第六話:夫婦喧嘩
>>薫
VQ30DETTを搭載したY34グロリアを横付けると、普段通り幼稚舎の建物の方へ足を向ける。
「ママ――!ただいま――!」
元気よく走り寄って来た桜を胸に抱き上げ、先生に挨拶ついでに今日の様子を簡単に聴いてその場を後にしてから、二人で車に乗り込む。
さあ、そうしていつもなら自宅のあるマンションに向かってそのまま直帰するのだが、丁度円高か何かの還元セールとかでスーパーが安く食料品や日用品を売り捌いているそうなので、桜も連れて最寄りのイオンに寄り道しよう、と僕は考えていた。
「桜、悪いけれど、ちょっとそこのスーパーに寄って行ってもいいかしら?」
「お買い物?……いいよ!」
「じゃあ、行きましょうか……。」
「うん!」
エンジンを掛けてブレーキを踏み、ギアをRレンジに入れると、車を転回させる為に僕はハンドルを左に切りながら車をバックさせた。
ショッピングモールの駐車場に車を停めると、僕は桜の手を引いて店内を、1階の食料品や生活必需品を売っているエリアを回り始めた。
「今夜の御飯は、どうしようかしら?桜は何が食べたい?」
「桜、ママが作った奴なら何でも食べるよ!」
「ふふ……、ありがとう。でも、何でも良いと言われても、ママ困っちゃうな。どうしましょう……。」
「…………?」
一緒になって困ったような顔をしている愛娘を連れて店内を巡っていると、調味料等を売っているエリアを通り掛かった。ふと見ると、某メーカー製のシチューやカレーのルーが沢山安売りしているのが僕の目に入った。
「……あら?安いわね……。そうだ!今夜はシチューにしようか?」
「賛成!……わ――い!シチュウ、シチュウ、ルンルンルン♪」
桜の方も異論がなく、寧ろとても喜色満面な笑みを浮かべて歌まで歌い出したので、僕はルーの箱を手に取って黒いプラスチックの買い物籠の中に放り込むと、冷蔵庫の中に眠る残り物を思い出しつつ、必要な具材を調達する為に徘徊を開始した。
さて、粗方必要な物は整えたし、さあ会計をしに行こうか、と棚と棚の間から通路に出て左折しようとした刹那、
「あら、富士之宮さん!」
と、右側から声を掛けられた。
振り返ると、目の前に田山さんの奥さんが大きな黄色のトートバッグを持って立っていた。買い物用のそれ、という割には既にパンパンに膨らんでいるから、何かの用事があったついでに此方まで足を伸ばして来たのだろうか?自転車で来るにはこのスーパーは自宅のあるマンションから離れ過ぎている為、そんな事を僕は考えた。
「あら、田山さんの奥様!」
「こんにちは!」
僕は軽く会釈をし、桜も元気よく挨拶をする。
「こんにちは、桜ちゃん。今日も可愛いわね。……幼稚園のお帰り?」
「ええ、ついでにお夕飯の買い物も済ませてしまおうと思って。……ほら、今日はお肉が安く売っていますから……。奥様も……、ですか?」
「ううん、わたしは仕事の帰りなの。丁度この近くに出版社があってね。さっきそこに原稿を下ろして来たから。ついでに……、ね!」
嗚呼、やっぱり……。そんな感想を心の中で漏らしつつ、
「あら、そうだったんですか。それでは……。」
と、僕は話を畳み掛けた。
「あ、そうだ!ついで、と言ったら難だけれど、丁度いいわ。富士之宮さん。」
「はい?」
「今度の日曜日の事覚えている?」
「ええ。先月末の管理理事会で決まった『あれ』の事ですわよね?」
4月末の連休に入る前の最後の日曜日、マンションの管理理事会での定期会議でこのような取り決めが住人の間で交わされた。マンションの敷地内と、さらに周辺の町内会とも合同で公園等の地域の屋外公共施設の清掃を1日掛かりで行う、という物である。
その時に、近隣の自治会長同士の調整で決まったという、この次の日曜日と具体的な日取りが決まっていたので問題ないと自分では考えていた。が、その後すぐ5月の連休に入って此方が義実家に向けて慌ただしく出発したので、僕が忘れていやしないかと心配になって、奥さんは一応訊いてみたという事だった。
