138話 終幕
「ムト! ティアリスッ!」
力が抜けたように、二人は膝から崩れ落ちる。
目の前の光景に、いち早く行動できたのはリチェルさんだった。
その悲痛な叫びを聞き、リチェルさんの背を追うようにして僕も二人に駆け寄る。
夢であったなら。そう思うものの、僕が見た光景は確かに現実らしい。神殺しの神剣は元メイドさんの腹部を貫き、ムトの背中から飛び出していた。
一目見れば分かる。致命傷だ。
とは言っても、致命傷だろうと死んでいなければ癒すことの出来るのが神力というもの。
たとえ瀕死であろうと、神の力であれば治すことなど容易にできる……はずだった。
だけど、
「ッ! どうして……」
元メイドさんを癒そうとしても、神力を近づけた瞬間に力が霧散してしまう。なぜ、と考えたところですぐに答えは出た。この神剣のせいだ、と。
神殺しの神剣が、なぜ神殺しと呼ばれているのか。それはおそらく、この剣が神力を霧散させる力を持っているからなのだろう。
神にとって神力とは命そのもの。自然に回復するとはいえ、完全に無くなってしまえばその存在を保てなくなる。
存在を保てなくなった神はやがて……消える。それはつまり、死ぬということだ。
とにかく。この神剣を抜かない限り、元メイドさんを救うことはできない。
地面を濡らし広げ始める血溜まりを見て、僕の焦りは加速する。
「ムトっ! ……どうして」
泣を零しながら、血で汚れるのも厭わずに、リチェルさんはその場に膝を突く。
リチェルさんも神剣に触れることができないのが分かっているんだろう。悔しそうに、両手を血が滲むほどに握りしめていた。
……ムトを悲しむ気持ちは分かる。でも、理解はできなかった。
ムトはリンを殺した敵だ。だから、今最優先すべきは元メイドさん。
僕を、そしてリンを助けてくれた恩人をこんなところで死なせるわけにはいかない。
「何か……何かできることは」
死んでしまうと、僕の手ではもうどうにもできなくなってしまう。
どうにかしてこの剣を引き抜けないかと考えていると、重なり合う二人を見ておかしな点に一つ気がついた。
今も地面に滴り流れ落ち続ける血。しかし、その血の量は明らかに少なすぎた。
正確に言えば、血の量が二人分にしては明らかに少なすぎた。
「……まさか」
一つの可能性に至り、視線を剣が刺さっている元メイドさんの腹部へと向ける。そして、それを見て僕は確信した。
元メイドさんは死んでなんかいないと。
だって、元メイドさんの腹部からは、一滴たりとも血が流れていなかったから。
「……んっ」
僕が確信するとほぼ同時に、元メイドさんの小さな呻き声が聞こえてきた。
小さく身動ぐと、ゆっくりとその重そうな瞼を押し上げる。
僕の視線と交差すると、元メイドさんはぼんやりとした目で、涙を流すリチェルさんを見つめた。
「……どうしての、ですか。リチェルティア様、どうして泣いて……」
「……」
リチェルさんはギュッと両手に力を込め、誰にも見えないように顔を下へと向けた。その様子から、神剣が元メイドさんを傷つける事がないと、リチェルさんは知っていたようだ。
そんなリチェルさんの様子を不思議に思ったのか、元メイドさんは地面に手をついてリチェルさんに近づこうとする。
そして……ピチャリ。
その水のような、しかしまた水とは違うそれが何なのか。即座に理解したんだろう。
まだ朧げだった元メイドさんの目が、パチリと覚醒した。
「……ムト、さま? ……お兄ちゃんッ!?」
現状を理解した元メイドさんが、自身とムトを貫いている剣を引き抜いた。
「うぐっ」と、苦しげな声をあげたのはムトだ。痛みで意識が戻ったのか、荒い呼吸のまま、ゆっくりとその目を開けた。
「……やぁ、僕はまだ、死んでない、みたいだね。僕も……しぶとい」
「喋らないでくださいッ! 直ぐに……直ぐに治して」
両手が赤く染まるのもお構いなしに、元メイドさんは必死に溢れ出る血液を抑えつけた。
間違いなく、神力を使わずには助けられないような傷だ。持ったとしても、後……数分程度の命だろう。
きっと、それが元メイドさんも分かっている。だから、僕へと視線を移した。
「ユート様ッ! 虫が良いのは分かっています……。ユート様の大切なリン様を手にかけた、ムト様が許せないのは重々承知です。ですが、どうか……どうか私のお兄ちゃんを救ってください。お願いします……」
その必死さも分かる。元メイドさんの願いも叶えてあげたい。
でも……リチェルさんの動きからも分かる通りだ。リチェルさんだってムトのことを助けてあげたいに違いない。
弟だと慕う彼女が、出会って僅かな僕に頼んででも二人に会おうとしたリチェルさんが、一番に助けたいと思っているはず。
だというのに、リチェルさんは神剣が二人を貫いてから今のまで、一度も助けてほしいと言っていない。
それはおそらく……。
「お願いします……お願いします……」
……無理なんだ。たとえ、そんなすがるような目で見られたとしても、僕はムトを助けられない。
……助けられないんだ。
その事実を突きつけるのが怖くて。でも、言わなきゃいけないから、僕は鉛のように重く硬くなった唇をこじ開けるようにして開いた。
「……無理、だよ」
一瞬、何を言ったのか分からなかったのか。それとも、それを理解したくなかったのか。
元メイドさんは忘れたいというように首を振って、頭を下げ、言った。
「……お願い、します。お兄ちゃんを救ってくれるのなら、なんでもしますから。……だから、だからどうか」
