第八話:の!
>>薫
5月なのに、何故か曇った日が続く、少し鬱な気分が続きがちな中、この頃妙に桜がそわそわしている。いや、ウキウキしているといった方が正解か。来週半ばに幼稚舎の年少さんの遠足があるので、それが楽しみで仕方ないのだ。
ただし、行き先は井の頭恩賜公園。学院から一番近いレジャースポットに貸切バスに乗って行って帰るだけ、というお嬢様学校を名乗る割には随分素っ気ない遠足であると思う。
実際、ウチからでも車で10分もあれば行けるし、殆どお金も掛からないので、桜を何度か連れて来た事もある公園だ。我が家と同じ様に武蔵野台一帯に居を構えている家の子なら、1度ならず連れて来られた場所だろう。幼稚園児だといえがっかりしないのだろうか?少なくとも僕が小さな子供の頃は、遠足の行き先が京都御苑だったりすると妙にがっかりしたものだが……。まあ、遠くへ行く、お金の掛かる場所へ向かう事だけが全てではない、と解っている心算だけれど不安に思う。
まあ、何処だろうと遊びに行ければ喜ぶ娘だから、所詮杞憂に終わるだろう。詰まらなかったなら詰まらなかったで、別の機会に他の場所へ遊びに連れて行ってやれば済む事だ。
幼稚園から配られた手引きを見ながら必要な物の準備をボチボチ進めていた木曜日の夕方、京都の実家から電話が掛かってきた。
「もしもし?」
「コホン……。ああ、薫か?私だ。」
電話の相手は父だった。
「あら、お父さん。珍しいわね、お父さんがウチへ電話してくれるだなんて。」
「まあな……。実は今度の週末、学会があって上京する事になってな……。」
「あら、此方に泊まるの?」
思わず我が家に泊めろという、父には珍しい催促だろうか?そう早合点した僕はそう尋ねた。
「いやいやまさか……。もう竹橋に部屋を取っている。」
「何だ、そうなんだ……。」
もうKKRホテルに部屋を確保していると聞いて、僕は口では残念そうに聞こえるように嘯いた。何せこの間すったもんだあったばかりなのだ。和樹が不平不満を言いそうな要因は出来るだけ省けた方がいい。もしも僕の父親が数日間ウチに寝泊まりする、そんな事を夫が知ればどうなるか……。少なくとも僕の中では、その結果は火を見るより明らかだ。
「どうせなら、滅多に会えないんだし、お父さん、此方にいらしたら宜しかったのに……。」
「ん、行くぞ?」
父の何気なく発したであろうこの一言で、僕は思わずその場でズッコケそうになった。結局来るの?
「当たり前だろう。父さんだって可愛い孫娘の顔を見たいさ。……でも、あまり時間がないから、学会の合間か週頭に帰る序でにそっちにちょっと寄らせて貰えないかな?」
「う――――ん……。わたしの方は全然構わない、寧ろ大歓迎なんだけれど……。」
旦那がねえ……。
「何だ?どうした……?」
「お父さん、ちょっと和樹さんに相談しなきゃ……。また今夜電話するわね。」
そう、電話を切ろうと受話器を耳から離す際に、
「おい、おい、おい!」
と、リズムカルに抗議する父の声が飛び込んできた。何だろう?僕はまたスピーカーに耳を押し付けた。
「ちょっと待ってくれ。そっちに一晩でも厄介になるのでもないのに、和樹君の許可を貰わなきゃならんのか?事後承諾でいいだろう?」
「それは……、そうだけれど……。」
父の言う事もそうだろうとは思う。しかし、和樹の性格を考慮するとやっぱり、
「何時何時にウチのお父さんが日帰りで来る事になったから。」
なんて言おうものなら予想外の方向に険悪になりかねないのも事実な訳で……。察してほしいな。と、僕は電話の受話器をギュッと握り締めるようにして、父に向かって念を飛ばした。
「わかった……。」
本当に察したのか、父は受話器の向こうで溜息を吐いた。
「それじゃあ、後で結果を報告してくれ……。」
「わかった。ごめんね、お父さん。」
見えていない事など百も承知でも、ついつい空へ向かって何度も頭を下げて平謝りしてしまう。
「はあ……。なあ、薫。」
「……何?」
「お前……、和樹君とちゃんと生活……出来ているか?」
「…………どうして?」
「いや……。そこまで気を遣わなければ、一緒に暮らす事もままならないのか?」
「そんな事ないわ。大丈夫よ。心配しないで。」
父の不安を打ち消せれば、と僕は慌てて首を横に振った。しかし、やはり親は親だと言うのだろうか、父は最後にこう言い残した。
