(1)
事の始まりは四か月前、まだ春の花々がようやく満開を迎えた頃のことだった。
春の陽気に眠気を誘われてウトウトしていたが、指に走るチクッとした痛みで脳内が覚醒する。手には縫いかけの古布と針があり、左手人差し指からじんわりと滲む血を見てため息を吐いた。縫っても縫ってもドレス作りは終わらない。縫物って昔から苦手なのよねえ。
グレスデンの王城の一角、第一王女に当てられた二階の小部屋から血の滲む人差し指を舐めながら外を眺める。石を積んでできた城は暗く鬱々としており、陽射しの当たる屋外で遊んでいる城下の子どもたちが羨ましかった。私も昔はあそこに交じって遊んでいたのにね、と昔を懐かしみながら聞こえてくる微笑ましい子どもたちの笑い声に耳を澄ませる。
そのまま縫物を続けていたが布が足りなくなったことに気付いて倉庫へ取りに行くために椅子から立ち上がった。後必要なのは袖の裾の部分と、前の合わせ部分と、最後に取り付けるボタンもついでに選んでしまおう。
「おはようございます、姫様」
「おはよう、セーラ」
すれ違った侍女に挨拶をすると、続いて奥の角を曲がったところで弟のアディに出くわした。彼は私を見るなりピッと小さくビクついて足を止める。
「お、おはようございます、姉様」
「おはよう、アディ。今日はいい天気ね」
「はい、あの・・・」
彼は言い辛そうにチラチラとこちらを窺いながら口を開く。何を言おうとしているのかは大体想像がついていた。
「お母様の件ね」
「はい・・・、あの、大丈夫ですか?」
まだ8歳とは思えない気遣いに苦笑が漏れる。
二週間前、国中を揺るがす大事件が起こった。クラー王妃がドローシアから来た神官の男と駆け落ちをしたのだ。王妃という身でありながら他の男と通じるのも大問題なのに、あろうことか国中から敵視されていた神官の男と逃げるなど誰にとっても許せることではなかった。
王妃は私の生母、だからアディは私を心配してくれている。
「大丈夫よ、なかなか実感が湧かないものね」
「姉様は本当に王妃様が神官と・・・駆け落ちしたと思いますか?」
「そうねえ、信じたくはないけれど置手紙が残ってるから・・・」
残された置手紙の筆跡は母のもので間違いはなかった。置手紙と言っても書かれてあったのは“彼を愛してしまった”とたった一文だけだったけれど、王妃と共に消えた神官の男の存在から何があったのかは容易に想像がついた。
あの人に限って、と何度も心の中で母が私たちを裏切ったことを否定しても、あの置手紙が間違いである証明なんてできるわけもなくただ時間がだけが過ぎていく。そしてその苦い出来事をようやく実感し始めた、今はそんなところだ。
「なんと申し上げればよいのか・・・」
言い辛そうに俯いて声を出すアディ。母こそ違えど優しいアディは私の自慢の弟だ。私は彼をぎゅっと抱きしめて微笑む。
「そう悲観しても仕方ないわ。今は私たちよりも国民の方が混乱状態にある。私たちまで立ち往生するわけにはいかないでしょう。
私も早くドレスを作らないと来月の収穫祭に間に合わないしね」
「・・・はい、姉様」
それじゃあね、と倉庫に布を取りに向かおうとしたが、アディは思い出したように後方から話けて来た。
「あの、姉様」
「どうしたの?」
「父様が会議の後で僕と一緒に姉様も父様の部屋に来るように言っていたので」
「わかったわ」
なんの用事だろう、と首を傾げながら手を振ってアディと別れた。
その時はまだ、頭の中の大部分はドレスを仕上げることでいっぱいだった。
失礼します、と開きっぱなしになった扉を叩くことなく父様の部屋へ入ると、お父様は一人掛けの椅子に座っておりアディはその傍らに立っていた。陽が昇りきる前には到着したけれど縫物に夢中になって少し遅くなったかもしれない。
「遅くなり申し訳ありません」
「それはよい。こちらへ」
「はい」
厳格な面持ちに意志の強い光を宿した瞳が私の姿を捉えた。お父様は地方豪族の出自でありながら母様に才能を見出されて王に着任した人物。何事にも厳しく妥協を許さない方だ。
私とアディが揃ったところで、彼は深く息を吐き出してから話始める。
「今日でクラーが城を去ってから二週間になる」
その話か、と拳を握って唇を噛んだ。
「お前たちも知っている通り、我が国は貧しい。民は己の食料を確保するのが精一杯だ。雪が深く積もる冬に向けて食料を蓄えても、運が悪ければ北の戦闘民族に村を襲われ食料を根こそぎ奪われてしまう我らには戦う術もなく、抗う術もない」
せめてもっとグレスデンが裕福だったのならば、もっと軍隊を動かせる。もっと穏やかな気候だったのならば、冬でも畑を耕せる。だけど私たちにはそれができない。どうすることもできない。
