ファウストの夢
予知夢という言葉を知っているだろうか。これから先、起こることを夢の中で見るという一種の超能力だ。科学が発展した現代において、このような能力は胡散臭い代物であり、あったら良いな、と思う者はいても、本気で信じている人間は多くない。
だが、予知夢は存在する。少なくとも、彼の持っている能力は“予知夢”と名付けるほかなかった。
今から話す物語は、そんな超能力を持ってしまった、哀れな男の話である。
1602年の春。ロンバルディア諸国の一つであるサンレモ公国の宮廷に一人の男が招かれた。名をファウスト・バルディという。サンレモの田舎町で、やたらと未来を見通せると評判になった男であり、悪魔と契約しているのではないか、と教会の異端審問を受けていたところを、宮廷に仕える騎士に救われている。
その話を聞いた若くして位を継いだサンレモ公が、本当に未来を見通せるならばお抱えの予言者として迎えるとして、宮廷に招いたのである。
ファウストは貧しい身なりであったが、溢れ出る自信が彼をまるで堂々たる騎士であるかのように見せており、農民風情が、と馬鹿にしていた貴族たちもその姿に息をのまれていた。
唯一、おもしろそうな顔でこれを迎えたサンレモ公が、ファウストに向かってこう言った。
「そなたは何でも未来を見通すとか。ならば、余の未来を見通し、予言してはくれまいか?」
ファウストはこれに対して笑顔でこう答えた。
「殿下の仰せとあらば。しかし、私めの予言は寝ているときに夢として見るものなのです。願わくは、私めに部屋をお与えくださいませ」
ファウストの言葉に、貴族や騎士たちが憤慨した。いかなサンレモ公の客人と言えど、ファウストは出自も知れぬ卑しい農民である。由緒ある宮廷に部屋を用意するなどとは言語道断である、と。
しかし、サンレモ公は彼らの言葉を退け、ファウストの言葉通りに部屋を用意し、身の回りに世話をする侍女も与えた。反発していた貴族たちであったが、ある一人の貴族はこれを愉快そうに見ていた。ロンバルディアの古都グロッセートをその出自とする、名門オルシーニ家の当主だ。サンレモ公の地位を狙うオルシーニ家としては、由緒ある宮廷に卑しい身分の者をいれた、という事実がサンレモ公を追い落とす絶好の機会に思えたのである。
サンレモ公に続く名門の当主が受け入れれば、他の貴族や騎士も受け入れないわけにはいかない。
かくして、様々な思惑をはらみつつ、ファウストは宮廷にて予言を執り行うこととなった。
翌朝、サンレモ公はファウストを呼び出し、予知夢は見られたか、と聞いた。これに対して、ファウストが、はい、と言うと、貴族や騎士たちは、あれは本当か、いや嘘に違いない、などとざわめき始めた。
「静かにせよ。……して、どのような夢であった?」
「はい。隣国アレッツォ共和国がサンレモに攻め入る夢でございました」
「何だと!」
どこか試すような笑顔だったサンレモ公の表情が一変する。なぜなら、アレッツォ共和国はサンレモ公国の長年の盟友であるからだ。アレッツォの僭主であるファットーリは、サンレモ公の個人的な友人でもあった。
「でたらめを申すでないわ! 我が友ファットーリがこの国に攻め入るなど、天地がひっくり返ってもあり得ぬ話だ!」
貴族や騎士たちからも、そうだそうだ、という揶揄の言葉が飛んでくる。だが、それを平然と受け流しているファウストはさらに予言を重ねた。
「アレッツォのシニョーレ、ファットーリ閣下は政敵によって殺されます。そしてファットーリ閣下を殺し、アレッツォを支配した者が我が国に攻め込んでくるのです」
「我が友ファットーリが殺される、と? そ、それはあり得る話だが、しかし……」
友人を殺される、と予言されたサンレモ公が口ごもる。