「辛くなったら、何時でも帰って来ていいんだぞ!」
子機を充電器へ戻すと、玩具で大人しく飯事遊びに興じていた桜が、ソファーの陰から顔を上げて僕の方へ視線を投げ掛けた。
「ママ――。今の電話、誰だったの?」
「ん?京都の方のお祖父ちゃんだけど……?」
「ふ――――ん……。」
そう言って顔を背けて遊びを再開したと思いきや、桜はまた口を開けた。
「お祖父ちゃん。何か言ってた?」
「今度のお休みの時に、桜に会いに遊びに来るかも、だって。」
「…………かも?……ふ――ん。」
何か引っ掛かったのか、数瞬憮然とした表情を見せたものの、桜は今度こそ飯事を無邪気に再開した。
全く、子供にはどきりとさせられる。穢れを知らないが故に、少しでも此方が暗いものを匂わすと、それを敏感に察知して深淵にある真髄まで見通したような素振りを垣間見せる。そうでなくてもこの間の夫婦喧嘩を派手にやってしまって以来、桜は僕達の負の側面に対して必要以上に過敏になっている節さえある。全く、油断も隙もあったものではない。
そうかと思えば、熊の縫いぐるみを抱かえ、ソファーやカーペットの上をゴロゴロと仰向けに寝転がって、
「にゅ――!」
等と子供らしく奇声を上げて母親の気を引こうとする可愛らしい面もある。全く、子供と云う者は不思議だ。だからこそストレスを感じる反面、僕は子育てと云うものの不可思議な魅力に取り憑かれている、そう感じる事がままあった。
「今度の月曜日、わたしのお父さんがウチへ来られる事になったから……。」
夕餉の食膳を前にした彼へ早速件の話を切り出すと、和樹はまるで飛び上がらんとばかりにビクッと肩をいきり立たせた。そんなに僕の親が来るのが嫌なのか、こいつは……。
呆れつつも透かさず、
「でも、学会の帰りに夕方、ちょこっと寄ってすぐ向こうへ帰られるそうだから、あなたと蜂合わせる事はないと思うわ。」
と言うと、今度はすぐに肩を下ろし、穏やかな表情を顔に浮かべながらまったりと静かに和樹は吐息した。馬鹿にしているのか、と却って疑いたくなる程判り易い。しかもその上、
「そうか……。残念だな……。」
等と、さっきからの反応を鑑みる限りかなり高確率で心にもないであろう出任せをほいほいと口に出している。
何だろう、面倒臭い点では似たような物なのに、この果てしない魅力の無さは!食わせて貰っているから声を大にして文句は言えないが、この間の喧嘩も手伝って、このところ僕は、世間の奥様連中が夫を疎ましく思う心情を凄く理解出来るようになっている。このマンネリとも生理的由来とも言えぬモヤモヤした嫌悪感を振り払いたいが為に、
「そうね。」
と僕は露骨にそれを見せつけるように和樹から顔を背けた。
それでもって、週末である。
夕方、幼稚園から帰って来て娘と二人、リビングで寛いでいると下に来客が居る事を知らせるインターフォンの電子音が唐突に鳴り始めたのが聞こえた。
俯せで絨毯の上に寝ていた状態からムクリと起き上がり、インターフォンの画面を見てみると、何処か懐かしい人の頭がくっきりと映っている。だから、僕は喜んで受話器を取った。
「いらっしゃい、お父さん。」
「やあ、薫。ちょっとお邪魔するよ。」
「お父さん。これ、どうぞ。」
「ああ、ありがとう。」
家の中へ入った父親に来客用のスリッパを僕がそっと差し出すと、父は自分の革靴を脱いで上がり框に乗る時にそれへ足を掛けた。ホテルから東京駅の方向とは殆ど真逆で距離もあるから、実際だと還暦間近の彼には相当負担のある寄り道だったろうに、その顔は何処か明るい。
父を案内してリビングへの扉を開けると、その軋んだ音が耳に入ったのか、ソファーの背もたれから廊下の方を窺うように桜が顔をちょこんと出した。そして、僕と後ろにいる父の顔を交互に見つめるように視線を左右に揺らし、ぱあっと明るい笑顔を見せて、
「あっ!お祖父ちゃん!」
と、転がるようにコロコロトン!とソファーの座面から飛び降り、父の足元へ駆け寄って来た。事前に教えておいたとはいえ、いや寧ろそうだったからか、きっと楽しみにしていた分嬉しさも一入なのだろう。
「おお、桜。お祖父ちゃんだよ。久しぶりだねえ。元気にしていたかい?」
