参:小鬼巣窟・準
空の果て、雲の向こう、山の奥深くの記憶。
親父から武を習った記憶は、鮮明に呼び起こされる。
「良いか颯よ。あらゆる感覚を目と同等にまですれば、視界を奪われようとも身を躱し、攻撃を打ち込むことが可能となる。六感まで鍛え上げるのだッ!」
「味覚はさすがに無理では?」
「馬鹿者、想像力に限界を設けるな。しかし味覚を活かす場が少ないのも確かだ。せいぜい毒を見分ける程度だ。今回は暗闇での戦い方を伝授する」
視界を奪われたときは聴覚を、聴覚を奪われたときは嗅覚と触覚を。あるいは敵の殺気をも読む第六感。
既存の感覚器官を捨て去る。気を張り、巡らすことで相手の気を感じ取る。
気を制す者が勝負を制す。それが叢雲ハヤトの持論だった。
「シッ……!」
「っ!?」
反射的に動いた体を咄嗟に止める。目を開くと、指先の前にはミーアの瞳があった。
目を瞑って棒立ちの状態から一瞬で90度身を翻して、巡らせた気に触れた物へ、半身からの抜き手。ほとんど蟲の反射に近い。
「お、お食事の準備が……」
「……失敬」
「い、いえ……とりあえず、お食事にしませんか? 汗もびっしょりで……はい、このタオルを」
「どうも」
貰ったタオルで汗を拭き取る。
しかし不気味だ、なぜ俺にこうも近寄ってくるのか。この用意された食事にさえ、何か盛られているのではないか。
「野菜炒めと魚の煮付けです。きっと美味しいですよ?」
「ふむ……」
舌に気を巡らせる。思い出せ、数多の毒物と解毒薬を交互に飲まされたあの日々を。
そうすれば自然と毒かどうかは分かるはず……。
「お口に合うと良いのですが……」
「……美味い」
不安そうなミーアの表情がころりと、嬉しそうな微笑に変わる。
「よかったぁ……おかわりもありますからたくさん食べてくださいね?」
普通に美味い。文句の付けようもない。毒もこれといって感じられない。辛味と毒の刺激は死んでも覚えろと言われてきたが、そういう類のものはないようだ。
「俺にはもったいないくらいだ。ライザに食わせてやったらどうだ」
「あの人は……どうにか立ち直ってほしいんですけれどね」
「そりゃ曲がりなりにも冒険者。俺のような子供に一撃で倒されるのはさぞショックだろうが」
「あっ、すみません! そういうつもりで言ったわけでは……颯さんは子供なのにすごく強いですね。どうやってそこまで?」
どうやって、か。隼のような規格外な存在の弟子になったから、ここまで力をつけられた。もはや偶然としか言いようがない。
「俺は親父から与えられたものを吸収しただけだ。環境は特別だったが、俺が自分で特別なことをしたわけではないからな」
「でも、真面目に取り組まなかったらそこまで強くはなれなかったはずです。その真面目さはすごいことですよ」
「前向きだな」
眩しいくらいのポジティブシンキングだ。とはいえ、未だに俺は自分が欲しいものを何も手に入れてない。
前世では欲しいものを少しずつ集めてきたが、守る力がなく奪われた。
今生では守る力を日々高めてはいるものの、守る価値のあるものを見つけられては居ない。
……もしライザからすべてを奪ったら、俺は満たされるのだろうか。
「お前はライザのことを好いているのか?」
「っ!? ごほっ、げふっ……と、とと、とんでもない! ライザのことは大切な仲間と思っていますが、決してそういう関係では……」
「そうか。まあなんであれお前たちに出来ることは限られる。傷が浅いうちに諦めておくのも一つの手だ」
「そんな、あの人を見捨てろというんですか?」
「一度負けるくらいで落ちぶれるような精神では長続きしないと言っている。冒険者だけが生き方ではないだろう」
「それは、そうですが……」
ミーアも分かってはいるのだろう、結局は本人次第だ。
萎えた気のままでは、命がいくつあっても仕方ない世界だろうからな。
「でも、それじゃダイアが……」
「ダイア? あの魔法使いか」
「あの子は信じています。ライザが復帰することを。思いを秘めながら」
「だが俺には関係ない」
俺は食事を終えて席を立つ。
「料理は文句なしに美味かった。ごちそうさま……っ!?」
風呂に向かおうと踏み出した足に、いや全身に力が入らない。体が糸の切れた操り人形のように床に落ちる。
俺の知らない毒でも盛られたか……?