「……いえいえ。それでは今度の日曜日に……。」
「ええ、此方こそ宜しくお願いするわね。」
簡単に確認して互いに改めて会釈して田山家の奥さん別れると、僕は桜の手を引いて歩き出した。
「ねえ、ママ。」
「なあに?」
「さっき、603のおばちゃんと、何をお話していたの?」
「ん――っとね。今度の日曜日、ママ、マンションの大事な行事でお出かけしなくちゃいけないから、その事でお話していたのよ?」
「ふ――ん。……桜は?」
「桜はいつもの通りパパとお留守番ね。」
「またあ……?」
僕の左手を握る桜の右手の力が心なしか強くなり、心底がっかりとしたような表情をして彼女が僕を見上げている。マンションの理事会や幼稚舎の保護者会の時はいつも彼女を夫と共に家に残しているが、お母さん子な傾向が強いから、寂しく思う事も多々あるのだろうか?娘のそんな仕草を見つつ、僕は考えた。
僕を仰視したまま、桜は不安そうにか細い声を上げる。
「お昼までには、帰って来るよね?」
だが、残念。今回は普段午前中に終わる定例と異なり、規模も大きく1日掛かりになると容易に予測されるから、上手く行ってもお昼だけ食べさせに一時帰宅するか、最悪夕方まで家に戻る事は出来そうに無かった。
「まだ、ちょっとどうなるか判らないわ。」
正直に帰れないと告白するのもどうかと思えたので、僕は適当に茶を濁した。
「…………。」
不憫にも、桜は悲しそうに上目遣いをしたまま黙ってしまったが、こればかりは仕方がない。
「終わったらママ、すぐに帰って来るから。それまでパパと二人で良い子にお留守番していてね。」
「わかった……。」
諦めが着いたのか、桜は不貞腐れた声を上げて僕からそっぽを向くと、リビングの床の上に置き去りにされていたアーちゃんの所に向かって彼を膝の上へ抱き上げると、その大きな耳元へブツブツと小声で愚痴り始めた。
そんな娘の背中を眺めて肩を竦め、用意してスーパーの白いビニール袋に詰めた用具をリビングの床から手で持ち上げると、僕はソファーとテーブルの間から顔だけ上げて寝そべりながらテレビを視ている和樹の後ろ姿に向かって声を掛けた。
「それではあなた。わたし、もう出掛けるから、家の事と桜の事、宜しくお願いしますね!」
「嗚呼……。わかった、わかった。行ってらっしゃい。」
此方に顔を向けようとせず右手だけ上げて振る和樹の生返事に見送られ、何処か不穏な物を胸中に覚えつつも、僕は家の玄関のドアを閉めて施錠をし、その予感を振り切るようにエレベーターホールに向かって共用廊下を早足で歩き出した。
>>
さて、9時少し前に薫が出て行ってからの富士之宮家の様子である。
今日は町内会の寄り合いだか何か知らないが、朝御飯と片付けだけは済ませて起きたいから、という妻の勝手な都合で休日だというのに朝の7時前に叩き起こされた和樹は、内心頗る機嫌が悪かった。そして、熊の縫いぐるみで飯事をして遊ぶ娘から背を向けるように横になってテレビの画面を眺めながら、同時に何か大事な用事を失念していたような感じがして、そのモヤモヤとした感じから彼は余計にイライラしていた。
9時半の事である。
ピポピポピポ――……。と威勢良く、階下の正面玄関へ自宅に来客が訪れた事を知らせるインターフォンのチャイム音がリビングに突然鳴り響いた。
どうせ宅配便か何かだろうと、
「ねえ、パパ。誰か来たよ。誰か来たよ。出ないの?」
と服の裾を引っ張る娘に、
「ほっとけ。ほっとけ。」
と言いつつ居留守を決める腹だったが、それが一向に止む気配がなく早く出ろ!と催促しているように感じたので、仕方なく和樹は重い腰を上げるとインターフォンのモニターへ顔を近付けた。
そして、忘れていた大事な用事をすっかり思い出した。
