第三話:実弟の来訪
>>薫
夕方、桜と共に幼稚舎から帰宅し、普段着へ着替えてリビングのソファーの上にちょこんと三角座りをしてアニメを視聴する娘を横目に見つつ、キッチンで夕飯の調理の準備をしていると、突然カウンター上の電話のプルルルルとけたたましい電子音が鳴り出した。
キッチンの中からシンクを跨ぐようにカウンターへと右手を伸ばし、親機の傍に置いた充電器上の子機を手に取った。
「もしもし、富士之宮でございます。」
「あ、兄貴?俺だよ、俺。孝。」
電話を掛けてきたのは、弟の孝だった。大学院を卒業してからそのまま向こうで就職し、現在も仙台に居を構えている。僕が知る限り27歳の今になっても、たぶんまだ独身の筈だ。たぶん、と茶を濁したのは、もう優に5年以上僕は彼と顔を見合わせて無ければ直接連絡を取っていなかったからだ。こうやって声を聞くのだって甚く久しぶりである。
「孝、あなたなの?久しぶりねえ!」
「うん、まあね……。」
気の所為か、孝の口調に何か歯切れの悪さを感じたが、まあ僕の気の所為だろう。
「それで、どうしたの?いきなり電話を掛けてくるなんて。」
「ああ、実はさ。今度出張で東京へ行く事になったんだけど……。兄貴の所に泊めてくれないかな?」
久々に連絡を寄越したから何事かと思えば、単なる宿代わりの申し入れかよ……。内心呆れて間髪を入れず断ってやろうか、とも思ったが何はともあれ血の繋がった実の弟である。
「そうねえ、ウチの客間が空いている事は空いているけれど……。夫に訊いてみないと。悪いけど、わたしの独断では決められないわ。」
「そうかあ……。じゃあ、お義兄さんに聞いてみて。OKだったら俺の携帯に連絡してよ。」
「わかったわ。」
そう言って通話を終えようとした途端。受話器の向こうで、
「クスッ。」
と噴き出したような孝の笑い声が聞こえてきた。
「何?どうしたのよ。急に……。」
「いやあ、ごめん、ごめん。未だに慣れなくてさあ……。兄貴のそのお嬢様喋り。」
「あら、そんなに可笑しいかしら?」
「そりゃあ、可笑しいか可笑しくないかで言えば、そうじゃないけどさ……。やっぱり俺にとって兄貴は兄貴だから……。」
弟の声は、心なしか諦めと寂しさを奥底から滲み出しているように僕には感じられた。しかし、そのような陰鬱な感じはすぐに鳴りを潜め、元のような明るい調子に戻った。
「まあ、いいや。じゃあ、お義兄さんに宜しく。良い返事を期待しているから。」
電話が切れ、充電器に子機を戻す段になって初めて僕は気が付いた。弟がいつ此方へ来るのか、日取りを聴き忘れた。
深夜、桜を寝かしつけて暫く経った後和樹が帰宅すると、僕は早速夕刻あった弟からの電話の件を夫に話した。
「孝君が?」
「ええ、さっきも言った通り、泊めて欲しいのですって。……客間が空いているから、使って貰おうかと思っているのだけど、どうかしら?」
「……別に良いんじゃないか。先方にそう伝えといてくれ。」
「分かりました。では、そう云う風にあの子にも伝えておきますわ。」
「うん。ところで……。孝君って、何時此方に来るの?」
「さあ?詳しい日日を聞く前に切ってしまったから……。明日掛けた時に聞いておきますわ。」
そう答えつつ、リビングにある低い方のテーブルの上、テレビと正面に向う和樹の前に僕は彼の分の夕飯を並べた。
「はい、あなた。どうぞ……。」
「ああ。……そう言えばさ。この家に来るの、孝君初めてじゃないか?」
「そうでもないですわよ。ほら、結婚式を上げる時に、京都の両親があなたの留守中に訪ねて来た、って話した事がありましたでしょう。あの時、お父さんとお母さんに引っ付いて来ていたから、多分場所は分かっていると思うわ。……でも、それ以来殆ど連絡を取っていないから、本当に久しぶりですわね。」