「殿下、兵の準備を。一週間後にはファットーリ閣下は殺され、アレッツォは戦争の準備を整えるでしょう。先手を打てば勝てるのです。何、私めの予言が外れますれば、首を縊っていただいて結構でございます」
「何と! そなた、この予言に命を賭けるというのか!」
これにはさすがのサンレモ公も驚いた。貴族や騎士たちは言わずもがなである。しかし、ファウストはどこまでも落ち着いていた。
「命を賭ける、などと申しましても、これは私めが夢に見たこと。すなわち、必ず起こる未来でございます。百発百中の賭け事など、賭け事とは言いませぬ」
宮廷に招かれたその時から崩れることのない自信。堂々たる姿は、彼の言葉が真実であると思わせるに足るものだった。
「うむ……。ならば兵を準備しよう。予言が外れたならば、訓練とでも言って誤魔化せば良かろう。ただし、その時は必ずそなたの首を縊るぞ」
「もとより、そのつもりなりますれば」
「うむ。皆もそれで良いな?」
貴族たちはオルシーニを見ている。彼が頷けば、他の者たちも賛同するだろう。わずかな緊張が走る。
「殿下の仰せのままに」
少しの沈黙を破ってオルシーニが深々と礼をした。それを見た貴族たちが倣って礼をする。
その翌日、サンレモ公は兵を集めてアレッツォとの国境近くの村へと出陣。ファウストもこれに同行した。オルシーニを始め、宮廷に残った貴族や騎士たちは予言が外れることを疑っておらず、サンレモ公失脚後の新たな政権樹立について堂々と会談するほどであった。
結果から言えば、ファウストの予言は的中した。宮廷を進発してから六日後、アレッツォ共和国の軍が国境を越えて、サンレモ公が布陣する村へと襲いかかってきたのである。
半信半疑とはいえ、きっちり迎撃の準備を整えていたサンレモ公の軍はこれを見事に打ち破り、ファウストの進言によってアレッツォへと逆侵攻をかけることとなった。
友を殺されたサンレモ公の怒りは激しく、その進軍は破竹の勢いを見せ、三日後にはアレッツォのシニョーリア宮殿が陥落。ファットーリが殺されてからわずか一週間足らずで、アレッツォ共和国は崩壊したのである。
アレッツォのシニョーリア宮では、進駐したサンレモ公の兵士たちが厳戒態勢を取っており、その大広間にはサンレモ公とその家臣が集まり、ファットーリを殺してシニョーレとなったギスランツォーニを尋問していた。
「ギスランツォーニ、貴様は我が友人ファットーリを殺し、アレッツォのシニョーレとなって我が領土へと攻め入った。この事実、認めるな?」
「……その通りだ」
ギスランツォーニは呆然としている。ファットーリを殺し、その盟友サンレモ公を討ってロンバルディアの覇権を握るという計画は良くできたものだった。少なくとも、サンレモを支配するところまでは確実と思っていたのだ。
それが、まるでこの展開を読んでいたかのように、サンレモ公の軍はアレッツォの奇襲を待ち受けていた。アレッツォの軍は散々に撃ち破られ、シニョーリア宮が陥落するというまさかの事態になった。
「なぜだ。なぜお前たちは我が軍を待ち伏せできた。完璧だったはずだ。サンレモへの侵攻どころか、ファットーリを殺す計画すら漏れていなかったというのに、なぜ――」
「簡単なことよ。貴様の悪事を我が予言者が見通したのだ」
その言葉に、ギスランツォーニは信じられないという表情をした。予言者というのは世に大勢いるが、そのどれも適当なことを言うばかりで当たったためしがない。希に当たったと吹聴する者もいるが、その予言というのは得てして誰でも予測できるものであったり、どうとでも解釈できる予言であったりした。
だが、サンレモ公が抱えている予言者は、ギスランツォーニが親族のみで行った今回の事件を言い当てたというのだ。にわかには信じられないことだったが、現実として彼は拘束され、サンレモ公たちの前に屈している。
「とにかく、貴様は首吊りだ。シニョーリア宮の外壁に吊してくれる。我が友ファットーリを殺した報い、地獄でとくと味わうが良い」