「特にここ数年は作物の出来が悪く民は神経質になっている。しかし天に唾を吐きかけても己にしか降りかからない。今彼らの怒りの矛先は天ではなく神官にある。いくら祈りを捧げても現状は変わらないのに、ドローシアの神官は祈りを強制し富を奪っていく、と」
世界は神を中心に纏まり、信仰によって協和を図っているのは事実。グレスデンも神の存在を否定しているわけではない。ただ自分たちとあまりにもかけ離れた存在から信仰の理由がないだけだ。
ならば信仰を捨ててしまえばいくらか余裕が生まれる。信仰に費やすお金や時間を自分たちの生活に回せたなら―――それはグレスデンの国民ならば誰もが一度は考えたことがあるはずだ。
「しかし此度、彼らはグレスデンから最も奪ってはいけないものを奪った。“クラー王妃”だ。
国の誇りを奪われた民の怒りは今最高潮に達している。こうなった以上、グレスデンはもう神を崇めることはできぬ」
「しかし父様、それではドローシアに反感を買ってしまいます」
アディは不安そうに口を挟んだ。信仰を捨てるにあたって一番問題になるのはドローシアという世界一の大国を敵に回すことだから。
お父様は頷く。
「民の勢いに任せて宣言しようものならドローシアは黙ってはいないだろう。武力を使ってでも阻止しようとしてくるはず。そして大国ドローシアに勝てる見込みなどひとつもない。それが恐ろしくて信仰の薄いどの国も正式な棄教の申し出はせずなあなあで済ませてきた。我が国もだ」
しかしなあなあでは済まなくなった。王妃が神官と駆け落ちするという大事件が、グレスデンの不満を爆発させた。ドローシアの神官に王妃を奪われた国民の怒りはかつてないほど激しい。
「まさか本当にドローシアに宣告するのですか?」
小さく震える声で問うアディ。怖いのは私も同じだ。戦争になれば夥しい数の国民の血が流れることになる。国民だけではなく私たち王家の人間も無事では済まないだろう。
「仕方あるまい、議会は全会一致で承認した。もう私の力ではどうもできない。グレスデンはドローシアに棄教の宣告をすることに決まった」
「そんな・・・」
私は絶句した。貴族会の議会で決まったならば王でも覆すことは不可能になる。いくら私たちが反対の声を上げたところでここまで頭に血が登っている彼らには届かない。
「決まったものはどうしようもできまい。民が全会一致で志したものを王家の我儘で握りつぶすこともできぬ。これもまた王家の使命だ」
「では、信仰を捨てるのは避けられないとして、何か手を打たなければ・・・」
私たちにできるのはいかに犠牲を少なくするのか。ドローシアとの武力での争いを避けるため、できるだけ穏便に済むよう水面下で交渉するしかない。ただしそれもドローシアとの国力差が大きすぎるため望みは薄い。
「うむ、交渉して、それで駄目ならば私がドローシアに直接向かおう。王自らが危険を冒す。それがドローシアに対する我々の誠意だと示さなければならない」
「最悪首を刎ねられる可能性もありますが」
「仕方ない。どちらにせよ戦に勝ち目はない」
アディは恐ろしさからかガタガタ震えてもう口を開くことができなかった。
しかしお父様は落ち着いた様子で話を続ける。
「そこでドローシアへ赴く際にはアダルドかシンシアに同行を願いたい」
「私が行きます。アディは跡取りです。行かせられません」
私は即答した。アディはグレスデン王家で唯一の男児、失うわけにはいかない。まだ8歳という年齢で今回の遠征は荷が重いだろう。
「うむ、本来ならば王太子を行かせるべきだが・・・」
「第一子は私です。それにクラー王妃の娘は私だけです。神官の手を取った王妃の娘が敵地へ行くことで国民も少しは落ち着きを取り戻すかもしれません。大した効果はないでしょうけど」
とにかくアディには行かせられない。それはお父様もわかっているから私もここへ呼んだのだろう。彼は頷いて私の同行を認めた。
「ならばシンシアに頼もう」
「姉様、いいんですか?」
「大丈夫よ」
首を刎ねられる可能性というのも万が一のことを考えてだ。ドローシアは敵には容赦ない反面、理不尽だったり不公平なことはしないと聞いているから、例え交渉が失敗してもわざわざ自ら訪れた敵国の王の首を刎ねるような真似はしないはず。たぶん。
申し訳なさそうに言うアディににっこりと笑って言う。
「アディはそれよりやることがたくさんあるでしょう。貴方は次期グレスデンの国王なのだから勉学に励まなきゃね」
「はい」
アディが首を縦に振るとお父様に向き直って頭を下げた。
「ドローシアと交渉を進める間、私は最悪の事態に備えて軍部の方へ行って参ります。備蓄の件で手が足りないでしょうから」
「わかった、頼む」
「はい」
私はもう一度頭を下げるとお父様の部屋から退出した。
部屋へ戻るため廊下を歩きながら何度もため息を吐く。せっかくドレスをあと一息の所まで仕上げたけれど収穫祭どころではなくなってしまったな、と。