「そうか……。ん、そうだ!それじゃあ、孝君、桜の事を知らないんじゃないか?」
「それはないと思いますわ。京都の方から仙台の方に話しているでしょうから。この前、京都の方に桜の入園式の写真を送った時に、きっとお母さんあの子にも見せている筈でしょうし……。」
「そういうものか……。」
何だ、詰まらないな。そんな事が言いたげな顔をしてグラスに注いだビールを飲み干すと、和樹は僕に酌を求めた。
『ウチに泊まる件、快諾した。詳しい予定を知らせて下さい。』
そんな文面のメールを、彼から最初に電話があった翌朝に孝のスマートフォンのメールアドレスへ送信すると、その彼から昼頃に僕のスマートフォンへ折り返し電話が掛かってきた。
「もしもし、孝?」
「ああ。兄貴、例の件ありがとう。助かるよ。」
「それで、何時此方へ来るの?」
「来週の月曜から金曜まで。」
「あら、意外と長いのね。」
「そうなんだよ。短過ぎるから会社が滞在場所を確保してくれる訳じゃないし、1週間近くとなるとホテル代も馬鹿にならんしね。いや、ホント、助かったよ。」
「それはどうも致しまして。……ところで、孝。」
「何?兄貴。」
「ウチに泊めて上げるのは構わないけれど、幾つか条件を守ってくれないかしら。」
「……?別にいいけれど……。」
「約束出来る?」
「出来るって言っているだろ!兄貴。一体何なんだよ、条件って?」
「一つ。解っていると思うけれど、ウチには小さな子供が居るから、その心算で来る事。」
「ああ、そう言えば兄貴の子供……。ええっと、名前何だっけ?」
「桜よ。」
「そうそう、桜だった。……が幼稚園に入園したんだって?お袋から聞いたよ。おめでとう。」
「ありがとう。……兎に角、好奇心旺盛な幼稚園児が居るから、危ない物や貴重品の管理位はきちんとしてよ。」
「ああ、解った。気を付けるよ。……で、それだけ?」
「後、もう一つ。ウチにいる間は、絶対にわたしの事を『兄貴』と呼ばないで!」
「…………?!」
「姉さん、ないし姉貴と呼びなさい。」
「え?!どうして?兄貴は兄貴だろう?何か問題があるの?」
「ありまくるから言っているのよ!もし桜が、わたしが昔男だった、と云う事に感づいたらどうするの?」
「え?兄貴、教えてないの?」
「教えられる訳ないでしょう。少しは考えなさいよ。もしも、お母さんが急に、自分は昔男だった、なんて事を唐突にカミングアウトしたら、あなたどう思うのよ?」
「軽くトラウマになるわ!……あっ、成る程。そう云う事か。」
「そう、そういう事だから。少なくとも子供の前では言動に気を付けて頂戴。」
「分かった、分かった。……でも、いくら何でも気にし過ぎじゃないか?」
「あなたも、人の親になれば嫌でも解るわよ。少なくとも今は、わたしはあの娘にとって普通の母親でありたいの。」
「ふん、そういうものか……。じゃあ、姉さん。来週から宜しく。」
「ええ。そっちも気を付けてね。」
耳から携帯電話のスピーカーを離すと、僕はそっと画面に出て来た終話ボタンを軽くタッチして電話を切った。
月曜日、昼を大分過ぎてそろそろ日が西へ落ち始めた頃、買い物から帰って冷蔵庫の中を整理していると階下に我が家への客が来た事を伝えるインターフォンの電子音が鳴り出した。
「ハイハイ……。」
と掛け声を上げつつ冷蔵庫の扉を閉め、キッチンのシンク部分とリビングを隔てる壁に取り付けられた白い電話型のインターフォン画面を覗くと、大きな旅行用の紺色のスーツケースを手にした茶掛かったグレーのスーツ姿の若い男の顔が僕の目に入って来た。髪が短く刈られ、顔も少し面長で眼鏡のデザインも違う為に大分印象は異なるが、目鼻立ちは明らかに僕のそれとそっくりな彼は、間違いなく実弟の孝だった。
ピンポ――ン……!
