聞こえる
子どものころに体験したことに、創作を加えました。
あれは何だったんだろう、と今でも思う。嵐の夜、風の音に紛れて聞こえたあの音。
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子どもの頃は霊感があったと思う。そう思う不思議な出来事がいっぱいあったから。
金縛りは日常茶飯事、金縛りに遭ったときに部屋中のものがガタガタ動き出すラップ現象、廊下を彷徨う見知らぬ女性…
それらはいつも私の周りにあって、生活の一部だった。
きっと古いこの家が、いろいろなものを呼び込んでいるんだろうな。
彼らは古くからここに住んでいて、私たちが新参者であり闖入者なんだろう。
だからといって彼らは私たちに悪さをするわけではない。私たちが彼らの存在を忘れることのないように、時々姿を現したり音を立ててみたりするだけだ。
特に子どもはいちばんの新入りだし、悪気なく無礼を働く生き物だから、彼らはよりいっそうその存在を強く主張するんだ。
私には八つ年上の兄がいた。私が小学校一年生になったときにはもう中学生だった。
私の同級生とは読む本も聴く音楽も、すべてが違った。
兄が持っている本の方が断然おもしろく思えたし、兄が聴いている音楽の方が数倍格好良く聴こえた。
時々ラジオも聴いた。ラジカセはお兄ちゃんしか持っていないから、私はお兄ちゃんの聴く音楽やラジオを聴いて、ラジカセの先にある知らない世界を楽しんだ。
私は大凡小学生が読みそうにない本ばかり読んでいたし、誰も知らないような音楽ばかり聴いていたから同級生には少し変わった子に見られていた。
それはそれでまったく構わない。だって、私の方があなたたちより大人の読む本を読んでいるんだもの。
洋楽なんて、あなたたちは聴かないでしょう。聴いてもそのよさがわからないんじゃない?
私は少しませていて、ちょっぴり嫌な子どもだったんだ。
その年の夏休みは何だかバタバタしてた。お父さんは職場で部署が変わって残業の日が続いて、土日出勤までしてた。
お母さんは、私から見て叔母さんに当たる律子さんが、交通事故に遭って足を怪我してしまったというので、お見舞いとお世話に行かなきゃならないとかでほとんど毎日出かけてた。
律子さんは独身で近くに頼れる親戚がお母さんしかいないとかで、よく家を行き来してた人だ。誰かがお世話をしてあげないと、多分とても不便なんだろう。
お兄ちゃんは大学受験で夏期講習に出かけていたし、私はひとり家で過ごす日が続いた。
時々近所の友だちが遊びに来たり、私が遊びに行ったり。
何の代わり映えもない日がしばらく続いた。
そういえばもうすぐお盆だな。
八月ももうすぐ中旬に差し掛かろうとしていた時期だった。
いつもならお仏壇を整えたり、なすときゅうりで精霊馬を作ったり、お墓参りに行ったりするのに、今年はみんな忙しくてお盆の準備にまで取り掛かることができないでいた。
この辺りは古いお盆の風習が色濃く残っていて、初盆ともなると大勢の『念仏組』と呼ばれる人たちが、笛や太鼓や鉦の音に合わせて念仏を唱和して家々を回る。
我が家には初盆でお迎えする仏様はいないからそこまでしなくてもいいのだけど、毎年欠かさずやっているお盆の準備をしないのは、何だか気持ちのいいものではない。
私だけでも何か用意しておいた方がいいのかな。見よう見まねでどうにかなるような気もする。
でも習わしにうるさい母のことだから、少しでも間違いがあればすべて最初からやり直すだろう。
「ねえ、お母さん。今年はお盆の準備しなくていいの?」
「ああ、そうだねぇ。しなきゃいけないね。だけど時間がなくてね」
お盆までのカウントダウンはもう始まってる。
今思えば"兆し"はだんだんと現れていた。
金縛りにラップ現象、いつものことの続きだと思ってた。ああ、今日もまたかと思うくらいで、ほとんど気にかけてなかった。
今年のお盆には台風が直撃するみたいだ。少し前からテレビの気象情報で、ずっと注意を促している。
「あらぁ、お盆は台風が来るのね。その前に律子姉さんのところに行って作り置きでもしてこなくちゃ」
お母さんはそう言って、あれこれ頭の中で計画を練っているようだ。
「お母さん、お墓参りは?お盆の支度は?」
「今年は無理かもしれないねぇ。お父さんもお休みが取れるかわからないし」
「精霊馬だけでも」
「あなたどうしたの?そんなにお盆に熱心で」
お母さんはそんな私がおかしかったみたいでくすくす笑いだした。
そうか、何だかおかしいのは私か。そんなに気にするほどのことではないのか。
そう思いながら、冷蔵庫にナスとキュウリはあるな、とぼんやり思い返していた。
お盆初日に台風はやって来た。お父さんもさすがに台風だからと会社から早めに帰された。
