プロローグ
「アミィ!」
倒れ込んだわたしの身体を支えるように抱えながら、涙でグチャグチャになった顔で、彼が悲痛な声で叫びます。
……ああ、やはりこのような表情をしていてもなお、貴方は美しいですね。
「どうして僕なんかを庇ったんだ! いやだ! 死なないでくれ!!」
———わたしの為に泣かなくてもいいのです。 そう、小さく呟きますが、どうやら彼には聞こえていないようです。
変わらずわたしを抱え込んだまま、動こうとしません。
———ここは危ないですから、はやく逃げてくださいね。また、貴方は命を狙われてしまいますから。
その願いも虚しく、彼はわたしのお腹から溢れ出る赤を必死で止めようとして手を当ててくれます。
でも、ごめんね。
もう、ダメみたいです。
先程短剣で刺されてしまいましたから、この出血量では助かりそうにありません。
「ク、リスさま……」
小刻みに震えて、いうことを聞かない手をゆっくりと動かし、なんとか安心してもらえるようにと、まだ幼さの残る彼の頬をそっと撫でます。
あ、わたしの血がついてしまいました。 ……もっとよく考えてから、動かせばよかったなぁ。
彼の麗しいかんばせを汚してしまうなんて。
クリス様の顔が、霞んでよく見えないの。もう、まもなく、貴方とのお別れが近いようです。
「ク、リ……スさま……」
身体が焼けつくような痛みは消え去り、心は酷く晴れやかです。
さようなら……
「アミィ……? ……アミィ! アミィッ!!」
どうか、どうか。わたしがいなくなっても、変わらず貴方が幸せに暮らせますように。
ーーー
ーーーー
木漏れ日の光がキラキラと差し込む、王都から少しだけ離れた森の中。
そこには、人の目から隠れるかのように、ひっそりと小さな小屋が建ち、裏庭へ回ると沢山の黄色いリコリスの花が咲き誇っています。今はその繊細で可愛らしい花弁が穏やかな風に揺れています。
わたしの一番大好きな花。
黄色のリコリスの花言葉は、陽気に追憶、そして、深い思いやりの心。明るいイメージがある反面、少し物悲しげなその花のもつ意味を初めておかあさんに教えてもらった時、それが妙にわたしの心を掴み、以降一番のお気に入りのお花になったのでした。
リコリスに囲まれた裏庭で、花冠を編んで待っていると、こちらに向かって駆けてくる足音が聞こえてきます。 ……来た! 彼だ。
音の方へ視線を向けると、木漏れ日の光を受けてキラキラと銀色に輝く髪を揺らしながら、人形と見まごうような美しい少年が来てくれたのでした。
「アミィ!」
「クリス様! 来るのが遅いです!」
「ごめんごめん! 城から抜けるのに手間取ってしまった!」
そう言って金色の瞳をいたずらっぽく細めて謝る彼の名前は、クリストファー・エムル・ミュンヘンタッド様。この国の王子様である方です。
彼は、暇さえあればこっそりとお城を抜け出して、いつも真っ先にわたしに会いに来てくれます。
なんでもお城の中は窮屈で面白くないのだそうです。しかも、未来の王になる為の勉強漬の毎日だとか……! ミスは許されないとの事で、上手く答えを導き出しても次期王となるのならこれくらい当然です。と当たり前の様に言われるので大変面白くないのだそうです。
わたしなんか、クリス様に教わるまで字もよく分からなかったので、出来るだけでも神様なんじゃないかと思うのですが。
全然褒めて貰えないだなんて恐ろしいですね……!
彼との出会いは偶然でした。
彼が城を飛び出して森の中を彷徨っていたところ、偶々目に入ったわたしを捕まえて、苦しそうな顔をしながら、突然自分の身の上話を始めました。
迷子になっていた不安を吐き出すよりも先に、自身を取り巻く環境を、辿々しく。
きっと誰かに聞いて欲しかったのでしょう。彼とは無関係の、庶民のわたしが適任だったのかもしれませんね。
彼が苦しそうに吐き出す言葉に頷いて、そのひとつひとつを聞き漏らさないよう、じっと耳を傾けながら、黙って彼の背中を撫でてあげました。
話しているうちに思い出したのか、彼の表情は、段々と悲しそうに歪みます。それから彼が落ち着くまで、黙ったまま、長い時間を寄り添っていました。
少し落ち着いた彼に向かって、わたしは一言告げました。
彼はパチパチと瞬きをした後、少し照れ臭そうに微笑みます。
それがキッカケなのか、どうやらわたしは、彼に懐かれたようでした。彼は暇さえあれば、ここへ通ってくるようになったのです。
たぶん、わたしが褒めたから。
「がんばったね」
たった一言。ただそれだけが、重圧に押しつぶされそうだった彼の心を救ったのかもしれません。彼は誰かに認められたかっただけなのかも知れませんね。
わたしも、彼が遊びに来てくれるのはとっても楽しみでした。
両親を流行病で亡くし、ひとりぼっちで暮らし続ける生活は、本当は寂しかったんです。
両親は、わたしがちゃんと一人で生きているように、生活の知恵や、罠の仕掛け方。魚の取り方に食べれる野草の見分け方。それらを丁寧に教えてくれましたので、あまり不自由な思いもすることなく生きていく事が出来たのです。
ありがたいことに、わたしの暮らすこの国は、治世も安定しており、ちょっと……まあ、言いづらいのですが、税収が払えなくて都市部で暮らせず、少し離れた森の中で暮らすわたしのような者でも安心して暮らせてましたから。
そういえば、野盗とか野犬とか、遭遇した事ないですし!