玄関のチャイムが鳴るのを待ってからドアを開けると、先程下のカメラに写っていた弟がそのままの姿で僕の眼前に立っている。
「改めていらっしゃい、孝。久しぶりね。」
「兄貴こそ。」
「あ、スーツケースはここに置いておいて。後で拭いて部屋の前に置いておくから。」
「あ、ああ。分かった……。」
僕はスーツケースごと家の中へ入ろうとした孝を静止すると、下駄箱の反対側、客間の方と接する壁に添えるように彼にそれを立て掛けさせた。
そして、予め用意しておいた真新しい白いスリッパを孝の前に差し出すと、
「申し訳ないけれど、ウチに居る間は、お風呂場とトイレ以外はそのスリッパを履いて過ごして頂戴。」
とお願いした。
「おいおい、兄貴。兄貴が出した条件にそういうのは無かったと思うけど?」
「文句を言わないの。郷に入れば何とやらと云うでしょう?これが来客に対する我が家の流儀なのよ。それと、わたしの事を兄貴と云うのは止めて頂戴。」
「わかった……。」
弟のスーツケースのボディーやコロをウェットティッシュで拭いて上がり框へ上げながら文句を言うと、憮然としつつも孝は承諾した。
「ところで、早速だけど……。俺は何処を使えばいいの?」
家の中に上がってキョロキョロと左右を見渡すと、孝は玄関から見て右側にある洋間のドアのドアノブに手を掛けた。だから僕は咄嗟に、
「違う、そっちではないわ。こっち、こっち!」
と弟を制止し、廊下を挟んで向かい合った客間のドアを指差した。
「え?そっち?」
「そう、こっち。ここが我が家の所謂客間だから、自由に使って頂戴。ベッドの他に机と椅子もあるし、一応Wi-Fi環境も整っている筈だから特に支障はないと思うけれど、何か必要な事があったら声を掛けて頂戴。」
「ああ、分かった。……ところでそっちの部屋は何なの?今チラッと見たらあまり使っている形跡が見られなかったんだけど……。」
「ああ。あそこは将来、子供部屋として宛てがう為に態と空けているのよ。」
「ああ、そうなんだ。」
孝は、納得したようにそう頷いた。
ベッドと机しか無い客間にいつまでも居ても仕方がないので、孝と共にリビングへ移動する。ふと、DVDプレーヤーのデジタル表示の時計へ目を遣ると、それは結構な時間を示していた。
「じゃあ、孝。わたし、今から桜のお迎えに行かなくてはいけないから。あなたは適当にテレビでも見ながら寛いでいて頂戴。」
幼稚舎の建物の前に20系レクサスIS350の後期型を停めると、僕は桜を引き取る為に建物の中に入って行った。
「え――――ん!ママ、遅いよう!遅いよう!待ち草臥れたよ――!」
佐々木先生に手を引かれて現れた桜は、わんわんと泣き喚くとパシパシパシと僕の太腿をグーに握った両手で叩いた。全く……、早く来たらもっと友達と遊びたいと言うし、遅ければ遅いで文句をいうし、彼女はとんだ気分屋である。
「はいはい、ごめんね、桜。ママ、ちょっと用事があって中々来る事が出来なかったのよ。明日からはもう少し早く来られるようにするからね。」
「本当?」
「本当よ。さあ、帰りましょう。……それでは先生、今日も娘がお世話になりました。今日は、どんな風に過ごしていましたか?」
「いつも通り、とても良い子にされていましたよ。今日はですね……。」
そうして桜を宥めつつ、いつものように担任と雑談をして娘の幼稚園での様子を根掘り葉掘り聞き出すと、二人で先生と別れの挨拶を交わし、僕は娘と手を繋いで車へと引き返した。
「あれ?ママ――!テレビの音、してるよ――?」
家に着いて玄関のドアを開けると、開口一番この言葉が、僕のスカートの裾を持ってクイクイと引っ張る桜から発せられた。
普段家人が居ない時は必ず消してある筈のテレビの音が聞こえる事がそんなに気になったのだろうか。靴を脱がしてやると、制服を脱ぐのも忘れて桜はリビングへ向かって廊下をトテトテと走りだした。が、
「桜!下の家の人の迷惑になるから、家の中で走っては駄目だって言っているでしょう?」
と注意すると、途端に桜は立ち止まって僕の方へ振り向き、トコトコと歩き出すのだから可愛いものだ。兎も角、桜はそのままドアを開けてリビングの中へ入って行った。
「あれ?おじさん、だあれ?」