「もう……止めなさい」
僕が口を開く前に、リチェルさんがそう言って止めに入った。
視線を隣に向ければ、凛とした様子のリチェルさんが。しかし、その両の目の目蓋は赤く、少し腫れていた。
リチェルさんは元メイドさんにゆっくりと近づくと、そっと肩に手を下ろす。
「ムトは……もう助からないの」
「どうしてですかッ! ユート様の力があれば、こんな傷くらい」
「ええ……普通の剣なら、助かっていたでしょうね」
……どうやら、その言い方でようやく気がついたみたいだ。
見開いた瞳から涙が溢れ出すも、それを拭う様子もなく。ただただ呆然と、時間が止まってしまったかのように、元メイドさんは固まってしまった。
リチェルさんのいう通り、普通の傷なら僕にも治療できただろう。でも、あれは神殺しという異名のついた神剣。傷を受けたその跡でさえも、神力が弾かれてしまった。
魔術でももう、間に合わない。だから…… 僕がムトを救うことはできないんだ。
「何か……何か方法はないんですかっ……。ユートさまっ……」
「もう、止めな。……僕が死ぬ、それで全て終わりさ」
「お兄ちゃん……」
「君に、そう呼ばれる、権利は…僕にはない、よ」
ムトの震える手が、元メイドさんの頭へと伸びる。
その手が髪に触れると、見ていて分かるほどに、優しく。優しく撫でているのが分かった。
「僕は、もちろん……きっと姉さんも、居なくなる。だから、お前は後でゆっくりとついてくると、いい」
「お兄ちゃん……?」
ムトは返事を返さず、元メイドさんに笑いかける。その笑顔には、今までの不気味さのかけらも無く、淀みが一切ない無垢な笑みだった。
続けて、ムトはリチェルさんに視線を向け、
「……リチェル姉さん、ごめんなさい」
「……説教は後でしっかりしますから」
「ははっ……お手柔らかに、頼むよ」
そして、二人をもう一度見つめた後、今度は僕と視線が合った。
「……」
言葉はなかった。
ムトも、僕と同じで言葉を介したところで何も解決しないと分かっていたんだろう。
それが腹が立たしい。……と同時に、少し悔しかった。
だから、文句の一つでも最期にくれてやろうと思ったその時。
ゾワっと、鳥肌が立つような殺気を感じて、周囲を警戒した瞬間には、……もう遅かった。
「……えっ?」
元メイドさんの胸に、ナイフが突き刺さっていた。心臓のすぐそば……いや、下手をすれば、心臓を傷つけているかもしれない。
口元から血が流れ落ち、ムトと並ぶ様にその場に倒れる。元メイドさんの血とムトの血が混ざり合い、どちらのものか分からなくなった。
リチェルさんも、そしてムトも何が起きたのか理解できていないようで、ただただ倒れる元メイドさんの姿を見つめていた。
この二人やったなんてことはありえない。第三者だと判断し、殺気の感じる方へと視線を向けると、そこには人の身でありながら人ではない何かがそこにいた。
「ハハハハハッあ! ムト様ッ! やりましたァ! 貴方様の仇を討ちましたよぉっ!! 」
フードを翻しながら、口から唾液を溢し叫ぶ姿に、僕は怒りよりも恐怖が僅かに上回ってしまったことに気がついた。
……動けない。
あれが敵で、倒さなくてはいけない相手だと分かっているのに、僕は動けなかった。
人の最期を何度も目にしてきたものの、あれほどまでに狂ってしまった人間を見たことがなかった。見たくなかったというのが、正直な感想だ。
言葉ではない、おそらく意味もない何かを叫び続けるその様を見て、僕は心からそう思った。
「――ァあ?」
しかし、そんな人ではない何かの最期は呆気なく終わりを迎えた。……首と胴が分かれたことで。
それを行ったであろう人物に視線を戻せば、その神が元メイドさんの胸に刺さったナイフを抜き、治療しているところだった。
「……全く。最期くらい、ゆっくり死なせて、欲しいものだね」
そう言って、力を行使するムトの体が、徐々に足先から崩れていくのが視界に入った。まるで砂のように、さらさらと崩れては散っていく。
神力は万能だ。司るものがなんであれ、使えば人の怪我くらい治すのは容易い。
神剣の効果は元メイドさんにはないようで、ムトの力を弾いている様子もない。
……でも、今のムトの神力はもうほとんど残っていない。そんな状態で力を使えば、死が早まるのは本人だって気がついているはず。
なのに……、
「どうして、僕に治療を頼まないの?」
そう尋ねると、ムトは、
「僕が伝えたいことは、もう伝えたからね」
そう言って薄らと笑みを浮べた。
「……リチェル姉さん」
ムトの呼びかけに、リチェルさんが頷いて返事を返す。
それを確認すると、ムトは空を見上げて言った。
「姉さんがどうしてわざと人の手に討たれたか、分かったよ。今の僕と、同じ気持ちだったんだね」
「……そうね。きっと、そうだと思うわ」
「……姉さん、先に行って待ってるね」
「……ええ」
リチェルさんの言葉を聞いて、ムトは安心したようににこりと笑い、散って行った。
僕はムトのいた場所から視線を外し、ゆっくりと空を見上げて目蓋を閉じる。
目蓋の裏に浮かぶのは、つい先ほど目に焼き付いたムトの微笑み。あの後悔のない笑みに、僕はなぜか惹かれていた。
……いや、なぜかなんて理由を考えるまでもない、か。
後悔なく死ねるその様が、純粋に羨ましかったんだ。
「……眩しいなぁ」
瞼を開ければ、さんさんと降り注ぐ太陽の光が目を焼いた。
そっと手をかざし、影から空を見る。
そこは、雲ひとつない快晴だった。