「なっ、に……?」
「ヒーリングの応用です。リラックス効果の延長で、安眠を促す奇跡」
「なんと器用な……」
「少しの間、おやすみなさい」
なるほど、毒の味は知っていても、奇跡の味は未体験、だったな……。
すぅ、と浮き上がるような目覚めは確かに爽快だ。安眠の奇跡というのもあながちバカに出来ない。
……それにしても、妙に滑らかで柔らかい感触がある。
久しく触れていなかった、懐かしくも恋しいぬくもりは虜になりかねないほどに甘美な。この手のひらにあまる感触もまた極上の……。
「あっ……お目覚めですか?」
「……なにをしている」
目を開いた瞬間、出来れば現状を把握したくないと思った。
俺とミーアはベッドの上、横並びに向かい合っていた。手の平が感じている柔らかさの正体は、薄手の毛布の下にある。
「見てのとおり、夜這いです」
「ライザを一撃で制した俺の勇姿に一目惚れ……というわけでもないだろう。目的はなんだ?」
「……ライザと、もう一度戦って欲しいのです」
ああ、もう大体分かってしまった。この神官がなにを企んでいるのか。
「そして、俺にわざと負けろって?」
「は、はい。そうして頂けるなら、私はこの体をあなたに捧げます」
「なっ……」
さすがにそれは予想外だ。一夜限りの、くらいなものだと思っていた。
「どうしてだ。なんでそこまでする? いくら仲間とはいえ、ライザのためにそこまで……」
「違うんです。ライザのためではなく、ダイアのためなんです」
「ダイア……あの魔法使いのため?」
「あの子は、ライザのために尽くすでしょう。どれだけ落ちぶれても……私はもう一度、あの二人がお互いに支えあうところを見たいんです。あの二人はそうじゃないと駄目なんです」
「そのために、神官であることすら捨てようっていうのか?」
その悲しい笑みは、しかし迷いの無い眼差しの先にあるのは俺ではない。ライザとダイアの二人が、きっとたどり着くはずの幸福だ。
親友のためとはいえ、自身を犠牲にする。それは、聖職者になるほどの気質ゆえか。それとも一人の親友としての決意か。いずれにしろ、俺の前世と似ているようで異なる優しさだ。
だが、きっとその優しさは報われないだろう。
「え、どうして……」
「非常に名残惜しいが、お前の話には乗れない」
本当に名残惜しい。前世でそういうことが無かったわけではないが、今生の肉体はそれを覚えてすら居ない。映像として脳内に想像できるだけだ。
俺の寝起きが破滅的に悪くなかったら、誘惑から逃れられなかったかもしれない。、
「私では、武神の息子には不釣合いでしたか……?」
「無駄だ。同情を惹こうなどとしてもな。説明してやるから服を着ろ。目のやり場に困る」
俺はベッドを抜け出る。寝室から逃れて居間で待つことにした。
ガラス瓶に入った水をコップに注ぎ、一気に飲み干す。冷たい水が喉をとおり、胃へと落ちていくのが分かる。口惜しさも連れて行ってくれればいいのに。
深呼吸していると、ミーアが寝室からおずおずと姿を現した。
「来たか」
「はい……あの」
「お前が勘違いをしているのは……そうだな、二つか三つ。まず一つ、お前がこんなことをしても、お前の親友は喜ばない」
「っ……」
どうやら自覚はあるらしい。いや、当然か。
ミーアは相応の覚悟を持って夜這いを実行したはずだ。聖職者でいられなくなることすら受け入れようとしていた。
「親友だというのなら、自分を犠牲にするようなことはするな。親友を悲しませてどうする」
「それは、でも……」