そんな娘の愛らしい声を聞いて、僕も静かにリビングの中に入ると、目を白黒させてその場で立ち尽くし、ソファーの方を凝視する桜と、そのソファーにどかっと腰を下ろし、驚いたように自分を見つめる子供の方へ振り向き、怪訝そうに見つめる孝の姿が僕の目の中に飛び込んで来た。
そのまま見守っているのもそれはそれで一興だと思ったが、それは少し可哀想なので、僕は両者の間に割って入った。
「ただいま。孝。」
孝は驚いたように僕と桜の顔を交互に見比べていたが、やがて納得したように、
「ああ!」
と息を吐くと僕の顔を見据えた。
「この子があに、いや姉貴の……。へえ……!」
「何だと思ったのよ?ウチには子供は1人しか居ないわよ。」
「え、いや……。あん……姉貴が餓鬼になって戻って来たと思って些か吃驚してしまってさ……。」
「何言っているのよ。やあね……。」
思わずクスクスと笑い声を漏らして僕が揶揄って窘めると、孝は真顔で首を横に振った。
「いや、生き写しとか、そういうレベルじゃなくそっくりだぜ。」
「適当な事を言わないの。わたしがこの娘位の時って、あんたが生まれたか生まれてないか、な頃でしょう?」
「勘だよ、勘。確かに覚えて無いかもしれないけど、何年兄弟をやっていると思うんだよ?……でも本当に良く似ているなあ。しょっちゅう言われるんじゃないの?」
「まあ、お父さんとお母さんや葵お姉ちゃんとかにはよく言われるわね……。」
そりゃあ、DNAの構成上、ほぼ自分のクローンのような者なのだから似ていて当然だろう。そう思いつつ僕は頷いた。
唐突に立ち上がると、孝は僕の耳元に近付き、蚊の鳴くような声でこう囁いた。
「なあ、兄貴……。」
「何よ?その言い方は止めて頂戴と何度も言っているでしょう?」
僕も孝に耳打ち返す。
「うっかり桜に聞こえたらどうするの?ウチの家を滅茶苦茶にする心算?」
「そんな大げさな……。というか、別に兄貴でいいんじゃない?姉貴とか、姉さんとか……、やっぱ違和感が拭えないんだよ。」
「もう15年も女として生きているのよ。いい加減馴れなさいよ。」
「その15年の内、通算何年顔を会わせた事があると思っているんだよ!兄貴は基本東京にいて長期休暇位にしか帰って来ないし、結婚してからは最近まで殆ど実家に帰らなかったろう?俺の中では、圧倒的に長い分、今でも兄貴は男なんだよ。」
「孝、あなたの中ではそうなのでしょう。あなたの中ではね。……でも、わたしはもう籍を変えてもう10年以上になるし、世間的にもわたしの中でも、もう女性という事になっているのだから……。」
「いや、だけど……。」
何か反論しようとした孝を態と無視して彼から顔を背けると、僕は足元にいる桜の方へ視線をそっと落とした。
「それに、もうわたしはこの子の母親として一生を生きていく事に決めたの。だからね、孝、お願い。軽はずみな言動でこの娘の自我とわたしの幸せをぶち壊すような真似はしないで頂戴。これ以上『兄貴』だなんて言葉を使ったら、問答無用で家から叩き出すわよ!」
そう言い放って議論を収束しようとしたが、却って孝は荒々しい調子でこう囁いた。
「でもさ、結局それってあ……ねき、の勝手な都合じゃないのか?」
「…………。」
「まだこの子の年齢なら、多少俺が口を滑ったところで理解出来ないだろうし……。理解できる歳になったら事情を話して、じっくり時間を掛けて受け入れさせれば済む事だろう?」
「わたしはね、孝。この娘に、普通の父親と、普通の母親を持った、極普通に幸せな暮らしをさせて上げたいの。本人の性質なら兎も角、この子にとってマイナスとなる環境要因は出来るだけ排除したいし、隠したいのよ。あなたの言う通り、わたしのエゴに過ぎない物だとしても、その事で桜が悩まないで済むのなら、それで結構!あなたに一々文句を言われる筋合いはないわ。兎に角、わたしの事を『兄貴』とか『兄さん』と呼ばない。桜にわたしが男だった事を漏らさない。それだけを守ってくれればいいの!わかった?」
「…………。」
孝は、納得がいかない!と言いたげに僕を睨めつけたが、何も言わなかった。
ふと、誰かにスカートの裾を掴まれた感覚を覚え、自分の左の太腿の方に視線を移すと、不満そうに口を真一文字に結んで眉をハの字にした桜とばっちり目が合った。