粗いカラー画面には、和樹がよく知る、部署は違えども同期で入った友人の無駄にふくよかな顔が映っていた。その顔立ちの所為で柔和にも受け取れるが、待たされたからか幾分不機嫌な友人の様子を見て、和樹は慌てて受話器を上げた。
「いやあ、スマンスマン……。」
「すまん、すまんじゃないぞ!富士之宮。皆待っているんだ。早く来いよ。」
「すまん、今準備している所なんだ。もう少し待っていてくれ。」
それだけ言って受話器を戻すと、首を傾げて彼を見る娘を尻目に、彼は脱兎のように素早く書斎に駆け込むと、ドタバタと大きな物音をさせてから、白っぽいベージュの上下のゴルフウェアとグレーのハンティング帽を身に付け、そしてゴルフのクラブのセットが詰まった愛用の黒いゴルフバッグを背負って鼻歌を歌いながら戻って……。来たと思ったら目をパチクリする桜の前を素通りして玄関へ向かって廊下を突き進んだ。
「パパ――!何処、行くの――?」
「ああ、ちょっと出かけてくる。良い子に留守番しているんだぞ。」
玄関の三和土の間際まで慌てて駆け寄って声を掛けた桜に向かってそれだけ言うと、靴を履いた和樹はゴルフバッグを背負い直して立ち上がり、ドアを開けて外に出ると、少し前に妻がそうした通り、玄関の扉を施錠してエレベーターホールに向かって立ち去っていった。
独りだけ家の中に残された桜は、父親の足音も聞こえなくなると、急に寂しくて仕方がなくなった。だから彼女は踵を返すと、無愛想な居間のテレビが流す賑やかな声に引き寄せられるようにヨチヨチと歩き出した。
さて、急流に飲み込まれた笹舟が一時だけ水の上を激しく回り踊るように、鍵っ子の至福な時間を桜は初めて体験する事になる。
父親も母親も、大人が誰も居ない家の中、そこは子供が王であり、女王であり、紛う事無き絶対的な支配者として君臨する場所である。たとえゲームを1時間以上ぶっ続けてしようが、部屋の中で漫画や本を寝転がって読もうが、プラレールやトミカといったおもちゃを家中に広げて散らかそうが、怒られない!まさに小さき被支配民にとっては天国のような空間である。
桜がリビングの中を見渡してまず真っ先にしたのは、テレビの前のテーブルとソファーの間、床に敷いたカーペットの上に放置された、テレビ本体と同じ燻したような黒掛かった鈍い銀色をしたリモコンの元へ駆け寄って、それを拾い上げる事だった。
もう3歳で何かと分別が着く年齢だから、その表側にある12個ある数字キーのどれかを押せばそのチャンネルに合わせられる事位、小さな桜でも知っている。一先ずはこの、何が面白いのか子供には今一つ、否大人でも身内ネタ過ぎて面白さが全く伝わって来ない自称バラエティーの視聴を止めて他の局の番組に変える。それが彼女の下した最初の実力行使だった。
ところが、残念かな。彼女にはどの数字のチャンネルがどの局に対応していて、今どんな番組がそれぞれの局で放送されているのか、そうした知識が全く無かった。大人なら新聞を引っ張り出してテレビ欄を見るという手段も取れようが、まだ簡単なひらがなの区別がやっと着いたばかりの桜は文字が読めない。
結局、行き当たりばっかりで片っ端からボタンを押してチャンネルを変えていく。が、悲しいかな、この時間はどの局も大人向けのバラエティーかドラマの再放送か通販か賭け事の情報ばかりで、桜が好きなアニメとかそういう類の番組は、少なくとも地上波ではどこもやっていなかった。
「む――――――――っ!つまんない――――!」
小さなお姫様は少しだけ頬を膨らませて癇癪を起こすと、テレビを切り、リモコンを自分が座っているソファーの座面に叩きつけた。
好奇心が強く無駄に活発な男の子なら、普段入る事が許されていない父親の書斎や母親の居城であるキッチンの中に侵入して小さな冒険に勤しむのだろうけれど、大人の言う事を素直に聞く桜はそんな事など微塵にも考えず、ソファーの裏側の傍のフローリングの上で足を立てて仰向けに寝転がっているテディベアの縫いぐるみを抱き上げると、人形遊びの続きを独りでし始めた。