ただ、誰とも交流のない生き方は感情を鈍らせてしまうようで、いままでは、どこかぼんやりとしたまま生きてきました。
朝起きて、家事をして、食料を手に入れて、身体の汚れを落として、夜になりまた食事をして、明日がやってくるまで再びベッドに入り微睡むのを繰り返し、再び朝を迎える。
そんな日々を繰り返していたわたしは、いつのまにか12歳になり、そして、彼に出会ったのでした。
始めは彼が王子様だって事、信じなかったんですけどねっ!
そんな高貴な身分の方がこんな森に来るはずないですし。それに自分から王子様だなんていう人間、怪しすぎますもの。
そう正直に言ったら彼に怒られましたので、しょうがないので渋々信じることにしましたけど。
最初は彼の事をクリストファー様と呼んでいたのですが、恐れ多い事に、仲良くなってからはクリス様と読んでいます。
彼は「クリス、と呼んでほしい」と、少しはにかみながら言ってくださったのです。
なんだか嬉しいですねっ! より仲良くなれたみたいですもの。ではわたしも……と、言おうとしかけて、そういえば既にアミィと呼び捨てにされているのを思い出しました。なんだかずるいですね! 様は流石にアレですけど、せめてちゃん付けぐらいしてほしいもんです。 ……まあ、彼は王族ですから良いとしましょう。
それからは、彼が帰った後、わたし一人だけになっても、寂しくはなくなりました。だって、2日に一回は、彼が遊びに来てくれるのですから。
今日も、私の元には彼が遊びに来てくれます。 ……なんだかまた一人で来てますね。
そういえば、あんまり気にしていなかったのですが、彼には護衛がいないのでしょうか? もしかして、途中で撒いてきている?
最初の頃は、彼の事を迎えに従者の方が焦ったように来ていたのですが、そういえば、最近は見ていません。
息をきらせながら駆けてきて、膝に手をつきながら呼吸を整える彼の頭に、編んでいた花冠を恭しく被せてあげると、それに気づいた彼は、慌てて両手を腰に当てて胸を逸らしながら、ちょっと偉そうに受け入れます。なんかおもしろいです。まあ王子な訳ですし、その反応は間違っちゃいないですね。
せっかくなので、彼に、この花冠に使ったリコリスの花言葉を教えてあげました。黄色のリコリスの、明るくも物悲しい。そんな花言葉を。
聞き終わってからの彼の第一声は「へー」でした。しかもたいして興味のない感じの。
いや! なんですかその感想は! わたしの好きな花を一生懸命紹介したのに「へー」って!
その一言で片付けられてしまうわたしの思いを返して欲しいですね! ついでに花冠も返して欲しいです。
色々と台無しな彼に、小洒落た返しが出来なければモテませんよ! と若干の怒りを込めて返すと、「別にモテなくてもいい!」と強めに反論されてしまいました。仮にも一国の王子がモテないなんて悲しすぎます。もっと頑張ってくださいと強く申したいところですけど、確実に怒られますのでやめておきます。
これでもわたし、空気は読めるタイプですからね。
……アレ? そういえば、黄色いリコリスにはもうひとつ花言葉がありました。彼に伝えるのを忘れてましたね。でも……?
えーと、えーと? ……なんだったかな……?
……そうだ! 確か最後の花言葉は……
———————悲しい思い出。
ふいに視界の端で、なにかがキラリと光りました。なんでしょう?