「ねえ、ママ――。」
「…………。」
「そのおじさん、だあれ?さっきから、何を内緒話しているの?ねえ、ねえ!」
ああ、そうだ。すっかり失念していた。桜は今日、初めて孝に会ったという事を。
僕は桜の目線の高さまでしゃがみ込むと、娘に向かってこう語り掛けた。
「このおじさんはね、孝叔父さん。前に京都のお祖父ちゃんお祖母ちゃんの家で話した事があったでしょう?ママの弟なの。」
「ふ――――ん。」
桜はそう言うと、疑わしそうな目でじっと孝を舐めるように見つめた。その視線にたじたじとなったのか、彼が少しキョドっているように僕には感じられた。
「ああ、俺が孝叔父さんだよ。こんにちは、桜ちゃん。」
「こんにちは。」
桜は、至極無邪気に挨拶を返した。
「いやあ、孝君、よく来たなあ。まあ、今夜はゆっくりして行け。」
「ええ、お義兄さん。暫く厄介になります。」
「まあ、そう固くなるなって。さあ、飲め!飲め!」
珍しく夕飯前という早い時間に帰って来た和樹は、スーツから普段着に着替えると書斎にある棚からスコッチの酒瓶を、台所にある食器棚からグラスを2個取り出すとテレビの前のテーブルの上にどかっと並べた。そして隣に孝を招き寄せるとコップの一つを手渡し、酒を勧めた。
「はあ、頂きます。」
「ところで、孝君はこの手の酒はどういう飲み方が好みなんだい?ロック?チェイサー?それとも普通の水割りか……。」
「すみません、ストレートでも良いですか?」
「お!さてはいける口か?解っているじゃないか!」
上機嫌な和樹は、孝が手を添えたグラスに少しだけウイスキーを注いだ。
そして孝に自分のコップに注がせると、
「おーい!薫。飯はまだか?」
と、台所で夕飯を盛り付けている僕に向かって叫んだ。
「今持ってきますから。少し待って下さい!」
「早くしてくれよ。……それじゃあ、孝君。乾杯といこうか!」
少しでも早く御飯にしようと頑張っているのは一目瞭然だろうに、急かすなよ。というか、勝手に酒盛りを始めて盛り上がっているな!そう苦々しく感じつつ少し乱暴に、僕は炊飯器の白米を夫の茶碗と男の客人用のそれに装った。
ゴツンッ!ガチャッ!バタッ!ポンポンポン!
陶器や硝子が互いに軽く接触する甲高い音を立てつつ、叩くようにテーブルの上に食器を乱雑に並べていく。
「……っ?!何だよ?」
と、まるで酒が不味くなると文句を言いたげに和樹が僕を睨んだが、
「いいえ、何もありませんわ、あなた。さあ、御飯を食べましょう。どうぞ召し上がって下さい。」
と柳に風と受け流す。
冷蔵庫の扉に磁石でくっ付けたプラスチックの白い小型ラックの中から青い綿の正方形の鍋敷きを取り出してテーブルの上に敷く。台所へと踵を返し、同じラックから鍋敷きと同じ柄の鍋掴みを2つ出して両手に装着すると、僕はグツグツと煮えたおでんの入った土鍋を掴み、IHクッキングヒーターの上から鍋敷きの上へと慎重に、だが素早く移動させた。
「はい、おでんが出来ましたわよ。」
「おお――!」
鍋掴みをラックへ仕舞い、襖を背にして娘と共にテーブルの傍のクッションの上に腰を下ろす。
「それでは……。」
「頂きます!」
皆で一勢にその言葉を口にすると、僕達は各々取り箸を手に取り、鍋の中の物を突付き始めた。
桜の取り皿におでんの具を放り込む時に、他は自分も含めて1つずつのところを、特別に白くてふっくらとしたお餅を油揚げに包んだ餅巾着を2個入れて上げる。
「桜は、お餅が大好きだから、2個位は食べるわよね?」
「うん!桜、これ大好き!」
桜はそう言って箸を手に取ると、真っ先に餅巾着を摘み上げ、そのままそれにぱくついた。
僕と桜を余所に、男二人は盃を交わしつつ話に花を咲かせていた。
「そう言えば、孝君は今年幾つになるんだい?たしか薫の3つ程下だったと思うが……。そうすると……、27か?」
「ええ……。」
「じゃあ、そろそろ将来を誓い合った仲、な人の1人や2人居るんじゃないか?」
酒が進めばこういう一歩も二歩も踏み込んだ話に発展する事だって多々あるものだ。たじろぐ孝を揶揄するように、和樹はニヤニヤと笑ってその様子を伺っていた。そして僕も、弟には弟の人生があるのだから彼の好きなようにすれば良い、と思いながらも自分もある程度は関わる人であろう事から、好奇を持って弟の方を注視した。