サンレモ公がそう言うと、ギスランツォーニは衛兵に引きずられて大広間から出て行った。
「さて。では今回一番の功労者をねぎらうとしよう。ファウスト、前へ」
相変わらずみすぼらしい格好のファウストが進み出てきた。サンレモ公が機嫌良さそうに髭を撫でている。
「ファウスト、此度のそなたの功績、誠に素晴らしいものであった。そなたの予言がなければ、我が領土は憎きギスランツォーニの手で蹂躙されていたに違いない」
「いえ。出自も定かでない私めの予言を信じ、兵を出した殿下の采配あってのものでございます」
その言葉こそ、サンレモ公の英断を讃えるものであったが、サンレモ公の言葉は事実である。予言を信じていなかった貴族や騎士たちは恐ろしいものを見る目を向けていた。
「そなたの功に余はどうやって報いれば良いかな?」
「宮廷専属の占星術師と召し抱えていただき、住む場所を与えてくださいますれば、それに勝る褒美はございませぬ」
「はっはっはっ! 謙虚な男だ。アレッツォの代官の地位を望んでも過分ではないというのに」
サンレモ公の機嫌はとても良い。彼にとっては、ファウストの超常的な予知能力も恐怖の対象ではないらしい。
「良かろう! そなたを余の専属占星術師とする。その力、大いに役立てるが良い」
「ははっ」
こうして、教会によって処刑されそうになっていたみすぼらしい男は、ロンバルディアで勢力をつけ始めたサンレモ公国のお抱え占星術師となったのである。
ファウストが専属の占星術師となって早五年。サンレモ公国は、東方の大国バレンシア王国の支援を受け、諸国が乱立する混迷のロンバルディアを統一せんとしていた。
ファウストはその過程で、非常に大きな役割を果たしている。例えば、サンレモ公がバレンシア王国の支援を受けるようになったのも、ファウストが王位継承戦争の勃発とその勝者を夢で予知し、サンレモ公が勝ち馬に乗ったからだ。
その他にも隣国で疫病が起こることや、教皇選挙における次期教皇など、サンレモが勢力を拡大する上での重要な選択には、必ずファウストが関わっている。
もはや彼の力を疑う者は国中のどこにもおらず、教皇の権威すら上回っている、と言われるほどの権勢を誇っていた。
サンレモ公の座を狙っていたオルシーニも、ファウストの力に屈するほかなく、むしろファウストとの繋がりを得ようと自分の娘をファウストの妻に、と差し出したほどだった。オルシーニ家の令嬢カッサンドラの美貌は社交界でも有名であり、今をときめくサンレモ公の寵愛と美貌の夫人を手に入れたファウストは、まさに人生の絶頂にあったと言えよう。
しかし、ファウストは誰もがうらやむ自らの現状について、何ら感慨を持っていなかった。全ては予知夢に従い、行動した結果。
――いや。そもそも、彼は何ら自分で行動してなどいない。彼の行動は予知夢によって規定されているのであり、それから外れる行動は決して取れない。
彼の予知夢は未来で起こった出来事を予め知ること。確定した事実は変えることができない。どうあがいたとしても、予知夢で見たことは必ず起こるのだ。
それが例え、滅びに至るものであったとしても。
とある朝。彼はいつものように夢を見た。カッサンドラを妻に迎えて以来、ファウストの日課はまず彼女に予知夢の内容を話すこととなっている。彼女はそれを日記につけていた。
「おはようございます。今日の夢はどんなものでしたの?」
「君の父上が死ぬ夢だ。謀反を起こして失敗し、死ぬ夢を見たよ」
カッサンドラの笑顔が凍った。父上が死ぬ……? ファウストがあまりにも自然に言うため、彼女は聞き間違いではないかと思ったほどだ。
「ど、どうすれば良いのですか?」
「どうしようもない。予知夢で見たことだからな」