何時の間にか12時半も過ぎた頃、誰も帰ってくる気配のない家の中で、そろそろアーちゃんを相手にするのも飽きてきた桜は、何となしにお腹の辺りでモニョモニョするような空腹感を覚えた事に気が付いた。それを待っていたかのようにお腹の虫がグ――――と間抜けな音を上げる。
いつもなら、台所に立っていた母親が今に2台あるテーブルの何方かへ出来立ての食事を運んで来てくれる位の時間帯であるが、その彼女は今朝から不在なのでそれはない。その代わり父親にお昼をどうかしろと言っていたような気もするけれども、未だ帰って来やしない。そらそうだ。何を考えているのか知らないが、小さな一人娘を放置して友達とゴルフに勤しんでいるのだもの……。
たとえ、仮に薫が桜の為に台所へ出来合いの食事を用意していたとしても、3歳かそこらの甘やかされている子供にそんな対処が出来ようか……。
恐ろしいもので、一度それを意識すると、空腹感はただならぬ勢いで増幅し、桜を悩まし始めた。
「うえ――――ん!お腹減ったよ――――!ママ――!ママ――!御飯、欲しいよ――!」
取り敢えず居間のひんやりしたフローリングの床に背中を付け、手足をばたつかせて騒いでみるものの、当然ながら食事を手にした母親の姿は、一向に桜の前には現れない。
これだけでも3歳児にとっては絶望的な状況だ。しかし桜はまだ知る由もない。この状況が夕方の6時半前まで延々と続く事を……。
>>薫
「では、皆さん。今日は一日お疲れ様でした!」
管理組合の会長の田山さんの御主人が白いラッパ型の拡声器を手にして宣言した途端、小さな公園の中に拍手と労いの歓声がガヤガヤと大きく響き渡った。
朝から始めたマンションの敷地内の清掃活動が、空が橙色に薄っすらと染まり始める頃にようやく終わり、ゴミや道具をきちんと片付けて解散してからマンションの住民同士でお疲れ様の挨拶も兼ねて世間話に興じる。
そんな中、僕も管理組合の構成員、そして一住民として田山さんを始めとした近所の住人と軽く雑談を交わすと、家に帰る為にその場を後にした。
マンションの門扉を開けてエントランスの自動ドアの前のオートロックの機械に鍵を差し回そうと手にした袋の中に手を入れた時、そろそろ買い足さなければいけない物が幾つかあった事に、僕はふと思い当たった。
いけない、買い物に行かなくちゃ……。でも車の鍵は家の中にあるから一度取りに戻らなければ……。でも、戻ってすぐに外に出ようとすると桜が愚図るかもしれない。まあ、別に車で運ばなければならない程の量でもなし。質は悪いかもしれないけれど、近所の個人経営の小さなスーパーまで歩いて行こう。あ、そうだ。途中にあるドーナツ屋にも寄って行こうかしら。桜はお菓子が好きだから喜ぶかも……。
そんな事を黙考しつつ、そのまま回れ右をすると、僕はそのまま外へ向かって歩み出した。
約30分後、先程まで持っていた小型の掃除用具を入れた袋の他にもう2つ、洗剤と軽い食料品が少々入っているスーパーの店名と社章が大きく印刷された白い袋と、某チェーンの紙箱を両手に持った僕は、えっちらおっちらと何とかオートロックを解錠してエントランスの中へ入り、ポストを開けてダイレクトメール等を取り出して小脇に抱え込むと、何とかエレベーターに乗り込み、4階へのボタンを押して人心地着いた。
「ふ――――っ。」
何でもない作業の心算だったのに、一日野良仕事をした後の所為か、思いの外疲労が肩や腰に響いてちと辛い。だが、それでも学生の頃はこの程度など何とも無かった気もしないではない。
まだ30歳という気持ちもあるが、もう30だと驚く事もある。やはりあの頃と比べると体力が落ちていたりするのだろうか?やあねえ。
いやいや、何を言っているのだ、僕!後15年は桜を育てなければいけないのだぞ。今時点で既にそんな事を感じていてどうする!しっかりしろ!