孝は箸を止め、グラスまでもテーブルの上に置いて後頭部をボリボリと右手で掻くと、頬を赤く染めて照れながら口を開けた。
「いやあ、まだそうと決まった訳じゃないけど……。ここだけの話、そうなったらいいなというか、一応今付き合っている人なら……。」
「おお――――!」
意外な答えに、話について行けず首を傾げている桜を除いて、僕達は思わず歓声を上げた。単に秘密にしていただけかもしれないが、父や母からも孝の色のある浮ついた話は一切聞いた覚えが無かったので、大丈夫かな、と僕自身は少々気に掛けて居たのだが、どうやら無用の心配だったようである。
「あ、でも。これ、内緒にしておいて下さいよ。特に『姉貴』、親父とお袋には絶対に喋らないでくれよ!」
安心しろ、弟よ。僕はお前が思うような口の軽い女ではない。それと、いい加減僕を姉貴と呼ぶ事に早く慣れるのだ。
なんだかんだとあっという間に5日間が経過し、とうとう孝が我が家を去る日が訪れた。
金曜日の夕刻、まだ日が高い早い時間帯に戻って来た孝は、早々客室へ入ると、事前に纏めていた荷物を整理し始める。
「本当にもう帰るの?どうせ明日はお休みなんだから、今夜もウチで泊まって、明日朝一の新幹線か飛行機に乗ればいいのに……。」
そう引き止めたが、弟は僕に向かって首を横に振った。
「悪いな、兄貴。でも、もう今夜の博多行きの新幹線で立つ心算なんだ。」
「博多?孝、あなた仙台へ戻るのではないの?」
「この週末に、序いでに親父とお袋の所にも顔を出しておこうと思ってね。ほら、正月とか戻れなかったからさ。」
スーツケースをバタンと閉め、青いゴム布のベルトをグルリと巻きつけて起こすと、孝は徐に立ち上がった。
「じゃあ、兄貴。俺、もうそろそろ行くわ。お世話になりました。」
「あ!ちょっと待って!孝。」
僕も慌てて腰を上げた。
「吉祥寺の駅まででいいなら、送って行くわ。」
「いや、兄貴、いいって!そんな……。」
「嫌ねえ。そんな事言わずにさせてよ。また暫く顔を見ない事になるんだから……。」
「…………。」
「じゃあ、決まりね!待っていて、すぐに用意をするから。」
そう孝へ言い残すと、僕は客間のドアを開けて廊下に出た。
リビングに入ってソファーの背凭れに掛けた外出着を手に取って着替えつつ、同じくソファーの背凭れに寄り掛かるようにしてアーちゃんと遊んでいる桜に僕は声を掛けた。
「桜!」
「なあに?ママ。」
桜が振り向いた。
「ママ、これから孝叔父さんを駅まで見送りに少し出掛けるから、いい子で留守番していてね。すぐ帰って来るから。」
そう言ってハンドバッグを片手に出発しようとすると、不満そうに口先を尖らせて桜が叫んだ。
「桜も行く――――っ!ママと一緒に行く――――っ!行くの――っ!」
「分かった!分かったから、ね。」
一度喚き始めたら、もう誰にも止められない。僕は渋々承諾すると、すぐ隣の和室に入って押入れの中の半透明の衣装ケースから白い靴下を取り出すと桜に渡した。
「はい、靴下を履きましょうね。」
「は――――い!」
そうして桜を抱いて客間に引き返した。
「ごめんなさい、孝。」
「……?どうしたのさ?」
「桜がどうしても一緒にあなたを見送りたいって言うから、連れて行っても構わないかしら?」
「え?俺は別に構わないよ。」
「良かった……。じゃあ、そろそろ行きましょうか。」
玄関の扉を施錠し、3人でエレベーターホールへ向かって筐体が上階から降りて来るのを待つ。
到着した箱の中には、既に先客がいた。上の階……たしか最上階の7階だったろうか……に住んでいる澤という家の40手前の奥さんである。途中の階で止まった所為だろう、怪訝そうに此方に目を向けていたが、待ち人が僕らである事に気付くや否や彼女は表情を和らげた。
「あら、富士之宮さん。」
「こんばんは。澤さん。」
「こんばんは――!」
副理事を経験した事がある位、マンションの理事会の活動に関わっている為、僕はマンションの他の住人の顔と名前は一応把握しているし、また逆に周りの住人にも覚えられている。
