トロイメライ
教室から昇降口までの道を、恵と話しながら降りた。
恵はその後すぐ走って帰ってしまったので、暇だった私は
帰り道、恵との会話を思い出していた。
『どーお??雪君♪』
『どおって・・・何が?』
『だーかーらー恋愛対象かどうかって事!!』
『そんな事・・・今日会ったばかりでわかんないよっ。』
『・・・白。もしかしてさ、まだ吹雪君の事・・・』
『・・・・』
『あのさ、白。そりゃあ辛いかもだけど、でも』
『ごめん恵。やめて。そんな事・・・気にしてないから。』
『・・・そんな事 って・・・。』
『ほらっ それより早く塾行きなって。遅刻だよっ』
『あっ!!ホントだ!!じゃあね白!!』
『うん。また明日ね』
ひととおり思い出してフゥッとため息をついた。
もうすっかり赤くなった空をみて、目の奥が熱くなるのを感じた。
私、まだ引きずっているのかなぁ・・・。
吹雪の事・・・。春子ちゃんの事・・・。
2年前、中学二年生にあがった私は、不安でいっぱいだった。
なぜなら私は一年生の頃、新潟の学校でいじめの対象になっていたから。
理由は5月に行われたピアノのコンクールで先輩と同じ曲を弾き、
私だけが金賞だったから。賞をつけるのは学校の音楽の先生。
先輩は私と互角なテクニックを持っていた。が、最終的には
練習態度で判断され銀だった。
それ以来私はどん底に落ちたんだ。
机の落書き・上履きの消失。そんなのはまだ可愛い方。
8月になると制服のTシャツをかくされ、代わりにと冬服を
渡されることもあった。スクール鞄も捨てられた。
さらに先輩は毎時間1年の教室に来ては、クラスのみんなの前で
「サイテー女」というあだ名で私を呼んだ。
だんだん友達が遠ざかっていくなか、辛かったけど
私は学校を休んだりはしなかった。
私は悪くないんだし、休んだら負けだと思ってたから。
でも だめだった。
事件が起きた。
12月の事だった。全然学校を休む気配の無い私に苛立ち、先輩は行動に出てしまった。
放課後、帰ろうとしていた私を無理矢理体育倉庫にひっぱり込んだ。
口を押さえられ、鼻で呼吸するしかなかった私がそのときかいだ匂い。
ボールのゴムくさい匂いや汗のしみこんだバスケ部のゼッケンのくさい匂い。
それから鼻のすぐ下にある先輩の手の・・・ハンドクリームなのか香水なのか
わからないが、私の嫌いなハーブの匂い。
あれは今でも忘れられない。
「ぅ゛ーー・・・!!!」
私は必死で、私の口を押さえる先輩の手をはずそうとした。
足をばたばたさせて、誰かに気付いてもらおうとした。
そのとき。
首に伝う冷たい液体。
右下に覗く銀色の・・・カッターナイフ。
その瞬間の私の顔はどんなものだっただろう。
「私の曲をとりやがって」
先輩は低く、とても女とは思えない声でそう言い残し、体育倉庫をでた。
わたしの首に傷を残して・・・。
体育倉庫の中でへたりと座り込む私。
首から流れるひんやりとした血。
さっきまでは強烈に匂っていた独特な匂いもわからなくなって、
自分が今どんな立場に置かれているのかも考えたくなくて。
初めて泣いた。
「ぁ・・・ぁああああああ!!!!!!!」
大声で泣き叫んだ。
わけの分からない言葉を発しながら、私じゃないみたいに。
その日は夜になって日直の先生に保護され、家に送ってもらった。
事情は耳が痛くなるほど聞かれたけど言わなかった。
ただ、両親には「転校したい」 と、それだけ言った。
一週間後、私は今住んでいる所、茨城へと引っ越してきたのだ。
父方の実家が茨城ということでこの地に引っ越す事をきめたのだった。
精神がぼろぼろになっていた私に、両親は
3ヶ月間はカウンセリングを受け、4月になってから茨城の中学に入る事を進めた。
ピアノも、見る事さえ嫌になっていた。
━━━はっ━━━
家に着いた・・・。
夕焼けの空をみていたせいか、思い出したことは嫌な事ばかり。
そうか。中学1年の時は私はとてもかわいそうな女の子だったんだ。
一年後、「彼」に出会ったおかげで私は復活できた。
そうでなければ私は今頃何をしているのか・・・。
「彼」がいたから・・・。私は・・・。
玄関を開けた。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
出てきたのは妹の藍。今年で10歳の小学4年生だ。
かなり上で2つに結んだ髪の毛はきれいな漆黒で、肩まである。
「藍ーお母さんは?」
「りょうりつくってるー♪おとうさんとっ」
かわいい笑顔でにっこりと笑う妹。
妹は3年前まだ1年生。私のせいでせっかく出来た友達と
離れ離れになってしまった。泣いていたのをよく見た。
妹は、大事にしなくてはいけない。
「よーしっ。お姉ちゃんとあそぼっ」
「わーい♪」
私達はリビングへと入っていった。
お父さんとお母さんがキッチンから顔を覗かせる。
穏やかな表情で「おかえり」と微笑み、料理を続ける。
私は藍にひっぱられ、テーブルの脇へと連れて行かれた。
そこにあるのは白いグランドピアノ。
「今は・・・もう弾けるのにな・・・。」
3年前は弾けなかったこのピアノ。
ふたを開け、適当に鍵盤を押す。
ポーーン・・・
レの音がリビングに響いた。
「ねぇっ、おねえちゃんっ。ひいて♪ひいて♪」
グランドピアノに手を置いて、ぴょんぴょん飛び跳ねるかわいい藍。
2つに結んだ髪を揺らして、またにっこりと笑った。
「しょうがないなー藍は。」
私はかわいい妹に、一曲弾いてあげることにした。
━━鍵盤に手をセットする。
手を持ち上げると同時にスッと息を吸い、ジャン!!と鍵盤を叩く。
あとは手をすべらせるだけ。手の行きたい方向に。
楽譜もメトロノームもいらない。
手が全て覚えてくれているから。
「うわぁっ・・・」
藍が声をもらす。
「トロイメライ だな。」
「この曲いいわよね。」
料理から手が離れたお父さんとお母さんもグランドピアノによってきた。
この時間が私の一番好きな時間。何もかも忘れてピアノを弾ける、
とっても幸せな家族団らんの時間。
トロイメライは今日の記念。
私と、雪君の出会いの記念。
一音一音を丁寧に弾いた。
今まで何度も弾いたトロイメライを、今までになく丁寧に。
それからしばらくの時間、桜木家には優しいトロイメライが響いた。