不思議に思いながらそちらを振り向くと、私たちから離れたところに、男の人が、一人。
全身真っ黒な服を着て、頬には刃物で切られたかのような大きな傷痕があります。表情は能面のように無表情で、ずっとわたし達を見ているようでした。
……ううん、違う。
クリス様を、見ているんだ。
男の人の手には、銀色に光るナイフが握られていました。
なんの感情も宿らない瞳で、一歩、一歩、こちらに近づいて来ます。
なぜ? どうして、その手に刃物なんて握っているのでしょう。
クリス様は、顔を強張らせながら前に出て、わたしを庇うように両手を広げます。
そうだ、彼は言っていたじゃないですか。
———弟君が生まれてから、命を狙われるようになったって。
それは些細なことから始まったそうでした。 ある時は、王家主宰のお茶会なのに、王子である自分は通達ミスで呼ばれない。またある時は、着替えの服に針が仕込まれている。
それらは次第に過激になっていき、しまいには、人気のない庭園を歩いている時に頭上から彼の頭部目掛けて陶器が。
更には、食事に毒が盛られ生死の境を彷徨ったり、彼の乗った馬車が整備不良で脱輪し、崖から落ちそうになる。
まるで、彼を亡き者にしようとする輩がいるようでした。
今の王妃様は、以前はご側室の方でした。数年前に国を襲った流行病により、彼の実母である正妃様が儚くなり、それからご側室だったお方が新たな正妃となったのだそうです。
この方が身篭り、第二王子を生んだ時から、クリス様の存在そのものを消そうとする動きが活発になったようでした。
なんど死の影が迫っても乗り越えていくクリス様に業を煮やしたのでしょう。この黒装束の人は、誰かに依頼され、彼を殺しに来たのです。
黒装束がゆらりと動き、クリス様目掛けて一気に距離を詰めます。
彼に銀色が迫ってくる。それなのに彼は、決してわたしの前から退こうとしません。
わたしは恐怖で竦み上がってしまい、身体が言う事をききません。両手を目一杯広げた彼の指先は小刻みに震えて、自身に迫る死の恐怖に必死に耐えているようでした。
その様子を見て、わたしは決心しました。
ああ、誰かの為に自分の身を挺して守ろうとするこの優しい人を。
———絶対に、死なせてはいけない。
わたしは自分の震える身体に叱咤し、強く念じました。動け! 動け! 動け!!
指先がぴくりと動きます。
身体の感覚も戻ってきました。よし。これなら大丈夫。銀色は日の光を反射して瞬きながら、まもなくクリス様の心臓目掛けて迫ります。
わたしはすぐに身体を動かし、彼の身体を横に向かって力一杯押しました。
「え……?」
彼は、何が起こったのかわからないような顔で小さく言葉を溢し、倒れていきました。彼の頭に乗っていた、黄色いリコリスの花冠は地面に落ちていき、男の人に踏まれてグシャリと潰れます。
そして銀色の軌跡の行き着く先には、踏み込んだわたしが。
ドン、と身体に鈍い衝撃がありました。視線を下に向けると、わたしのお腹には、木漏れ日を反射してキラキラと輝きながら突き刺さる、鈍い銀色が。
男の人は驚いたように目を見開き、一気にナイフを引き抜きました。
「う……ぁぁ……」
吹き出す赤色は、どんどんと量を増していきます。
まるでそこから、わたしの命が流れ落ちてくよう。
「アミィ!!」
クリス様が、わたしに駆け寄ってきてくれました。その顔は蒼白になり、涙でぐちゃぐちゃになっています。 ああ……そんな顔、させたかったわけじゃないのになぁ。
「どうして……どうして僕なんか庇ったんだ……! アミィが死んだら、僕は……!」
ポタリ、ポタリとわたしの顔に、水滴が落ちてきました。彼の瞳からは、水晶のような雫が頬を滑り落ちています。
……なんて、美しいのでしょう。
こんな時でさえそんな呑気なことを思ってしまう自分に、苦笑してしまいます。
いつのまにか、わたしを刺した男の人はいなくなったようでした。
茂みが揺れる音がしたので、きっと誰か来たのだと勘違いしたのかも知れませんね。たぶん、いたのは動物だと思いますが。
ああ、目蓋が、もう開けていられそうにありません。クリス様。もう、あなたとお別れですね……
「ク……リス……様…………」
「アミィっ! 喋るな! きっとなんとかするから! だから……!」
彼はわたしの傷口を必死で押さえてくれています。ですが、もう、そんな事しなくてもいいのですよ?
わたしは、自分自身の寿命を悟ったのです。
……ずっと不思議だったの。
両親は死んでしまったのに、わたしだけが生き残った事が。
———ああ、きっと、わたしの命は。
この日の為にあったのですね。
おとうさん、おかあさん。
もうじきそちらに向かいますから、もう少しだけ待っていてくださいね。
最後に、この愛しき友人に、お別れを言わなくては。
「さ、よう……なら……クリス様
……」
「アミィ……? 嫌だ! 逝かないでくれ!! アミィ!!」
彼は酷く泣き叫びながらわたしの名前を呼んでくれるのに、もう、うまく聞き取る事が出来ません。目も開けていられないの。
クリス様、クリス様。
願わくば、貴方の未来にたくさんの幸せが訪れますように。
もし生まれ変わって、あなたと再び巡り合える事が出来たなら。
その時は、また。
———わたしと、お友達になってくださいね?