「こんばんは。家族でお出掛けですか?……あら?!」
当然家族構成だって知られているから、僕と桜と来て和樹が現れず孝が出現したこういう場合、澤夫人が目を丸くするのも無理はない。
「ああ!これ、わたしの弟なんです。丁度仕事で此方に出てきていて、今から送って行く所なのです。」
「どうも……。」
僕が説明し、弟が軽く頭を下げると、澤さんは納得したように頷き、
「まあ!そうだったの?……あら、嫌だわ。わたしったらつい……。オホホホ……。」
と苦笑した。
一瞬虚を突かれたが、彼女が何を言わんかした事に思い至ると、僕も釣られて笑ってしまった。
「嫌ですわ、奥様。わたし、そんなふしだらな事、致しませんわ。」
「そうだわよね。まさか子供の居る前で、そんな……。ねえ?」
そうして澤家の奥さんと一頻り笑い合う内に、エレベーターは1階に到着し、チーンという電子音と共に自動扉が開いた。
「それじゃあ、わたしはこれで……。」
「ええ、こちらも失礼します。」
澤さんが出た後、僕達もエントランスへと足を踏み出した。
エントランスを外へ向かって歩いていると、孝が間抜けな面をして僕にこう尋ねた。
「なあ、さっきの人といい、姉貴といい。何で笑っていたんだ?何かおかしな事でもあった?」
「馬鹿ねえ。あなた、間男と勘違いされていたのよ!」
と、思わず僕は弟の右肩をペシペシと右手で軽く叩いてしまった。
それでもまだ解らなかったのか、解った上でも腑に落ちなかったのか、孝は首を捻っていた。
桜を左側の後部座席に座らせてシートベルトを締めさせ、ドアを閉めて運転席に回り込んでY33シーマの後期型に乗車すると、僕は自分もそうしつつ隣の助手席でシートベルトに手を掛けた孝に話し掛けた。
「孝、何時頃の新幹線に乗る心算なの?」
「7時位ならどうかなあ、とは考えているんだけれどね。」
「また……、随分と大雑把ね……。」
シートベルトを締めてエンジンを掛けながら、僕は呆れてしまった。
「まだ切符を買ってないんだよ。取り敢えず駅に着いてから適当に決めるさ。」
発車措置をし、ヘッドライトとフォグランプを点け、ハンドルを左へ回しながらゆっくりと車を発進させる。
「そう言えば、あ……ねきは、まだこんな車に乗っていたんだね。」
と、孝が左の拳で助手席側のAピラーを叩いた。
「あら、まだこんな車に乗っていたらいけないかしら?」
「いやあ、いけないって訳じゃないけどさあ……。」
と、弟は口を濁した。
「……こんな車じゃ、子供とか連れて回る時に大変なんじゃないの?」
「そんな事ないわよ。だって孝。お父さんだって、わたし達が小さい頃からずっとゼダンに乗っていたじゃない。別に大変って事はないわよ。」
「そりゃあ、そうか……。」
車はマンションの敷地と大通りが面する歩道の手前で一時停車した。帰宅ラッシュにかち合った所為か、片道2車線の道路は左右から引っ切り無しに車が走って来る。
左ウインカーを焚いてタイミングを図っていると、
「吉祥寺の駅って此方なの?」
と、孝が彼の左側を指さした。
「ええ、そうよ。」
僕は右側の方へ顔を向けながら答えた。
「そっちからも行けない事はないけど、圧倒的に此方へ曲がった方が早いわね。」
その時、車に乗ってから黙っていた桜が、急に話に飛び入り参加した。
「右に行ったら、桜の幼稚園だよ!」
「そうね、そっちに行けば幼稚園ね。」
「そう言えば……、姉貴。桜が通っている幼稚園って、あに……いや、姉貴が行っていた聖何とかの系列校だっけ?」
車の流れが途切れたので、孝の言葉を聞きつつ僕はステアリングを左へ切ってアクセルを踏み込んだ。
「ええ……。系列というか付属校ね。」
ハンドルを真っ直ぐに戻し、加速しつつ道路を走る車の流れに乗る。
「でも、それがどうしたの?」
「いや、ちょっと気になっただけ……。」
「そう……。」
前を走っているライトエースのトラックの尾灯と制動灯が眩しいばかりに赤く輝いたので僕はブレーキを少し強めに踏み込んだ。少し先にある右折レーンに入って次の交差点を右に行けば駅へ続く吉祥寺通りへ入る。
「あと、10分位ってとこかしら……。」
少し緊張感から開放されて生き抜くように溜息を吐く。
