第五話:義実家へ
ああ、憂鬱だ。
和樹が運転する我が家の黒いアルファードの助手席で、ドアの上縁に肘を載せて頬杖をつきながら、僕は夫にばれないように深く溜息を吐いた。
5月3日、家族3人で夫の実家に里帰り……。傍から見れば何処にも欝になりそうもない状況かもしれないが、義実家でいびられるのだろうなあ、と考えるとそれだけで無理やり笑顔を作る気も失せる。
「ママ、大丈夫?」
硝子か、ドアミラーの鏡面に反射した僕の顔が視界に入ったのだろうか?真後ろ、2列目シートの左端に座る桜が、シートベルトに抵抗するように身を前へ乗り出して上目遣いに見ながら心配そうに尋ねた。咄嗟に精一杯頬を緩ませ、僕は娘の方へ顔を向ける。
「ええ、大丈夫よ。」
「本当?ママ、元気ない?」
「本当よ。ママ、元気だから。心配してくれてありがとうね。」
そして、再び助手席の窓へ目を向け、ぼんやりと車窓の景色を眺める。嗚呼、憂鬱だ……。
桜との遣り取りが耳に入ってきたのか、運転席の和樹からも声を掛けられる。
「大丈夫か?具合が悪いなら、そう言えよ?」
「大丈夫よ、あなた。心配しないで。」
本当に体調の具合を気遣っているのか、単に吐物で車内が汚されるのを警戒しているのか、と無意識の内に夫を勘ぐっている自分に気付いて、僕はますます鬱屈とした気分になった。
たかだか義実家へ数日出向くのに此処まで気が塞がるというのも、自分でも大げさな事だとは承知しているものの、義両親や義兄義姉家族にされた様々な事をまざまざと思い起こすと、どうしても胃の後ろ側辺りがキリキリと痛んでくるような気がして辛くなる。僕は腹に右の掌を添えると、俯いていた顔をそっと上げ、覚悟を決めてしっかりと前を見据えた。
と、腹を据えた筈なのに、当の富士之宮の家を目の前にすると僕は足が竦んでしまった。罵詈雑言を吐かれていびられた挙句いい様にこき使われるのだろうな。桜にも有る事無い事吹きこまれたらどうしよう……。
ふと足元を見ると、僕の左手を握って寄り添う桜が、不安げな表情をして僕の顔を見上げている。しっかりしなければ!僕は気を引き締め直した。
旦那の方は、やはり自分の実家だからだろう、呑気に鼻歌を歌いながらガレージに車を止めると、さっさと足早に玄関に向かって歩いて行った。
「さあ、桜。行こうか……。」
「うん……。」
やはり怪訝そうに此方を仰ぐ娘の手を引いて、僕も和樹の後に続いた。
ガチャン……。
「ただいま!」
「お義父様、お義母様。お邪魔します。」
「こんにちは――!」
三者三様で大きな声を上げて玄関先から家の奥に向かって挨拶したものの、舅も姑も、勿論義兄一家の誰も、僕達を出迎える者は居ない。しかしそれがここ最近当たり前な事になっているのか、和樹は構わず靴を脱いで上がり框の上へ立つと、靴を揃えてさっさと廊下の先にある居間へと歩みだそうとし、じっと突っ立っている僕と桜の方へ振り返った。
「おい、薫、桜。どうした?早く上がって来いよ。」
「え……、でも……。」
「いいよ。いいよ。構うものか、気にするな。」
やはり元々他家の出の所為で家人が迎え入れて居ないのに勝手に上がり込むのは躊躇われたが、夫に促されるまま上がり框の上へと上がり込むと、僕は桜の靴を脱がせ、自分の靴と共に夫のそれの隣へ仲良く並べた。
居間に入ると、何故か部屋の中にはソファーに仲良く座ってテレビの競馬の実況中継を見ている義父と義兄しか居なかった。
「おっす!親父、兄貴、ただいま。」
和樹が声を掛けると、茂樹と元樹はやっと自分達の背後の人の気配に気が付いたのか、此方の方へ振り向いた。
「あ、和樹。お前帰っていたのか……。」