そんな感じで自分に活を入れた時、丁度いいタイミングで目的地に到着したのか、やる気のなさ気な長い電子音と共に、
『4階です。』
と、エレベーターの階数表示灯の傍にあるスピーカーから若い女性の自動音声が流れ、同時に視界がぱっと開けた。
エレベーターから降車し、上の階とコンクリートの手すりの間から微かに挿し込んだ夕日によって暗いオレンジ色に染まったエレベーターホールに立ち止まると、僕は自分の右手に見える真っ赤な太陽に視線を向けた。
綿飴を限界まで引き伸ばしたような薄っすらとした靄のような薄雲が2つ程風に流されている以外は何処までも澄み切った大空を、低い所から斜めに挿し込む夕焼けが赤らむ黄金色に一面に照らし、見えるもの全てを橙色に染め上げている。本当にいい天気。
暖かくなってきた上に、今年は去年からの気候の関係上、杉や檜の花粉の飛散量が少なめだそうだ。だからか、今年はあまり花粉症の症状に煩わされる頻度が少なく快適な気がする。来年も再来年もこの傾向が続けば良いのに……。
「ただいま――。ごめんね、遅くなって……。…………?」
玄関の鍵を解錠し、ドアを開けて家の中に入った。が、玄関の三和土の上に上がり込んで家の中の様子を窺った途端、その尋常でない気配に僕は一瞬硬直した。
玄関や廊下がいやに暗いのはどうでも良い、廊下の突き当りに見える硝子戸からリビングの蛍光灯の白い光が漏れているからだ。だが、そのドアから桜が飛び出して僕の所へ駆け寄ってくる様子が一向に無いのはどういう事だろう……。それに、さっきから物音一つしないのも妙だ。
ひょっとして、和樹が桜を連れて何処かへ遊びに行ったのか?だが普段の夫の態度からして有り得なさそうだ……。が、流石に子供にせがまれたらあいつと云えども重い腰を上げるという奇異な事もあるのだろうか?それにしてもせめてリビングの明かりぐらい消していけよ……。
そんな事を考えて呆れながら、靴を脱いで廊下に上がると、僕は一直線に居間に向かい、ドアを開けて部屋の中を一望した。
嗚呼、嗚呼。電気も点けっ放しの上にカーテンも閉めてない。まだ明るいとはいえ向いのマンションとかの人達に丸見えじゃない……。
まず目に入ったのは、朝方閉めたレースの以外は、思い切りカーテンが全開となって夕日を取り込んでいるリビングの窓だった。
僕は夫のズボラさに内心辟易しつつも、それらを閉める為に足を踏み出そう……として自分の足元に何か気配がある事に、ふと気が付き目線を下へと向けた。
システムキッチンの左側面とリビングの空間を仕切る細長い壁の根本、丁度インターフォンの白い機械の真下に、それに背中を預けるような感じでぐったりと座り込んだ桜がそこに居た。
眠るように俯いているので表情は判らないが、子供とは思えぬその異様な静かさと黄色の長袖のTシャツの滲むように濡れている袖の先の辺りの様子から、相当な時間泣き喚いていたであろう事が容易に想像された。
「桜っ!」
僕は、無意識の内に娘の名を声高に叫んでいた。
はむはむ……。もぐもぐ……。
「どう、美味しい?」
「うん!」
余程お腹を空かせていたのだろう。むしゃむしゃと物凄い勢いでドーナツを平らげていく娘の様子を微笑ましく眺めながらそう訊ねると、桜は僕に向かって元気良く返事をし、また両手に持つそれに齧り付いた。
桜を一先ず介抱して抱きしめてから、僕は和樹は一体何処にいったのか、昼御飯はどうしたのか、桜に事情を根掘り葉掘り問い質した。
桜の語彙の少なさと喋りの拙さから細かい情景までは知れなかったが、大方何があったのかを察した僕は、本来和樹の分に買ってきていたドーナツまで桜に与えた。
「桜、ママの分も半分食べる?」
「うん!……でも、ママのもちょっと食べちゃったら、パパの分、無くなっちゃうよ?」
「いいのよ、パパの分なんて気にしなくても……。お腹を空かせていたんだから遠慮無く食べちゃいなさい。」
「わ――――い!」
「本当にごめんね、桜。」
「……ううん!ママは悪くない、悪くないよ。」
「ありがとう……。桜は優しい子ね。……今日の夕御飯は早めにするからね。」
「うん、わかった!……でも、本当にパパの分まで食べちゃって、良かったのかな?」
「いいの、いいの!」
ドーナツ抜きがなんだ。生ぬるいわ!