「そ、そんな……。そんな、冷たいじゃありませんか! 義理とはいえ、あなたの父上でもあるのですよ!」
穏やかな性格だったと伝えられるカッサンドラが激情を見せたのは、後にも先にもこの時だけだったと言われる。
だが、ファウストは珍しく感情を露わにした妻に対して、あくまでいつも通り、落ち着いた様子でこう答えた。
「残念だ。私の父上でもあるお方が、このようなことで亡くなるとは」
「っ……! もう知りません!」
カッサンドラが部屋を出て行く。彼女はファウストの予知夢を父に伝え、もし謀反を企んでいるのならどうか思いとどまるよう説得しようと考えたのだ。
それが無駄なあがきであるとも知らず。
一方、残されたファウストは、宮殿へ行く準備を整えていた。仕事はたくさんある。予知夢を見ることだけでなく、占星術師として星を読むこともまた彼の仕事なのだ。
宮殿に出仕したファウストは、与えられた部屋で星を読み、また蔵書を読みふけっていたのだが、突然扉が開かれ、作業は中断されることとなった。
「バルディ様、殿下がお呼びです。至急、大広間までお越しください」
やって来たのは衛兵だった。その様子はとても慌てており、何事かが起きたことを如実に物語っている。
ファウストはうなずくと、衛兵を伴って大広間へと向かう。大広間の前に立っていた衛兵は、ファウストの姿を見ると直立不動になり、丁寧に彼を迎えた。
扉が開かれ、ファウストは歩みを進める。サンレモ公の左右には騎士や官僚が控えていたが、オルシーニを始めとする何人かの名門貴族がいなかった。
「ファウスト、なぜ呼ばれたか分かっておろう?」
サンレモ公は怒りに打ち震えていた。
「オルシーニ殿が謀反を起こしましたか?」
「分かっていたのなら、なぜ言わなかった! 貴様、オルシーニを庇い立てしたか!」
冷静な態度を崩さないファウストに苛立ったサンレモ公は椅子から立ち上がって叫んだ。
「私が見た夢は、オルシーニ殿が謀反を起こして死ぬ夢でございました。故にお伝えせずとも謀反は鎮められるものと思いましたので」
「その言葉、偽りでなかろうな? 貴様の妻が実家に帰ったことも余は知っておるのだぞ!」
カッサンドラがオルシーニ家へ帰ったのは、謀反を止めようとしたからなのだが、サンレモ公から見れば、宮殿にいなければならないファウストのそばから、安全なオルシーニ家へ戻したように思えたのだ。
「私が一度でも偽りを申し上げたことがございましょうか。そのことは殿下が一番よく知っておいででしょう」
「くっ……。もうよい! オルシーニの謀反を鎮圧するまで、こやつを牢に入れておけ! 謀反人の縁戚なのだからな!」
サンレモ公はそう言うと、玉座の後ろから自室へと帰っていった。ファウストは衛兵に捕らえられるが、抵抗することなく牢獄へと向かった。
サンレモの城の地下に牢獄はある。主に罪を犯した貴族や騎士が入れられる牢だが、先々代のサンレモ公の時代までは公に逆らう者を拷問にかけていたと噂されている。
「占星術師殿、オルシーニ家の謀反が鎮圧され次第、牢から解放して良いとのお言葉をいただきました。それまではどうか我慢してください」
「分かった」
ここまでファウストを連れてきた衛兵は、そう言うと元来た道を帰っていった。扉が閉まり、鍵がかけられる。ファウストは一人きりだ。
ろうそくの火でようやく周囲の様子が分かる薄暗さでは、特に何をすることもできない。ファウストは、設えられていた粗末な寝床に横たわり、目を閉じた。
牢獄に繋がれて三日ほどが経ったある時、たわいない予知夢を見ていたファウストは扉が開く音で目を覚ました。
「ふむ。もう謀反は鎮圧されたのか」
「はい。オルシーニの当主は殿下の兵に攻められ、館に火を放って自害しました。それで奥方様は――」
「――生きているのだろう? 夢で見たから分かっているよ」