「たく、やっと帰って来たか次男坊が……。おお!薫さんと桜も一緒か……。」
「お久しぶりです。お義父様、お義兄さん。数日ですがお世話になります。……さあ、桜。お祖父ちゃんと伯父ちゃんに挨拶なさい。」
「こんにちは。」
従順な嫁を演じる為、透かさず夫の前に出て頭を下げると、僕は桜に義父と義兄に向かって挨拶をさせた。でも、何があってもこの手を離すまい、と娘の肩に置いた両掌に力を込める。
そんな事を知ってか知らずか、まるで自分が聖人君子でもあるかのような満面の笑みをその顔に浮かべながら、義父はポケーっと見上げている桜の頭を掌で数度撫ぜてこう言った。
「おお、暫く見ない内に大きくなったなあ……。ハハハ……。よしよし、よく来た。よく来た。」
そしてソファーから立ち上がると、義父は息子である和樹と向かい合った。
「まあ、短い間だがゆっくりしていけ。……それとも、お前達も此処で一緒に暮らすか?ガハハハ……。」
義父は冗談っぽく笑っているが、内心本気で考えていそうで怖い。勿論、僕は全力でお断りである。
「いやあ、桜の学校の事もあるからなあ……。」
そう、夫が断りを透かさず入れたので僕はホッと安堵しかけた。が、続く、
「それが済めばまあ考えるけれど……。」
の一言を聞いて、愕然とした僕は思わず和樹の顔を睨み付けてしまった。
そんな事、意にも介さないように、男達の会話は弾んでいく。
「ところで、親父。お袋と、義姉さんや子供等はどうしたんだ?居ないようだけど……。」
「ああ、母さんと洋子さんなら、綺羅羅と雅樹を連れて百貨店へ買い物に出掛けているよ。」
「へえ……。」
「お前が桜も連れて久々に帰るっていうからなあ。母さん、御馳走作ってやるんだ、って張り切っていたぞ。」
義母が張り切っている、という事はその御馳走とやらを作るのに義姉と共に僕も彼女にこき使われるのかなあ……、そう思うと僕は心底げんなりした。
「ママ……。大丈夫……。」
「うん、大丈夫……。大丈夫だから……。」
「どうせなら、昨日と一昨日も桜の幼稚園を休ませて、今日からと言わず28日から此方で過ごせれば良かったのにねえ。」
一瞬耳触り良く聞こえなくもない猫撫で声で、だがしかし、融通の利かない不出来な嫁だ、という本音が確かに垣間見られる調子で義母が話している。家族全員に囲まれているので顔は笑っているが、瞳だけは睨めつけるように僕の方を見据えていた。
「本当に申し訳ありませんわ、お母様。わたしもそうした方が良いのかな、とも考えたのですけれど、この娘がどうしても幼稚園でお友達に会いたがって……。」
最低だな、子供を盾に使うなんて……。応酬しつつそんな自己嫌悪に陥りながら、ごめんね、と膝の上に抱かえた娘に心の中で僕は謝った。
案の定、早速夕飯の支度に姑によって僕は義兄嫁と共に駆り出された。
監督役の義母に見張られる中、女2名並んで台所のシンクで作業をする。島根の家で親戚皆が集まった時も、女達は総出で台所へ集められる事が多いが、此処には残念ながら向こうのような和気藹々とした雰囲気は一切感じない。ただ殺伐とした空気があるだけである。
しかも、巴>洋子>僕とカーストが成立している以上、大概の負担は僕の背の上に伸し掛かる。
「薫ちゃん、ボヤボヤしないで!はい、これ!」
「はい!」
いや、人参1本丸ごと放り投げないでよ!こちとらじゃがいもの皮を剥いているのに!面倒臭い作業ばかり此方に流さないでよ!……と文句を言えればどれだけいいか……。恨めしい思いを込めながら僕は洋子義姉さんの顔を見つめた。
「あら、何?薫さん。このお出汁、味が薄過ぎるじゃない。あなた、ひょっとして毎日ウチの和樹や桜にこんな物を飲ませているの?!」