仕事か遊びか何か知らんが、普通3歳の子供を独りだけにさせて家を留守にするか?それに前々から予定がない事を確認した上で桜の面倒を見てくれるように頼んで了承して貰っていたのだ。どうしてもそれを放棄せざる得なくなったのなら、一言此方に連絡を寄越すべきだったろう。そうしていてくれたなら、此方もその心算でちょくちょく時間を見つけて娘の様子を見に帰ったし、彼女もこんな思いを味合わずに済んだのに!
正直、その場に夫が居なくて大変良かったと思う。この時程心を乱した事も無かったし、父親としての自覚が無さ過ぎる呆れた行動を示した和樹に対して殺意も湧いた。
ドーナツを啄む桜に視線を向けたまま、夕食の支度をする為に台所へと思い立ち上がった丁度その刹那、まるでタイミングを測ったかのようにインターフォンの呼び出し音がなり、画面が点灯して下のエントランスの大理石の床と共に野球帽にゴルフウェア姿の和樹の顔をアップで映しだした。御親切に彼の黒いゴルフバッグを背負っているのも、モニターの端からそれが垣間見られるので一目で判る。
「ねえ、ママ。出ないの?」
モニターから顔を背け、黙ったままキッチンのシンクの蛇口を捻ったのをぼうっと見ていた桜が、未だに鳴り続けるインターフォンが気になるのか、僕に向かってそう訊いた。が、僕は敢えてそれを無視して夕餉の下拵えを始める。
その内、インターフォンの方からぷっつりと切れ、家の中がフッと静かになる。音がする物と云えば、ステンレスのシンクの底に叩きつける水道水の流れる音位だ。
やがて、微かに共用廊下を苛立ち響かせて歩く足音が聞こえたかと思うと、鍵がガチャリ、ガチャリと錠が下ろされる音と共に、バタンッと勢い良く玄関のドアが開く気配が空気の震えによって僕の耳へと伝わった。
ドン、ドン、ドン、ドン……。
ノシノシと廊下を踏みしめ、そして大きな音を轟かせて勢い良くドアを壁に叩きつけるように開くと、夫は居間に入ってきた。
「何だ!居るんじゃないか!」
と、いきなり怒鳴りつけられたので振り向いた先にあった夫の顔は、まるで逆上した赤鬼の如く、鬼気迫る表情で憤怒の体を表している。よくぞそんな顔が出来るものだ。こんなのが家族なのだと考えると、それだけで反吐が出る。
「居るんだったら開けてくれたら良かったじゃないか!手間を取らせやがって。……たくっ。」
「…………。」
まるでテレビの画面の向こう側で繰り広げられるドラマの俳優の台詞のように、今の和樹の言葉は酷く空虚な物に僕は感じられた。だから無視をして料理の作業を続行する。夫の方へ意識を分けるのさえ、煩わしかった。
「おい!」
「痛い!」
そんな怒鳴り声と共に、和樹に後ろ髪を掴まれ、そのまま強引にリビングの方へ引き摺られそうになった。後頭部に走る激痛から思わず絶叫すると、僕は反射的に彼の手を必死で振り払った。
「何をするの?」
「何をするの?じゃないぞ!何で俺を無視するんだ?」
「……何が?」
「何がじゃないよ。さっき俺が帰って来たのに開けなかっただろう。」
「自分で勝手に出ていったんだから、自分でアンロックして入れば済む事でしょう……。現にそうしているじゃない。大体ね、わたしはあなたの『お母さん』ではありませんの!今、あなたと桜の食事の用意で手が離せなかった事位、見れば一目瞭然だと思いますけれど?その程度の事で煩わせないで下さい!」
