った。
イルミナ・ルシタールという人間が弱いということを、認めたくなかったのだ。
一度流れ出した涙はまるで今までの空白を満たすかのように、なかなか止まろうとはしなかった。
「私ね、小さい頃にお父さんとお母さんを亡くしてるんだ」
『アースラ』までの帰り道、イルミナが独り言のようにぽつりと呟く。
そのころにはとうに夕暮れ時になってしまっていた。その原因は、助けた親子がなかなか二人を解放してくれなかったことと、セロがイルミナを元気づけようとあちこち連れて回ったりしたことによる。
結局は途中からイルミナに振り回される形になったのだが、セロは嬉しく思っていた。
イルミナが、町のどこにでもいる女の子のような笑みを浮かべていたからだ。
それまでの彼女は、どこか周りの目を気にし、相手に弱みを見せないために強がっていたのではないかと思うのだ。セロはそんな彼女の笑顔に、どこか作り物めいた空虚さというものを感じていた。
そして、今からイルミナが語ろうとしている過去にその原因があるのではないかという、確信のようなものを持った。
「それって……病気か何かか?」
「お母さんはね。私が生まれた時に……でも、お父さんは違う」
少女は顔を伏せる。
「私の住んでた村はね、アンデッドに襲われたの」
「アンデッドに……」
「うん、私はエンシャントラの中でもかなり辺境の村の出身でね。朝は水を汲んできて、それが終わったら畑の手伝いをして……。貧しい生活だったけど、お父さんと、途中から一緒に住み始めたバスクと楽しく暮らしてたんだ。だけど……」
不意にイルミナの顔に影が差し込む。声はわずかに震えていた。
「だけど、いつも通りバスクと水汲みに行っていたら村から悲鳴が聞こえて……。行ってみたら……」
「イルミナ、もういい。辛いんなら無理に話さなくても……」
心配して声をかけたセロだったが、イルミナは「知っておいて欲しいの」と続ける。
「そこには、アンデッド達に指示を出してる赤いローブを着た男がいた」
「赤いローブ?」
セロがオウム返しに尋ねると、イルミナが頷く。彼女の表情が少し厳しいものになっていた。
「そいつがアンデッドの指導者。以前『真紅の王』の封印するための戦争でもいた。そいつ……お父さんを、私の目の前で殺した」
イルミナの声には色濃く憎しみが含まれていた。
そこでセロは、先ほどイルミナの雰囲気が急に変わってどこかへ走って行ってしまったことを思い出す。おそらくあれはその赤いローブの男を見つけたからなのだろう。もし自分もイルミナと同じ境遇にあったらそうしていたかもしれない。
そんなことを考えていると、再び話し出したイルミナの声が聞こえてきた。
「私とバスクは助けようとしたんだけど、全く歯が立たなくて……。お父さんは殺される寸前に、私たちだけでも逃げろって叫んでた。それに従って、バスクが嫌がる私を無理やり連れて逃げたの。多分、バスクはそのことをまだ気にしてると思う。むしろ私は感謝してるくらいなんだけどね」
「……それで『アースラ』に入ったわけだ」
セロの予想は当たったようで、イルミナは小さく頷く。
「もう私の目の前で、誰にも死んで欲しくないから……」
イルミナの言葉がそこで途切れる。
「そっか……」
セロはあえて何も言わず、ぼんやりと赤く染まっていく空を見上げていた――訳ではなかった。
(いや、そっか、じゃないだろ俺! 何か言った方がいいに決まってんだろうが!)
表には現れてはいないが、内心はかなりパニック状態になっていた。
慰めてやりたいが、下手に言葉をかけるのでは逆に傷つけてしまうのではないかという不安のせいで、何も行動を起こせなかったのだ。
強くなり、そのローブの男から周りの人間を守るため。
ただそれだけのために、彼女は守られる側ではなく、守る側に立つことを決心したのだ。
当時まだ年端もいかなかった彼女の苦悩は、軽々しく「分かった」などと言う言葉で片付けていいものではない。
ならどうするか。俺も一緒に仇をとってやる、とでも言うのか。
彼女の目の前でバスクに惨敗を喫した、魔術を使うこともできない自分が?
おそらくは足手まといになるだけだろう。最悪、自分が殺されることでイルミナにさらに罪悪感を植え付ける結果に繋がりかねない。
――俺は、なんて弱いんだ。
イルミナは、自分の過去を話したことに全くといっていいほど後悔はしていなかった。
どうせいずれは知られてしまうことだ。だったら今、自分の口から話してしまいたい。
そう言った考えが彼女の中にあったからだ。
(そういえば、まださっきのお礼をちゃんと言ってなかったっけ……)
気が動転していてすっかり忘れてしまったことに、少しばかり気恥ずかしさを覚える。
今度お礼として何か買ってあげようか、とそんなことを考えていた時。
「痛ッ……」
突然、セロの口から苦痛の声が漏れる。
振り向くと、セロがこめかみの辺りを手で押さえたまましゃがみ込んでいた。
「ちょっ……頭痛? 大丈夫?」
慌てて彼と同じ高さまで屈みこみ、顔色を窺うイルミナ。
が、その動きがぴたりと止まった。
セロの顔には悪戯っぽくにやにやとした笑いが浮かべられていたからだ。
「……なんてな。心配してくれたのか?」
「なっ……!?」
騙されたと分かり、イルミナの顔が一瞬で真っ赤になる。
「ごはっ!?」
思いっきり振りぬかれた右足が、セロの脇腹に入った。
「お前……そこはバスクに折られたとこ……」
「はいはい、完治したんでしょ」
地面にのたうち回って悶絶する少年を残し、イルミナはさっさと歩き始めた。
「心配した自分が馬鹿だった! あんな奴にお礼なんて絶対に言うもんか」
そんなことを言いながらも、イルミナの顔はすぐに綻ぶ。
素の自分をみせられる相手ができたということが、単純に嬉しかった。
今のままの時間がずっと続いたらいいのに、という感情までがどこからか湧いてくるのだから困ったものだ。
その後も、すぐに追いついたセロと他愛ないやり取りが続く。
イルミナの思いも虚しく、気が付くと二人は『アースラ』の目の前にいた。