136話 救いの手
信じられない、と目を丸く見開いたムトが、リチェルさんの名を呟くように呼ぶ。
対するリチェルさんは、ただただムトを見据えて無言を貫いていた。
ムトがゆっくりと立ち上がる。
痛みが感じていないのか、感じる余裕すらないのか。今にも死にそうなほどの傷を負っているというのにも関わらず、ムトはゆっくりとリチェルさんへと歩み寄った。
ふらふらと近づくムトを見て、リチェルさんも歩みを進める。
「姉さ――」
二人の距離もあと少し。
手を伸ばせば届く距離に入り、ムトが血で濡れた腕をリチェルさんへと伸ばしたその瞬間、バチッと乾いた音が周囲に響いた。
リチェルさんが、手を振り抜いた状態で立っている。その光景を見て、僕はようやくリチェルさんがムトの頬を叩いたのだと気がついた。
「ねえ、さん?」
「貴方は馬鹿ですね。どうしようもない馬鹿です。これほど愚かな弟だとは思っていませんでした」
何を言われたのか理解できないというように、ムトはポカンと口を空けたまま動かなかった。
それは僕も同じだ。まさか、死に体のムトに鞭を撃つような真似をするとは思わない。
リチェルさんは言葉を続ける。
「あなたは何をしたのか分かっているのですか? これほど世界を混乱に陥れて、どれだけの迷惑をかけたのか、どれだけの罪を犯したのか理解していますか? ……いいえ、していないのでしょうね。していたのであれば、こんなことを起こすはずありませんから」
「で、でも僕は、姉さんの仇を」
「私がいつそんなことを望みましたか? 私が人種を滅ぼせと? 世界の意思を殺せと? そんなことをあなたに行った覚えはありませんが」
「姉さんはあいつらに殺されたんだよ!? 奴だって、姉さんにあんな力を与えなければ――」
「黙りなさいッ!」
ぴしゃりと、再び手を叩くような音が聞こえてくる。
今度のビンタは先ほどよりも強かったらしく、ムトの体が力の方向へと流された。
崩れ落ちるムト。そんなムトのことを、リチェルさんはただ見下ろしていた。
助ける素振りは全く見せない。
「確かに、神の力は選べるものではありません。ですが、私は一度も自分の力を不満に思ったことがありません」
「…そんなはずないッ! 街を見下ろして、姉さんはいつも辛そうな顔をしていた。あれが嘘だったとは言わせないよ」
「……見ていたのですか。ですが、それは貴方の勘違いです」
「そんなことは――」
「では、自分の力に不満を持って、なぜその時私は自分を見失わなかったのですか?」
「っ……それは……」
「簡単です。私は一度たりとも、自分の力を否定したことがないからですよ」
神は自分の力を否定すると、自分さえも否定することになる。それは、神であれば誰にでも適用される、逃れられないルールだ。
リチェルさんの言う通り、ムトの言い分が正しいのであれば、リチェルさんはとっくに姿を消している。
けれど、リチェルさんはここにいる。こうして死んでもなお、神剣に宿って意識を保ち続けるリチェルさんが、神の力を否定していないのは明白だ。
「ならっ! ならどうして、リチェル姉さんは死んだんだっ! 人の手で、どうして神が殺されたって言うのさッ!」
「……」
リチェルさんの背後にいる僕が、リチェルさんの表情を見ることはできない。でも、そっと俯いたところを見るに、あまりいい顔はしていないだろう。
そんなリチェルさんに対して、ムトは続ける。
「姉さんならあんなゴミ共に負けるわけがない。神殺しの神剣を使われたからといって、負けるはずがない」
「神殺しの神剣?」
思わず僕がその名を呟くと、それを聞いていたのか、リチェルさんが説明してくれる。
「神殺しの神剣は、私が殺される際に使用された神剣のことです。その名の通り、神を殺す力を持った神剣ですね。どこの誰が、いつの時代からあるのかは分かっていません。ただ、神を殺すという一点においては、他の神剣を圧倒しています」
そんな危険な神剣がこの世界にはあるのか……。
リチェルさんは、でも、と続けて、
「全くの対処方法がないというわけではありません」
「というと?」
「いくつか方法はありますが、最も単純なのは、当たらなければいい。ただそれだけです」
「当たらないと効果を発揮しないってこと?」
「ええ。当たらなければ、死ぬこともありません」
「だったら、どうしてリチェルさんは……?」
「それは……」
言いたくないのか、リチェルさんは口を閉じたまま開こうとしない。
「ならどうして……どうして姉さんは死んだんだっ!」
涙を流しながら訴えかけるムトを見て、リチェルさんは動揺したように肩を震わせた。
それでも、口にしまいとリチェルさんは必死に耐えているように見える。
と、その時。
ふと背後から気配を感じ、振り返ってみれば、そこには布で包まれた、長い棒状の何かを抱えている元メイドさんの姿がそこにあった。
どうしてこんなところに? それに元メイドさんが手にしているのは……長さ、形状からして……剣?
