最期の味
あの人の気配が、最近よくする。
風の匂い。
茶葉を蒸した湯気。
菓子の餡をこねているとき、
ふと、背後に誰かの影を感じる。
ホスピスを離れてから数年。
私は今、小さな和菓子店を開いている。
その日の客は少なかった。
けれど、閉店間際、戸がコトリと鳴って開いた。
「……いらっしゃいま……せ」
目の前に立っていたのは、
和装でも洋装でもない、不思議な服装の青年だった。
風呂敷を背負っている。
声をかけようとしたけど、喉が詰まってしまった。
「……久しぶり」
声は、変わっていなかった。
けれど、どこか遠くなったような気もした。
「本当に、来たの……?」
「ああ。来る約束だったからな。
“いつか、最後の味を作れ”って言ったろ?」
彼の手には、一冊のノート。
あの交換日記だった。
「最後のページ、まだ白紙だったから」
私は、菓子を作り始めた。
ひとつだけ、彼のために。
中に入れた餡は、
私の人生すべてを溶かしたような甘さ。
幼さも、痛みも、救われた記憶も。
それらを練って、練って、たった一口に閉じ込めた。
「できたよ。たぶん、これが、私の最後の味」
彼はそれを受け取り、静かに口に運んだ。
そして、少し目を細めて、言った。
「……やっぱり、敵わないな」
私は笑った。
けれど、目元が熱かった。
「今度は、迎えに来たの?」
彼は、首を横に振った。
「今日は違う。
“迎える者”としてじゃなくて——“見送る者”として、来た」
私の身体は、もう限界に近づいていた。
それは医者にも言われていたし、自分でも感じていた。
「じゃあ、今日は私が先に行く番だね」
「……ああ」
私は、用意してあった赤い風呂敷を取り出した。
中には、今まで作ってきた和菓子の、形見のようなレシピ帳。
そして、もうひとつ——
「これ、あなたに渡しておく」
彼の手に、新しいノートをそっと乗せた。
「また、誰かと交換日記してあげて。
今度は、最初のページから」
「……いいのか?」
「うん。だって、今度は“あなた”が書く番でしょう?」
その晩、私は静かに眠るように逝った。
彼は、最後まで何も言わなかった。
けれど、翌朝、店のカウンターに
一枚の紙切れが残されていた。
“命は消えても、味は消えない。
甘さも、涙も、すべてをもって旅立った者のために。
お前の練り切り、今でも、口の中にある。”
赤い風呂敷を背に、彼はまた歩き出す。
次の命へ。
次の“言の葉”へ。
だがその足元には、
小さな紙片が一枚だけ舞っていた。
それは、新しいノートの最初のページ。
まだ誰の字もない。
けれどそこには、淡く、こう記されていた。
「おくりびとのお茶請け」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
おくりびとは、命の終わりに寄り添いながら、
言の葉の残り香をそっと味わい、次へと渡していきます。
この物語もまた、そんな“言の葉”のひとつとして、誰かの心に届けばうれしいです。
そしていつか、私たちのお茶請けも甘くなりますように。