「そう言えばさ。この辺ってどうなの?」
まだ信号待ちで停まっていると、唐突に孝が僕に話し掛けた。
「どうって?急にどうしたのよ?」
「いやさ、この前職場で、あに……、姉貴が東京に住んでいるという話になってさ……。」
「何でそんな話になったのよ?」
「まあ、そこは置いといてさ。」
「いや、気になるじゃない。」
信号が青に変わったのか、前にいるライトエースのテールライトの灯りが消え、徐に動き出したので、僕もブレーキから足を離し、徐々に加速すると右ウインカーを点滅させて右折レーンに入り、交差点の真ん中よりやや手前に停車した。
「みんな都会に憧れているんだよ。」
「そうかも知れないけど、孝。仙台だって結構大きな街でしょう?」
「そうは言っても、やっぱり東京には敵わないよ。なんだかんだいって今でもこの国の中心だからねえ。本社に栄転が出来るなら、そうしたい、って皆が思っているさ。」
「そういうものかしら……。」
信号がゆっくりと青から黄、赤へ変わって往来していた車の流れがピタリと止み、信号機の赤色電球の下におまけのように取り付けられた右折の矢印信号が青く点灯する。ブレーキを緩めて徐行しながら、更に大きな道路へと僕は車を進ませた。
「そういうものだよ。……それで家族が結婚して吉祥寺に居を構えたって話をしたら、羨ましいっていう娘がいてさ……。実際の所どうなのさ?住み心地は。」
「悪く無いわよ。」
駐車車両を避けるために一番左の車線から隣の真ん中のレーンへ車線変更をしつつ僕は答えた。
「大きなスーパーも、商店街も、ヨドバシも、百貨店もあるし、駅や首都高速だって結構近いしね。別に街の外に出なくても十分だけど、都心や横浜へ出易いのは、暮らしていて良いと思うわ。桜の幼稚園だって近いしね。」
「でも、幼稚園は兎も角、そう云う場所なら東京ならいくらもあるだろうし、便利さで言えば23区内の方が良いんじゃないか?」
「そうねえ。でも案外こういう所の方が住み易いわよ。都会過ぎてなくて、丘陵地帯だからそれなりに自然もあって……。学校だって多いしね。」
「成る程……。」
窓の外へ目を向けながら孝は呟いた。
「確かに、そういう意味では暮らし易いんだろうな。……だからか。」
もうまもなくで駅周辺に着く、という辺りまで来た。
「えっと、駅に一番近い駐車場は……、何処だったかしら?」
吉祥寺の駅には駐車場が無い為、車を降りて改札かホームまで孝を見送ろうとすると、付近にあるコインパーキングに車を置いておかなければならない。普段から和樹を送る為に通っているとは云え、バスターミナルで一時停止して放り投げる程度だから、どの辺りに駐車場があるのかよくは知らない。
そんな僕の独り言が聞こえたのか、
「え、何で駐車場に車を駐める必要があるのさ?」
と、孝が訊いてきた。
「え、だってそうしないと、あなたを見送れないじゃない。」
すると、孝は右の掌を扇子でも煽ぐかのようにパタパタと左右に振ると、こう言い返した。
「いいって、いいって、そんな見送らなくても。駅の入り口の前で降ろしてくれればいいからさ。」
「で……、でも……。」
駅前の交差点に接近し、中央口のバスロータリーが朧気に見えてくる。
「本当いいからさ。これからみどりの窓口に行って切符も取ってこなきゃ行けないし……。兄貴も家の事があるだろう?……痛っ!」
「……わかったわ。じゃあ、あそこで降ろすから。」
弟の右の二の腕から、その腕を抓っていた自分の左手を離しながら、僕は彼の求めに応じた。
駅前のロータリーにて、丁度左手正面に中央口が望める場所に車を停め、ハザードを点滅させた。
「本当に此処でいいの?」
シートベルトを外したりして降車する準備をする孝に向かって呼び掛けると、
「言っただろう。此処でいいって。……じゃあ、姉貴、そろそろ行くわ。送ってくれてありがとう。……それじゃあね、桜ちゃん。」
と、彼は助手席のドアを開けて左足を地面に下ろした。
「じゃあね、気を付けて。向こうに着いたら、お父さんとお母さんに宜しくね!」
「ああ、伝えとく。」
「叔父ちゃん、バイバイ!」
「バイバイ、桜ちゃん。」
そう言い残して下車し、扉を閉めると、孝は僕らに背を向けて駅の中へと消えていった。