衛兵の言葉を遮り、ファウストが自信に満ちた声で言う。衛兵は真実を言い当てたファウストに頷きながら、人ならざる者を見る眼差しを彼に向けていた。
牢獄から出されたファウストは、そのまま大広間へと連れられていった。三日ぶりの広間には、謀反を起こして捕らえられたオルシーニ家以外の貴族たちが膝をついていた。その中に、ファウストの妻であるカッサンドラの姿もあった。
「よく来たな、ファウストよ。そなたの予言通り、謀反は鎮まったぞ」
サンレモ公の機嫌は、謀反を鎮圧したことでいくらかは良くなったようだが、それでも言葉にはトゲが感じられた。
「これはめでたきこと。それで、私の妻も縄を打たれているようですが、これは何故でしょうか」
「何故、だと? 決まっておる。この者は謀反人の娘だ。しかも謀反の直前に帰っている」
サンレモ公にとっては、謀反を知っていながらそれを知らせなかったという時点で謀反人と同罪だ。カッサンドラも謀反人として処刑するつもりであった。
「私の妻は予知夢の話を聞いて、謀反を思いとどまるように忠告しに行っただけでしょう。罪はないと思いますが」
「貴様、まだ言うか!」
堂々と自分の妻を弁護するファウストに対して、サンレモ公が激怒する。短気な公に辟易している群臣も、開き直ったかのような態度を見せるファウストに呆れていた。
「牢に入れられる前にも申しましたが、私が嘘偽りを申し上げたことなどございません。事実、オルシーニ殿の謀反はあっさり鎮圧なさったではありませんか」
「それは余が成したことだ! 貴様が予言したから鎮圧できたのではないぞ!」
「その通りでございます。私は夢で未来を見て、それを殿下にお伝えしているのみ。私が未来を作り上げているわけではございません」
サンレモ公とファウストの溝はどんどん広がっている。元々、短気な公だ。ファウストのように冷静沈着な男との相性は良くない。今まで上手くいっていたのは、ファウストの予言がサンレモ公に都合の良いものであったからに他ならない。
しばし怒鳴り散らしたサンレモ公はそれで満足したのか、カッサンドラを解放するように命じた。ファウストの言葉が常に真実である、ということを他でもない公自身がよく知っている。サンレモ公が激怒したのは、単にファウストの態度が不遜なものに見えたからだ。
「ファウストよ。そなたの妻には今後、いかなる理由があっても外出を禁じることとする。これは謀反に関わる関わらないの話ではなく、そなたの妻が謀反人の娘であるからだ」
「はい」
「本来ならば、そなたも幽閉なのだが、これまでの功績がある。これに免じて、罪には問わぬこととする」
サンレモ公の裁定は、おおむね理にかなったものであった。群臣は特に抗議の声を上げず、ファウストとカッサンドラもこれを受け入れた。
これで、ようやく一件落着したかに見えた騒ぎであったが、この時からすでにサンレモの崩壊は始まっていたのであろう。オルシーニ家の謀反などはその予兆であったに過ぎない。
1618年、三十年戦争の勃発と共に、サンレモ公国は坂を転がり落ちるように崩壊していった。
三十年戦争。1618年、ブレントール帝国がバレンシア王国に送った使者が、バレンシアの騎士によって刺し殺されるという、カディス事件をきっかけに起こった東西両大国の激突である。
バレンシアの後ろ盾を得ているサンレモ公国は、当然ながらブレントール帝国と対峙することとなり、宮廷ではブレントール帝国と戦うための作戦会議が連日開かれていた。
「我が軍だけで戦線を支えることはできません。ここは傭兵を募りましょう」
「諸侯にも兵を派遣するよう命令を出さねばなりません。とにかく、数を集めなければ」
「うむ。兵を集めるのは大事だ。だが、大きな戦略も定めねばなるまい。誰か意見のある者はいないか?」