自分でも驚く程突慳貪に、僕は和樹の方へ冷たい視線を向けていた。無論、体力でも暴力でも向こうの方が圧倒的なのは元から重々承知しているので恐怖していたが、何故か身体の方は夫に対して強気に出ようとする。
「だが、開けてくれたっていいだろ!」
罵倒するようにますます声を荒げると、和樹はインターフォンの開錠ボタンをビシッと指し示した。
「このボタンを押すだけなんだから。そこに居ればさっと手を止めて押す事位、5秒もあれば十分だろ!……じゃあ、何だ?君はこの程度の暇さえ割けない位忙しいとでも言うのか!へえ……、大層な御身分だな。専業主婦の癖に!」
この旦那の怒声が鼓膜を震わせるや否や、僕の頭の中で何かがプツンと切れる音が聞こえたような気がした。
「それを言うならあなただって!どうしてゴルフに行くなら、ゴルフに行くで、わたしの携帯の方へ一言連絡を遣ってくれませんでしたの?どうしてその暇すら惜しんで出掛けましたの?そもそもどうしてまだ3つの子供を残して自分だけ外出する事が出来たの?どういう神経をしているのかしら。あなた、自分が子供の父親だという自覚があるの?可哀想に……、桜がどれだけ辛い思いをしたか……。」
堰を切ったように言葉が口から猛然と溢れ出る。勢い余って詰め寄った事もあろうが、相当だったのだろう。あの和樹が顔を強張らせながら後退りした。しかし、どうやら気後れした訳ではないらしい。
「それと、これとは、関係無いだろ!」
と、僕が言葉を途切れさせた刹那、そう吠えた。普段の僕なら臆病風に流されて萎縮してしまっただろうが、今の僕には和樹が凄く矮小な男に見えて仕方がなかった。
「関係ないなんて事ありませんわ!」
「いいや!無いね。じゃあ何だ?お前は、俺が桜を置いてゴルフに行った程度の事で、亭主の事を敬う事も出来ないのか?」
「無理に決まっているでしょう?!何を言っていますの?小さな子供を独り放置する事に何ら躊躇いもない人を、旦那だからってどうして敬わなければいけない義理があるんですか?わたしは前々から、今日は家に居ないから桜の面倒を見て下さい、お昼御飯も食べさせて、とお願いしていたのに……!」
「五月蝿い!」
もう、売り言葉に買い言葉という言葉がぴったりと当て嵌まるような言葉の応酬が、僕達の間で交わされる。そして、初めて和樹とつかみ合い、と云うより殴り合いの喧嘩をした。
カッカと機嫌を損ねたまま何処へと和樹が家を出て行って暫ししてから、僕は桜が僕の方を見ながら、嗚咽を漏らして号泣していた事に気が付いた。
「ごめんね、桜。怖かったわね……。よしよし……。」
僕は、桜の元にしゃがんでその背中を抱きしめ、彼女の頭を優しく撫ぜる。するとようやく落ち着いたのか、彼女の震えは徐々に収まっていった。
「ママ……。パパは?」
「判らない。怒って何処かに行ってしまったわ。本当にどうしようもない人なんだから。……さ、御飯の続きをしないと……!」
桜から手を放し、立ち上がる。踵を返して台所へ向かおうと背を向けた途端、
「ママ!」
と、後ろから声を掛けられた。
「どうしたの?」
「……大丈夫?」
「大丈夫よ。ママの事は心配しなくてもいいから、テレビでも見て待って居なさい。」
未だ不安気な表情で仰ぎ見る桜を宥めると、僕は食事の用意を再開した。
怒りを鎮めたのか、ムスッとした和樹が帰宅したのは、夕飯が食卓の上に並び終わった頃だった。勿論謝罪の言葉など無かったが、それさえも彼に期待していない自分の心情にふと気が付いて、僕は言い知れぬ寒気を少し感じた。