1話 帰宅
僕の住んでいたところは、はっきり言うと田舎だ。
バスは1日に片手ほどしか無いし、周囲には畑と田んぼしかなかった。
コンビニはなく、せいぜい駄菓子屋があるくらいだ。食材を買うには車で40分ほど移動しなければならなかった。
「ここは変わらないな……」
長い時間飛行機やバスに乗っていたせいか、バスから降りて背中を伸ばすとばきばきと音が聞こえてきた。
「でも、やっぱり空気がおいしいや」
幸い晴れており、空気はとても澄んでいた。恐らく前日に雨が降ったのだろう。地面もしっとりと濡れていた。
「靴が汚れるのは勘弁してほしいけど、まあ仕方ないか。後であいつに頼もう」
水たまりを避けつつ、目的地へと向かう。
時間帯としては太陽の高さから午前8時と言ったところだろう。
「あっ、おはよう」
僕が朝から畑仕事をしている人に一言挨拶をすると、その人は僕を見て、驚いたように目を見開いた。
「まぁ! 唯斗くんじゃないのぉ! 久しぶりねぇ」
頭を覆う頭巾で顔がよく見えなかったが、声を聴いてはっきりと思いだした。
「おばちゃん。久しぶり。元気にしてた?」
「もちろん元気よぉ。唯斗君も元気そうで何よりだわぁ。今帰ってきたのぉ?」
「うん、ちょうどね」
「そうなのぉ。もう4年ぶりかしら?」
「いや、だいたい5年ぶりだね。おばちゃんは変わらないね」
「そんなことないわよぉ。あたしももう歳だからねぇ」
「そんなこと言って。おばちゃんはまだまだでしょ」
「嬉しいわねぇ。なら、もっと頑張っちゃおうかしらねぇ」
「ほどほどにね。……それじゃあ、僕は家に顔を出しに行ってくるね」
「みんな心配していたから、早く顔を見せてあげなね」
「分かったよ」
僕はおばちゃんに手を軽く降って別れ、ぬかるんだ道をゆっくりと歩いた。
おばちゃんは小さいころによくお世話になった人だ。よく畑で採れた野菜を食べさせてくれたっけ。
もう5年もたつけれど、おばちゃんはほとんど変わっていなかった。でも、ちょっと顔にしわが増えたかな。そんなことは言わないけど。
「それにしてもみんな心配してた……か。ほとんど強引に家を出てきちゃったし、しかたないね」
一応ちゃんと告げてから家を出たんだけど、結局最後までみんなから反対されていたもんな。
「ちゃんと謝らないと……」
謝って許してくれると……いいな。
もう30分ほどこの肌を刺すような日光の中、僕はよく知っている家の前に立っていた。
「やっぱり緊張するな~」
さすがに5年も連絡なしで家出したのはまずかったかな。一応帰ろうと思えば何とかならないこともなかったんだけど。
でも、帰る気は全くなかったんだけどね。
僕はとりあえず背負っていたリュックからタオルを取り出し汗をぬぐい、水筒を取り出して水分を補給する。
「まだ6月の終わりだけど十分暑いな~。いつから日本はこんなに暑くなったんだろう」
もう一口と水を口に含んだところで、家のドアがゆっくりと開いた。
「お母さん、行ってくるね」
家の奥から「気を付けてね~」という声が聞こえてきた。間違いない。あの声は母さんの声だ。
そして僕の顔を見て目を見開いて驚いて固まってるのは――
「やあ、姉さん。久しぶり」
なるべく笑顔で言ったけど、たぶん顔は引きつっているだろうな。
まさか姉さんが出てくるタイミングで出会うとは思わなかったし。
声をかけたけど、姉さんは一向に動く気配がなかった。
「姉さん?」
もう一度声をかけると、姉さんは無言無表情で近づいてきた。
そして、柵を開けると僕にとびっきりの笑顔を見せながら、
「このバカ弟が!!!」
見事な頭突きを食らってしまった。
あまりに強力な頭突きに、僕の意識は一撃で刈り取られたのだった。
弁解の余地すらなかった……
「お母さん! バカが帰ってきた!!」
「ホント!? バカが!?」
私は地面に倒れ伏すバカな弟の首根っこを掴み引きずって家の中へと連れ込んだ。
「見てほら!」
「ホントね。これはバカだわ。どこにいたの?」
「家の前に突っ立ってたの。逃がさないように、一発くれてやったわ」
「よくやったわね。まったく、5年もどこに行っていたのか」
「伝説のポケ○ン並みに逃げ回るから手間がかかったわ」
「そうね。とりあえず縄を持ってくるわ。あなたはそこで見張っててちょうだい」
「分かったわ」
ようやく捕まえたわ。
私はバカな弟の両腕を拘束しながら、片手でそっと弟の髪をなでた。
「本当にバカなんだから……」
あれはおよそ5年ほど前。
突然弟の唯斗が「旅に出たい」と言い出した。
その時唯斗は15歳で、中学を卒業したばかりだった。
もちろんそんな年齢で旅に出すことなどできず、必死に家族で唯斗を止めた。
しかし、唯斗は次の日には姿を消してしまった。
近所の人に聞いてみたが、姿を見たという人はいなかった。
もちろん警察には捜索願を出した。
私たちも、どうせ友達の所にでも泊まっているのだろうと高をくくっていたのだが、それから1日、2日経っても一向に見つかったという連絡がなかった。
唯斗は特にアルバイトをしたということもなかったため、お金は持っていない。
それなのに一体どうやって姿を消したというのか。
もしかすると、どこかで大けがをして死んでしまったのではないか……。
そんなことを考えては涙が止まらなかった。
それはお父さんもお母さんも同じなようで、二人が時々口論になっていたこともあった。
それほどまでに、唯斗が心配だったのだと思う。
唯斗は小さいころからおかしなことばかり言っていた。
誰もいない所でひとりで話をしていたり、「僕の友達」といいながら、空を指さしたりしていた。
そのため、私たちは本当に心配した。
病院へ行って医者にも見てもらったが、特に脳に異常はないということだった。
そして、唯斗が中学を卒業する3か月ほど前、唯斗の様子がおかしくなった。
どこか物悲しげな表情をするようになったの。
でも、何かあったのか聞いても唯斗は何もないとしか答えなかった。
そして、中学を卒業したあの日。唯斗は晴れ晴れとした表情で家に帰ってきた。
だから私は、唯斗が元気になってよかった。そう思っていた。
でも、その夜。唯斗が家族の前で「旅に出たい」と言った。
それからは私もよく覚えていない。
初めは冗談だと流していたけど、本気で言っているのだと分かったときにはみんなで口論になっていた。
結局、また明日話し合おうということになったのだけれど、次の日には唯斗の姿はもうなかった。
それから一切の連絡もなく、今日ひょっこりと帰ってきたわけだ。
「本当にバカなんだから」
私の瞳から、しずくがぽろぽろと零れ落ちた。
そのしずくが唯斗の頬に落ちると、ピクリと唯斗が動いた気がした。