父もこれまた、メロメロという擬態語がしっくりきそうな程相好を崩し、屈みこんで孫娘の頭を愛おしそうに撫でている。今の所、ウチの両親にとって孫と言えるのはウチの娘しかいない所為か、それこそ目に入れても痛くない位可愛いものらしい。昨今の孫と云うものは都合6つの財布を最低持っている、等と揶揄されて久しいが、少なくとも我が家のお姫様はその内の4つは確実に握っている訳だ。
残りは知らない。恐らく高確率で期待薄だろうし、あった所で生理的に頼りたくはない。
まあ、そんなところだから、一度桜を抱っこして立ち上がってよしよしと頭を撫ぜ、再び桜を床の上にそっと下ろすと、父はスラックスのポケットから長年愛用して各所がすり切れた二つ折りの紳士用の黒い財布を出し、
「これで何か桜に玩具でも買ってやって上げなさい。」
と耳打ちして僕にそっと1万円札を3枚程握らせる。この習慣も初めの頃こそ遠慮していたが、滅多に会えない分せめてこの程度でも祖父母らしい事をしてやりたい、と言う両親のたっての願いで娘の教育資金として今ではありがたく使わせて頂いている。が、断じてネコババではない。こっそりとその為に作った桜用の郵便貯金の口座に入れ、そこから時々お金の遣り繰りをしつつ、いつか時が来れば桜にそのままそっくり引き渡す心算でいるからだ。
「ねえ、お祖父ちゃん。何時までいるの?お泊りするの?」
父の灰色の背広のスラックスの、ピシリと付けられている折り目の丁度脛と膝の間を引っ張るように掴むと、何かをせがむように桜は困ったような笑顔を彼の足元へ向ける父に向かって無邪気に捲し立てた。
「ごめんね、桜。お祖父ちゃんね、もうすぐしたら京都の方に戻らなくちゃいけないんだよ。」
「え――――っ!泊まっていかないの?何で?何で――?!」
「だって……、お祖父ちゃんが帰らなかったら、お祖母ちゃんが寂しがっちゃうでしょう?」
ぎこちないながらも孫娘を膝の上に乗せ、父はあやす。産婦人科医だからという訳でもなく、小さな子供のリスクを十分承知した上で扱っている為か、義理の両親に委ねる時のような危機意識を煽られる不安は殆ど感じない。実の父親だからという身内補正を加味しても、安心して任せてられるのは、内心の負担を肩代わりされているようで、僕は正直安息した。
「お、そうだ!」
突然、父が何かを思い出したかのように僕へ向かって大声を出した。
「薫、ここにある今日の夕刊、ちょっと目を通させて貰ってもいいかな?」
「構いませんわ、お父さん。どうぞ、ご自由に。」
そうリビングの方へ声を掛けてキッチンで夕飯の支度をしようと屈んだ僕の背側から、バサッバサッと新聞紙を引き寄せて広げた音が微かに聞こえてきた。同時にガサゴソという物音も聞こえるので、なんだろうかと少し立ち上がって覗き込むと、父が鞄の中からメガネケースを取り出し、ホームセンター等で安く売っているような青銅の縁の眼鏡をまさに掛けようとするのが見えた。どうやらまた、老眼鏡を買い換えたらしい。
父は新聞を広げると、一も二もなくページを1枚だけ捲り、2面の下、情報欄と最下段の広告の狭間にある連載小説を読み始めた。先のそれの連載終了を機にこの間から新しく慶されたばかりの、戦国から江戸時代への過渡期の日本某所を舞台とする奇譚物の歴史小説である。
「あら、お父さんもそれ、読んでいるのね?」
自分も毎日の日課として楽しみにしている作品なので、思わず僕は父に声を掛けた。
「ああ……。まだ序盤だが、中々に面白くてな。少し楽しみにしているんだ。」
「それ、面白いわよね。わたしもハマっているのよ。」
そんな感じで久々に父子水入らずの感じで歓談に興じようとした時、それまで傍にいる父と台所に居る僕を交互に黙って見つめていた桜が、
「それ、面白いの?」
と唐突に口を開き、新聞の灰白色の紙面をクイッと覗き込んだ。
「…………。う――――――……。」
ジーっと父の視線の先にある小説の字面を見入るように凝視していた桜は、やがて可愛らしいが、明らかに癪に障っていると解る呻き声を微かに上げ始め、
「わかんな――い!」
と、ついに早々と白旗を掲げてベソを掻いた。仕方がない。桜はまだひらがなですら殆ど読めない。ましてや大人でも場合によっては敬遠する漢語だらけの歴史小説など理解できる筈がなかった。
3歳にもなってまだひらがなも満足に覚えさせてないの?と親の怠慢を指摘されればそれまでだとは思う。しかしそれでも四字熟語を多用する事で有名な歴史小説の現代の大家の創作物を幼稚園の年少さんが読むのは、どだい無理だというものだ。