だったら悪いか?こちとら関西生まれだから薄味がデフォルトなのだよ。というか、此方から言わせれば、お前の所の味付けが濃過ぎる!少しは塩分摂取量を考慮しろ!……と、怒鳴りつけたい衝動を何とか堪え、
「すみません……。」
と義母に向かって屈辱的な思いをしつつ頭を下げる。解っていた事だけれど、これが後3日程続くのか……。と思うと鬱屈過ぎて死にたくなる。
それでも僕に幸いしたのは、お母さん娘の桜が、
「ママと一緒にいる!」
とせがんで台所までついて来て、僕等の背後、少し離れた所に立った義母の足元の近くのマットの上で一人遊びをしている事だった。娘が傍に居たからこそ頑張れたし、流石に孫娘の前でその母親をいびると印象を悪くすると踏んだのか、姑も然程酷い事を公言するのが憚られたようなので、彼女の存在は僕にとって至極好都合だった。
夕食の間も、義母の文句は絶えない。その癖、男達が不満を漏らした事柄は僕達嫁の責任として擦り付けておいて、褒めた部分は全て、自分の嫁に対する教育の賜だ、と独り占めにする。
義姉の僕に対する態度だって少し気に食わない。義父母と同居を余儀なくされている分、僕と違って常にこういうストレスに晒されている事は十二分に同情するし、申し訳ないとも思うが、だからと言って事ある毎にその憎しみを僕に投げつけて辛く当たるのは、正直勘弁して欲しい。
ただ、そうかと言って義姉の事を忌む訳にもいかなかった。何故ならば桜は食事の間中ずっと僕の膝の上に居たのに、1学年しか変わらない彼女の息子の雅樹はどういう訳か、
「雅樹はお祖母ちゃんと一緒の方がいいわよねえ?」
と彼に語り掛ける姑によって、その膝の上に隔離されて居たからである。
それに不思議な事に、僕と桜と和樹は並んで席が用意されたのにも関わらず、義姉と姪は義兄と甥から引き離され、男2人が義両親と共に上座に座っているのに、彼女らは僕等よりも下座に追いやられていた。
半分余所者であるに等しい筈の僕等が来た時でさえそうなのだから、義姉と姪が普段義母からどのように扱われているか容易に想像されて、僕は嫌味を言われたりちょっとした嫌がらせをされたりする度に、却って彼女達の事が可哀想に思えて仕方がなかった。
まあ、だからと言って、隙あれば僕の胸に頬をスリスリと擦り付けて甘えてくる桜を無理矢理引き離す心算はさらさら無かったが……。いくら義姉でも、いくら僕が彼女に同情しても、相手にとってその場の空気を読んだ行動を僕が態々取らなければならない義理はない。
掃除や片付け等、扱き使われても刃物や火といった危険な物を扱わない限り、僕は彼女の自由なまま桜を自分に甘えさせた。
母親としては、従姉弟達に遊び相手になるように頼んだり、夫か、さもなければ姑や舅に面倒を見てもらうようにお願いしたりする事が本来なら最善の策なのだろう、とは正直思う。だが、彼女の弟に向けて偏愛している義実家からある種疎まれた結果、綺羅羅は何を考えているか判らない暗い子に育っているし、雅樹は逆に甘やかされ過ぎた所為で傍若無人に振る舞うような子供に成長した上に、先の訪問では桜にちょっかいを掛け続けたという前科があるので信用出来ない。
和樹だってそうだ。普段家でも子供の相手など面倒がって中々しないのに、実家だから引き受けてくれるとはとても考えられない。
義母は息子の娘だからという理由で、他家の娘である嫁とは区別して孫娘を可愛がる、とは考えられない。寧ろ、僕が過去に男だった、という娘に最も知られたくない秘密をあっさりと吹聴する可能性が十分にある。
義父に至っては論外だ。息子の嫁にさえ平然と手を出した無節操なエロ爺が孫娘だけは対象外、なんて事が果たして言えるのだろうか……?