お母さんも律子叔母さんのところに少し顔を出してすぐに帰ってきた。
お兄ちゃんは元より家にいて勉強ばかり。
古い家なので、少し強い風が吹くとガタガタと窓枠が大きな音を立てて揺れる。夜になって寝る時間になると風はいっそう強まり、台風が近付いてきていることに気付かされる。
私は風の音に何度も起こされながら、眠りと目覚めの間を行ったり来たりしていた。
しばらくすると、鈴の音が聞こえてきた。
チリンチリン、チリンチリン。
風に揺れて鳴っているみたいだ。
ああ、そう言えば台所から廊下に通じる引き戸のところに、何故か赤いリボンに括り付けられた鈴がふたつついていたな。
多分、あれが鳴っている音。
それにしたっていくらボロ屋でも、部屋の中なのに風に揺られてこんなに激しく鳴るものかしら。
眠いこともあって、不思議なこともそんなものなのかな、と流してしまっていた。
すると今度は爆音の音楽が聞こえてきた。
え?お兄ちゃん?いくら台風の風でうるさいからって、これはやりすぎだろう。
『さあ、…からお盆休みと…でしょう…』
大音量の音楽の合間に、途切れ途切れに人の声が聞こえてきた。
ああ、これはラジオか。
台風の暴風に紛れて何を話しているかまではわからないけど、ふたりのパーソナリティが楽しげに会話をしている様子が聞こえてくる。
『お…り…でねぇ………』
『あはは…で………かって…』
ガダガタガタ
チリンチリン、チリンチリン
いろんな音が聞こえてくる。
それにしてもお兄ちゃんてば、これは近所迷惑になるんじゃないの?
『そ…では……』
ちょっと注意しに行こうかとも思ったけど、わざわざそんなことをしに行くのも面倒だし、お兄ちゃんの機嫌を損ねるのも嫌だ。
『…らみ……はら…』
あれ?
何だか少し口調が変わったというか、違うパーソナリティになったのかな?
『さいくやく…しゃり……しきふ………』
え?何かこの感じ、この節回し…子どもの私でもわかる。
『空即是色 受想行識亦復如是 舎利子 是諸法空相』
ラジオの音量は更に大きくなり、内容もはっきり聞こえるようになってきた。
お経だ。
最初は男性一人の低い声だけだった。
『不生不滅 不垢不浄 不増不減 是故空中』
だんだん人が増えてない…?しかもさっきよりますますはっきり聞こえてくる。
これ、ラジオ?夜中にこんなのやってるの?
窓の外は相変わらずの暴風。
無色 無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無眼界 乃至無意識界 無無明亦 無無明尽
耳から体中にお経が流れ込んできて、般若心経でいっぱいになる。破裂するんじゃないかと思うくらい。
やめてよ、冗談やめてよ。
お兄ちゃん、いますぐラジオ止めてよ。
声も出ない。身体も動かない。
怖くて怖くて布団の中で目をギュッと瞑る。何も見えない。何も聞こえない。そう心の中で唱えながら。
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想
嫌でもまだ続いて聞こえてくるお経。
助けて、助けて、助けて。
能除一切苦 真実不虚 故説般若波羅蜜多呪
ガタガタ、ガタガタ
チリンチリン、チリンチリン
即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
あらゆる音で体中がいっぱいになったとき、すべてが無になり、すべてが空に帰した。
*****
次の日の朝目覚めると、台風一過の眩しい青空が広がっていた。リビングに行くと、お母さんが精霊馬を作ってた。
「あら、おはよう。昨日はすごい風だったわねぇ」
「…おはよう。お兄ちゃんは?」
「今日は模試だから朝早くに出るって、お父さんがさっき会場まで送りに行ったわよ。台風が過ぎててよかった」
「お兄ちゃん、今日模試だから昨日の夜遅くまで起きて勉強してたんだ」
「何言ってるの。朝早いからって昨日は早々に寝てたわよ」
「え、だって夜中にラジオが聞こえて…」
「ラジオ?何寝ぼけてるのよ」
今も昨日のお経の声が耳にこびりついて離れない。でも、あれは夢だったのかな。
「お母さん、昨日すごい風だったね」
「そうねぇ、ボロ屋だから崩れちゃうかと思ったわ。あはは」
「ここの鈴が風に揺れてずっと鳴ってたね」
「えー?いくらボロ屋でもそれはないわ。しっかり窓も閉まってたし、鈴を鳴らすほどの風が吹き込むわけないじゃない」
あれが聞こえてたのは、私だけ?まさか、あんな大きな音。きっとお母さんはよく寝ていて気付かなかっただけで…
「よし、遅くなっちゃったけどできた」
私はお母さんが作った精霊馬に目を遣る。
小豆が埋め込まれた目がキロっと動き、私を見つめた。
《完》