命に添える甘味
大学を出て、就職を決めた。
ホスピスの調理室——
選んだのは、最期の時間を過ごす人たちのための場所だった。
理由を訊かれても、うまく説明できない。
ただ、自分がもらったあの一口を、
今度は他の誰かに手渡していく番な気がした。
「今日のリクエスト、ありました?」
「うん。“桜の練り切り”だって。季節はずれだけど」
「……そうですか」
患者の名前は、山口ユキさん、八十五歳。
意識ははっきりしているけど、歩けない。
声もかすれているけど、笑顔だけは残っていた。
「桜の練り切り、作れる?」
「……もちろんです」
私は、あの日以来ずっと作り続けている。
不恰好だったあの一個を、越えるために。
作業台に材料を並べていたときだった。
ふ、と鼻の奥に、懐かしい香りが差し込んだ。
上白糖と白餡の匂いに混じって、あの時の風呂敷の匂い。
「……来てるの?」
声に出すと、返事はなかった。
でも私は知っている。
あの人はもう、“言の葉の残り香”でしか姿を現さないのだ。
夜、配膳のあと、こっそり病室を覗いた。
ユキさんは、布団の上で目を閉じていた。
食べ残された桜の練り切りが、皿の上にひとつだけ。
私はそっと近づいて、小さく訊ねた。
「……どうでした?」
目を閉じたまま、ユキさんが微笑んだ。
「……さくら、の味が、したよ……ありがとね」
そのまま彼女は、静かに眠るように旅立った。
数日後。
ユキさんの荷物の中から、一冊のノートが見つかった。
中には、震える字で綴られた交換日記のような記録。
最後のページに、こんな言葉があった。
また来てくれたね、赤い人。
今度は、甘い子を連れてきてくれた。
あの子の練り切りは、
ちゃんと、命の味がしていたよ。
私はその場で立ち尽くした。
あの妖は、今もどこかで命を迎えている。
そして私は、彼と並走するように、
命にそっと甘さを添えていく側になったのだ。
夜、自宅のキッチンで、私はもう一つの練り切りをこねた。
それは、ユキさんのためではなく、
“迎える者”のための菓子。
「まだ、食べてる?」
そう呟いて、私は小皿に練り切りを置いた。
そして窓を開ける。
外は夜風。少しだけ、あの日の病院の屋上と似ていた。
ふと、風の音にまぎれて、声がした気がした。
「——甘さが、増してた。
ちゃんと、“お前の味”になってたよ」
その言葉に、私は笑った。
そっと目を閉じ、深く息を吸う。
「……ありがと。またね。
私、もう少し、こっちにいるよ」