第一章 満月の夜、僕は使徒になる。【1】
世にも綺麗な少女が倒れていた。
満月の月灯りに照らされて、その存在を主張するように燦然と輝く金色の長髪を乱れさせて、アスファルトに横たわる少女。
その日の僕は、いつも通りに学校に行って、授業を受けて、家から徒歩五分のコンビニでのアルバイトを終えて、家に帰宅する途中だった。
その道中に倒れていた少女を、僕はすぐさま駆け寄り、抱き起こした。
「大丈夫ですか?」
返事はない。
整った顔には少しの汚れと汗が見られる。僕はポケットからハンカチを取り出してそれを拭う。
規則的に繰り返される呼吸は荒く、少女の様態が悪いことを示している。
すぐさま最寄りの病院を思い浮かべてみるが、一番近い病院でも二十分はかかってしまう。携帯で救急車を呼ぶという手もあるけど、残念ながら、バッテリーが切れてしまっているので無理だ。
「…………血…………」
少女の小さな唇から、吐息のように小さな声が漏れた。
『ち』という音。
それを聞いた僕は、少女がどこか怪我をしているのじゃないかと思い、少女の四肢を見渡す。
少女はいわゆるゴスロリ服と呼ばれる服装に身を包んでいて、変に露出している箇所が多いので、これはなかなか嬉しい……いや、目のやり場に困るのだが、見た限りでは出血している箇所は見受けられない。
もしかして、僕は少女の『ち』という音を間違って解釈したのかもしれない。それか、『ち』という音以外にもなにかを言っていたのか。
「ねえ、だいじょ――」
訊ねようと、少女の顔を見ようとして、僕は固まった。
あまりにも近過ぎる。それこそ、ほんの数センチどちらかが身動きを取れば、唇と唇が重なってしまいそうな距離に、少女の顔があった。
蒸気して赤くなった頬。ふっくらと盛り上がった桃色の唇。美しく長いまつ毛。少女が僕に身体を寄せたことにより、密着した腕に伝わる胸の感触。
どれもが僕の心臓の鼓動を高まらせ、思わず唾をごくりと飲んでしまう。
下手に動かすと、僕がわいせつ罪に取られてしまうような危険性もあるため、しばしの膠着状態のままでいると、不意に少女が力を失くしたようになだれ込んできた。
それを受け止めると、僕と少女は地べたで抱き合うような形になってしまった。こんな綺麗な娘を抱きしめられるなんて、とんだ役得だよなぁ……とか思っている場合じゃなかった。
僕の肩に顎を乗せる少女の荒い息はそのままで、僕はどうすればいいのかわからず、とりあえず少女の背を撫でることしかできない。
それでどうにかなるかはわからないが、病気の人にはよくこうしているような気がする。
こういうときには、自分に看病の経験がないことを恨みたくなる。
といっても、僕も妹も身体が頑丈だから、滅多なことがない限り病気なんかしないので、仕方がない。
不意に、首筋をなにかがなぞった。温かくて、ざらざらしていて、それでいて水っ気あるなにか。
全身を駆け巡る悪寒。
脳内に鳴り響くレッドシグナルに、僕は反応することができない。
金縛りにあったかのように、凍りつく肉体。
動かない。
動かすことができない。
指先から足先まで、まったく動かない。
何者かに身体のイニシアティブを握られたように、こちらの命令を一切受け付けない。