プロローグ-愛する君へ-
夜風に揺れる木々のざわめきが大きく音を立て、彼が花草を踏みしめる音を掻き消す。
金色の長髪を揺らしながら、一歩、一歩、ゆっくり、しかし、確かに歩を進める。
瞳に灯った紅は、ルビーのような輝きを放ちながら、しっかりと前を捉え、目的地を見定めている。
はぁ、はぁ、と荒々しい息を漏らし、全身を襲う気だるさ、額から伝う汗。
それらすべてを無視して、彼は歩き続けた。
決して止まることなく。
木々をかき分けながら進んだ獣道の果てに、彼は目的の場所にたどりついた。
「ふっ……」
なんとかたどりつくことが出来たということに安堵すると、思わず笑みが零れてしまう。たとえ、これから自分がどのような道をたどる運命にあるか知っていたとしても。
木々に囲まれ、ぽつんと意図的に開かれているように思える草原の上に、彼は仰向けに倒れた。
すでに肉体の疲労は限界に達しており、これ以上の移動は無理に等しかった。
だが、それでも良かった。
彼の目的は、この場所にたどりつくことさえ出来れば、果たすことが可能なのだから。
錆ついた機械のように、歪な動きで腕を空に伸ばす。
指の先からは、砂粒のような、金色の粒子が出ている。
いや、違う。
それは彼自身だった。
彼の指が、金色の粒子となって、風にさらわれ、流れていく。
(覚悟はしていた……わかってもいた……故に、後悔などありはしない)
ほんの少しの疲労も防ぐために、声には出さず、心の中で自分に言い聞かせるように呟いた。
彼は知っていた。
(すでに私の体は限界だった……ここまで持ってくれたことは奇跡に等しく、だからこそ、私はこの終わりを受け入れよう)
自分がもう、長くはないと言うことを。
死が、目の前に迫っているということを。
満月の色に似た金色の粒子を放ちながら、彼の体は消え、手はもうなく、今も手首から徐々にその姿を変質させている。
もって一分、と言ったところだろうか、と推測しつつ、彼は静かにまぶたを閉じた。
神経を研ぎ澄まし、夜風が揺らめかせる木々のざわめきを、ノイズを除去するようにして排除し、それ以外の音に耳を傾ける。
……がさ、がさ。
静かだが、確かに彼の耳には届く。
何者かが、草を、花を、木を、土を踏みしめる音が。
(私の魔力を感じて追ってきた、か。燃えかす同然の私の魔力を感じ取れるとは、彼らも相当に鋭敏なものだ)
自分を追ってきただろう人物たちに思いを馳せながら、まぶたを開いた。
すでに身動きが取れない彼は、首だけを左右に動かして、自分の現在を確認する。腕は、肘小僧までまだ
残っている。脚は、もう太もも辺りまでしかない。
痛みはなかった。それだけが救いかもしれないな、と再び満月を見上げる。
(あの子にも、見せてあげたかった)
脳裏に浮かぶ、愛しい娘の笑顔。
(しかし、それも叶わない)
それはきっとだれのせいでもない。だれも悪くない。
(私と『彼女』が選んだ道は、決して間違ったものではなかった。今、ここにたどりついた私だからこそ、そう言える)
かつてここを『彼女』と訪れたとき、彼は後悔した。
自分は間違いを起こしたのではないのかと。後悔して、でもそれを断ち切ってくれたのは『彼女』だった。
だからこそ彼は、そんな『彼女』と交わした約束を果たすために、愛娘を置いて、己の命を燃やしながら、ここまでやってきた。
たとえ『彼女』がもうこの世に存在していなくとも。
自分がこれから、この世から消え失せてしまうとしても。
ただひとつ、『彼女』と交わした約束を果たすことが出来れば、そこに悔いはない。
(さて……そろそろ、か)
腕が消え、脚が消え、もう残りは少ない。
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
彼の言葉を掻き消すように、一際大きな風が吹く。
彼を中心として、草原を覆うように金色の輝きが灯る。
彼の、命を賭した魔術が草原に響き渡り、風を起こしている。
その瞬間、彼を追っていた足音が早くなる。
しかしそんなこと、すでに彼には関係なかった。
(わた――目的――果たされた――アリサ――)
巻き起こる風が、金色の粒子をさらう。彼の肉体の消失が早くなって、今にも消えそうになる。
おぼろげになる意識の中で、『彼女』と、愛する娘との記憶が走馬灯のように流れる。
いろいろなことがあった。
だが、その中でも彼の中に鮮明に残る、愛しい記憶が、蘇る。
娘を中心に、左右に彼と『彼女』が立って、手を繋ぐ。そうして三人で歩いた、彼の地。
(――アリーシア――)
蘇った娘の笑顔に、微笑み返すようにして、彼は――
(――)
最期を迎えた。