「二つ目。仮に俺がわざと負けたとしても、ヤツは察するだろう。何の努力もしないで勝てるようになるのを不審に思わないような阿呆とも思えん。方法がもう駄目なんだよ」
「それは、確かに……」
「そして三つ目。それくらいの頼みで、自分の体を差し出そうとするな。気持ちが先走りすぎだ」
俺は予備の毛布を自室から引っ張り出し、ソファに座って身に纏う。
「明日、帰ったらライザに伝えろ。再戦ならいつでも受け付ける。腑抜けに俺の相手が務まるとは思えんがな、とな」
「颯さん……ありがとうございます」
「別に、俺は戦えるならなんでもいい。まったく、俺にとって睡眠は最重要だというのに……」
「安眠のお手伝い、やっぱり必要でしょうか?」
「いいからさっさと俺の部屋に戻れ、俺の気が変わらんうちにな。お前だって明日があるだろうが。アルバトロスの足を引っ張るなよ」
そう言うと、ミーアは深く頭を下げてから、俺の自室へと戻った。
自分でも惜しい事をしたと思う。でも、それは俺の体が本能に従っているだけに過ぎない。
俺が本当に欲しているのは、きっと違う。そんな気がしてならなかった。
「俺が本当に欲しいのは……」
もやもやとした感覚のまま、呼吸と共に煩悩を深いところに押し込んで、眠りについた。
……クソ、もう少しじっくり堪能しておけばよかった。
夜が明けるころ、つまり俺が日課である気と型の鍛錬をしていると、寝室からミーアが顔を出した。
寝起きは強いほうなのか、普段のとおりに礼儀正しく、とても俺の家に泊まるような女性には見えない。
「おはようございます。お早いんですね」
「おはよう。お前もなミーア。そうしたら早く自分の家に帰ることだ」
「いえ、せっかくなんで朝食をご馳走させてください。早朝からのトレーニングも、強さの秘訣なんでしょうか?」
強さの秘訣を聞いて、ライザに横流しするつもりなのだろうか。
ところであの仙境に住まう獣の類は皆、気を纏っていた。それは野生にいながらそういう習性を持った、強くなるべくして強くなる種族であると親父は言っていた。
こうして下界に降りてからというもの、気を纏った相手に出会ったことは一度も無い。
武気を錬るという技術は、武術や武技、武道を扱う者以外にとっては魔力などよりオカルトな話らしい。
誰もがより良い装備と、より強力な兵器、そして魔法の恩恵を賜っている。
ガス水道電気というライフラインですら、すべて魔石か魔力を持つ人間が賄っているのだ。
まあ、そうでもなければ人間が素手で岩砕いたりとかできるはずが無い。
そうこうしているうちに、ミーアは朝食を作り上げた。
慈悲深い聖母のような微笑に、朝食を並べる彼女の姿に、感じたデジャヴは前世の記憶。
俺がようやく手に入れた、あまりに短かった幸せの頃。
「どうしましたか? ずいぶん怖い顔をされていますが……」
「いや……いや、なんでもない。いただきます」
美味いはずの料理が、分からなくなるほどの息苦しさ。葛藤。
俺はどうしたら、もう一度あの幸福を手に入れられるのだろう。どうすれば、奪われずに済んだのだろう。
いや、奪われない方法はたった一つだ。奪おうとするものをねじ伏せる。力を誇示する。簡単な話。
もし奪われても取り返せるように、力を丹念に身につけていく。それしかない。
だが俺はどうして昨夜、ライザからこいつを奪わなかったのだろう。
欲するならば奪えばいいのに、どうして……。
そうこうしているうちに、朝食はすべて胃の中に収まった。
「ご馳走様。今日はせいぜい生き延びてくれ」
「はい、颯さんもどうかご無事で」
ふとしたその笑顔の美しさが、一輪の花のように脆く儚いように思えた。