結局、自分の子供はこの手で守り切る!これが一番確実で、何となく安心出来る自衛手段のように思えたのだ。
そして、義実家を後にして自宅への帰路に着く和樹のアルファードの助手席に腰を下ろした途端、必死に耐えぬいた極度の緊張状態から無事に解放されて、平穏の有り難みをしみじみと実感して僕は心の中で歓声を上げていた。僕が居なくなった途端、義実家ではなんだかんだと、主に義母と義姉から、文句が噴出しているだろうが、耳に入って来なければ知った事ではない。
もう二度と行くまい、という事は絶対に有り得ないだろうけれども、もう暫くは義両親や義姉達と顔を合わせずに済むのだ、と思うとこれ程安息を得る事が出来る事も無い。僕はそんな感じがしてならなかった。
「ただいま!」
自宅の玄関のドアを解錠して開き、三和土へ一歩踏み入れるや否や、玄関の中に桜の元気一杯な声が響き渡った。家の中に誰も居ない事が判っている筈なのについつい習慣でしてしまう子供のひょんな言動は本当に愛おしい。
踏み台の上に立って洗面台で手洗い嗽を済まし、着用している服を脱いで下着1枚になると、桜はソファーの上に飛び乗って三角座りをし、そのまま体を右側へ倒して座面の上で寝転がった。
「こらこら、ちゃんと服を着なきゃ駄目でしょう?」
「だって!だって!疲れたんだもん!」
「じゃあ、ママが膝枕をして上げるから、お洋服だけは着て頂戴。」
「う……うん。」
桜に寄り添うように僕もソファーに腰掛けると、桜はもぞもぞと僕の膝の上で寝転びながら動き始めた。
連休の終わった翌日の金曜日。
幼稚園が終わった頃合いを見計らって、いつものように幼稚舎の校舎の前に自分の3.5Lにボアアップしてスーパーチャージャーを装着したJ30マキシマを乗り付けると、桜を迎えに行く為に降車して建物の方へ足を向けた。
玄関の受付で手続きを終えて桜が来るのを待っていると、
「ママ――――!」
と、元気一杯な声を上げて娘がテトテトと駆け寄るのが目に入る。おや?よく見ると高く上げられた右腕の先に、何か緋色の物をつけた20cm程の細い棒状の物がある。
「ただいま――。」
と抱きついて来た桜に、
「おかえり。……どうしたの?それ。」
と訊いてみる。すると彼女は、
「えへへへ……。」
と得意げに微笑むと、
「ママ、上げる!」
と、それを僕に差し出してきた。
その場で屈んでから間近でよく見ると、それは緑色の厚紙を丸めて造った茎の上に緋色の薄紙を束ねて拵えた花を濃緑のビニールテープを巻き付ける事で貼り留めた、お世辞にも上手とは言えない、何とも無骨で拙い出来をしたカーネーションの造花だった。葉っぱの心算なのか、右左右と云う感じで細い二等辺三角形状の茎と同じ色の紙がセロテープで固定されている。
「あのね、今日ね、先生がね、もうすぐママの日だから、日頃の感謝を込めて造りましょうってね、言ってね……。造ったの!」
嗚呼。そうか……。
もうすぐ『母の日』と呼ばれる日が訪れる事に思い当たった僕は、自ずと自分の右手を上げ、その掌を桜の頭の上に添えていた。
「そう、ありがとう。ママ、嬉しいわ。上手に出来たわね。」
良い子良い子と頭を撫ぜて上げると、
「うん!」
と、桜はこれ以上にない位の満面の笑みを僕に向けた。
後日、佐々木先生と立ち話をする序でに小耳に挟んだのだが……。このカーネーション、紙を丸めた茎の部分と花の部分を事前に年少組を担当する先生達が手分けして造った物を、子供達に好きな色の花を茎に取り付けさせる事で出来た代物だったらしい。道理で、葉の付け方とか花と茎の接合部の造詣が煩雑な割に、茎がやたらスッとして真っ直ぐで、花の形も子供の手によるそれとは思えぬ程妙に良く出来ていて、違和感を覚える筈だ。
それにそもそも3歳や4歳ばかしの幼子が、不細工な物とはいえ、紛いなりにも造花を一から拵えて1日仕事で終われる筈がない。あら、やっぱりね。それが実感としての本音である。
今、桜がくれたカーネーションは、お菓子の入っていた紙製の空き箱を再利用した花瓶に挿されて堂々とその緑の葉と赤い花を広げ、居間のビデオデッキの上でテレビと並んで鎮座している。