サンレモ公の言葉に、今まで饒舌だった貴族たちが途端に口をつぐんだ。このような大規模な戦いはサンレモ公国始まって以来なのだ。彼らとしても何を戦略と定めれば良いのか分かっていない。
当然のことだが、ブレントール帝国を討ち滅ぼすことなどは不可能だ。であれば、何を目標とすれば良いのか。
バレンシア王国に引きずられて参戦したに過ぎないサンレモ公国には、明確な戦略的視野が欠けていたのである。
群臣が口をつぐむ様子を見て、サンレモ公は不快な気分になる。と、そこでファウストがそばに立っていることを思い出した。彼の予言を聞けば、何らかの目標を立てることができるのではないか。
そう考えたサンレモ公は、ファウストに今回のことに関して何か夢を見ていないかを聞いた。
すると、ファウストはいつも通りの冷めた様子でこう言った。
「はい。私が見た夢は、サンレモが焼かれ、公が討たれる夢でございました」
空気が凍る。ファウストの言葉は、お前は死ぬ、というものだったのである。群臣はサンレモ公の怒りを恐れ、それは現実のものとなった。
「貴様! 余が死ぬと、そう申したのか!」
「左様にございます。殿下はこの戦いに敗れ、サンレモは滅びます」
激怒するサンレモ公に対して、ファウストのなんと冷静なことか。その落ち着きようは、もはや彼が人ならざる何者かではないか、と思わせるほどであった。
とはいえ、今回のことは庇い立てのしようがない。どのような戦略を立てれば良いだろうか、と話し合っていた会議の席上で問われたからとはいえ、突然、あなたは死にます、と言ったのだ。サンレモ公が、馬鹿にしているのか、と怒り狂うのも理解できる。
「もう良い! もういい加減に余の怒りは限界だ! 戦を前にして不吉なことを申す、この不届き者の首を刎ねよ!」
群臣が取りなしても、サンレモ公の怒りは収まることがなかった。衛兵はその怒りの矛先が自分に向くのを恐れ、ファウストを拘束した。
こうして、十年以上にわたってサンレモ公のお抱え占星術師として側仕えをしたファウストは、敗北を予言する異端者として首を刎ねられたのである。
予知夢という異能を持った男、ファウスト。その終わりは実にあっけない最期であり、かような終わりを迎えたのは、ひとえに“不吉な予言”が嫌われたからに他ならない。
古い神話にも、不吉な予言者を嫌い、その予言を信じずに滅びたという都市の逸話があるほどだ。
さて、これにて哀れな一人の男の物語は終わりだが、余談をするとしよう。
“異端者”ファウストを処刑した後、サンレモ公は兵を挙げてバレンシア王国の軍と合流し、戦線を支えることとなった。
だが、主が留守の都というのはとかく乱れるものだ。バレンシアの後ろ盾を背景に、強引に統一を進めていたサンレモ公は多くの人間から恨みを買っていた。
サンレモ公国に滅ぼされた諸侯の遺臣などを中心に、反サンレモを旗印としたロンバルディア同盟が結成。各地でサンレモ公の軍は撃破され、勢いに乗った同盟軍は遂にサンレモの都をその手中に収めんとした。
事ここに至って、サンレモ公は慌てて前線を離脱してサンレモへと舞い戻るが、すでに城は落ち、栄華を誇ったサンレモは炎に包まれていた。
呆然としたサンレモ公は、降伏の手土産を求めた騎士の手によって討たれ、ここにロンバルディア統一まで後一歩に迫っていたサンレモ公国は、ファウストの予言の通りにあっけなく滅び去ったのである。
サンレモ公国を滅ぼしたロンバルディア同盟の中心となったのは、かつてサンレモ公に逆らって断絶したオルシーニ家の故国であるグロッセート共和国。
そして、グロッセートのシニョーレに反サンレモ同盟の結成を促したのは、ファウストの妻カッサンドラであった。
彼女は夫ファウストの予言通りに動いたに過ぎない。彼女の日記にはこう書かれていた。
――愚かなる予言者の死後、サンレモは炎に包まれ、公はその命を終える。悲劇の幕を引くのはカッサンドラなり、と。