それでも不思議な事で、一度弱音を吐いておきながら桜は未だに小説の文面へ視線を落としている。ひらがなだけで構成された絵本を読み聞かせているから、漢字の中に紛れるようにまばらに散らばった見た事のある文字を探し出し、たとえ読み方も意味も理解できなくとも、それが何らかの意味を持つ記号の集合体である事には気が付いているようだ。意外と察しが良い賢い子供なのかもしれない。
「ねえ、お祖父ちゃん。これ、なあに?」
灰色の紙の上で繰り広げられる文章と睨めっこしていた桜が、ある一点をピッと指さした。僕も興味本位で台所から忍び足で近付き、父と共に上から覗き込むと、『の』という文字が目に飛び込んできた。
「これはねえ。平仮名で、『の』と読む字だよ。」
父が簡単に説明すると、桜は小首を傾げつつ父の顔を見上げ、くりくりとした瞳を大きく見開いている。
「の?」
「そう、『あいうえお』の『の』。『の』って読むんだよ。」
「ふ――――ん……。」
桜は頷いた。そして何を思ったのか、嬉しそうに紙面上の別の一点をまた指さした。
「の!」
「そう、『の』だねえ。」
またまた別の文字を指で示す。
「の!」
「そうそう。これも『の』だ。」
「う――――んと……。これも?」
「そう、よく判ったねえ。偉い、偉い。」
「えへへ……。『の』!」
「残念、これは『あ』だねえ。」
「…………。」
ま。まだ1つ1つの文字の区別は付いていないようだ。
その後、文字を指で示す桜に邪魔されても父が満足に新聞小説を読む事が出来たかどうかは定かではない。ただ、何かを急に思い出したように腕時計へ目線を落とし、
「おお、もうこんな時間か……。そろそろ出ないと新幹線に乗り遅れてしまう。」
と、父は慌てて立ち上がって出立する準備を始めた。
鞄を提げて歩く父について行くように玄関まで見送る。
「お父さん、駅まで送りましょうか?」
と、靴を履こうと座り込んだ父に声を掛けたけれども、
「いいよ。いいよ。タクシーを拾うから。」
と断られた。
「あ、そうだ。」
靴を履いて立ち上がった父が、何かを思い出したかのように声を上げたかと思うと、鞄の口を開けて片手を入れ、中を探り始めた。そして出された手中には、1枚の白い熨斗袋が握られている。
「これで、桜に何か買って上げなさい。」
水引も文句も付いていない簡素な袋中には、下ろしたばかりと見える固くて艶のある皺1つ無いまっさらな一万円札が10枚、収められていた。
「そんな……。こんなに……?」
「いつもあまり顔を見せてあげられないんだ。こういう時位、お父さん達にも祖父母らしい事をさせてくれ。」
「それじゃあ……。大切に使わせて頂きます。」
「うむ……。それじゃあ、桜ちゃん。また会おうね。」
そう、ドアノブに左手を掛けた父がにこやかにもう片方の手を振った方向を見下ろすと、何時の間に居たのか、そこに桜が立っていた。どうやらついてきたらしい。此方もまた、父に向かって手を振っている。
「うん!お祖父ちゃん、バイバイ!」
「バイバイ……。」
そうして短い間だったが、父は母が待つ京都へ向けて去って行った。
「ああ……。お義父さん、もう帰られたのか……。」
口では残念そうに嘯きつつも内心では安堵している事を、和樹の顔を見れば一発で判る。でも指摘すると怒るだろうから、貞淑な妻らしく僕は見てみぬ振りをした。
「ええ。さっき電話があって、無事に着いたんですって……。」
「そうか……。で……。」
ネクタイの結び目を解きつつ、和樹がリビングの床の上に目を落とす。
「これは一体何だ?」
そこには、小首を傾げてウロロンと和樹を見上げる桜が……、の周囲に大なり小なり1つなり沢山なり黒いクレヨンで殴り書きされた『の』の、メモ帳とか画用紙、何かの包装紙を破り取った物など様々な紙片が散乱していた。確かに、この経緯を知らない者なら絶句してもしょうがない光景である。
「ああ、それね。よく解らないけれど……。文字を少し教えたら、この娘、『の』が凄く気に入っちゃったみたいで、ずっとこんな感じなのよ。」
僕がそう説明するや否や、
「の!」
と叫んで、桜はまた画用紙にぶっとい蚯蚓がのたうち回っているような拙い感じの『の』という字をグルっと書いた。
「の!」
「…………。」
「お、おう……。そうか……。」
子供は時に、大人には理解の及ばない事をマイブームにする事がある。