「……リチェルティア様?」
「……ティアリス」
リチェルさんへと視線を向ければ、リチェルさんが大きく目を見開いて元メイドさんのことを見つめていた。
ティアリス……。もしかして、それがリチェルさんの本名なのかな?
驚いた様子で互いを見つめる二人。
その間に挟まれた僕は、非常に気まずい空気の中、そっと二人の視線から逃げるように後ずさる。
「……どうしてここに」
「リチェルティア様、生きておられたのですねッ!」
満面の笑みを浮かべて、嬉しそうに近づこうとする元メイドさん。
しかし、次のリチェルさんの言葉を聞いて、足を止める。
「……生きてはいません。私の体はもうこの世にはありませんから。今は一時的に、ユートの力であなた達に見えるようにしてもらっているだけです」
「そんな……」
笑みから一変、絶望したように暗い顔へと変える元メイドさんを見て、リチェルさんは困ったような笑みを浮かべた。
そんな元メイドさんに、悪意の篭ったムトの言葉が飛ぶ。
「裏切り者、お前は知っているのか? リチェル姉さんが死んだ理由を」
「ッ!」
鋭い視線を向けられたためか、それともムトの言うことに何か心当たりがあるためか。リチェルさんは顔をクシャリと歪ませ、俯いた。
そんな彼女に対して、ムトは鋭い刃のような言葉を突き立てる。
「どうして姉さんは死んだんだ? 僕はあの場でお前の姿を見ていない。でも、何か知っているんじゃないか?」
「止めなさい、ムト」
リチェルさんがそう注意するも、ムトに止める様子はない。むしろ、さらに鋭い視線を元メイドさんへと向ける。
「以前聞いたときにもお前はそうやって黙り続けた。あの時は見逃してやったけど、今思えば、あのときに拷問してでも聞いておくべきだったよ。……さぁ言えッ! どうしてリチェル姉さんは死んだんだッ!どうして、姉さんが死ななきゃいけなかったんだッ!」
ムトの気迫に押されたんだろう。元メイドさんは体を震わせながら、ポツリと口に出した。
「……私のせいです」
「ティアリスっ!」
「……いいえ、言わせてください、リチェルティア様。元はといえば、私が悪いのですから」
「ち、違います、全て私が」
「いいんです。……私が、リチェルティア様が死ぬことになってしまった、全ての元凶なのです」
その途端、ムトから途轍も無い殺気が溢れ出し、元メイドさんへと向かう。
今までに味わったことのないその濃厚な殺気は、向けられていない僕でさえ背筋が凍るようなほどのものだった。
対象である元メイドさんなら、どれほど辛いものか。
そのことに気づいたのは、リチェルさんが元メイドさんを庇うように間に割り込んだ時だった。
「やめなさい、ムト」
「どうして姉さんはそいつを庇うんだ? そいつが悪いんだろう?」
鋭い視線をムトに向けるリチェルさんだったけれど、ムトはそれに全く動じない。
それより、どこにまだそんな力が残っていたのか。死ぬ寸前に見えたムトが、しっかりとした足どりで一歩、また一歩と元メイドさんの元へと向かっていた。
「そいつがいなければ、リチェル姉さんが死ぬことはなかった。……そうだ、邪魔者は排除しないと。……皆んな殺さないと。そしたら、もう一度姉さんと――」
笑みを浮かべながら確実に二人に近づいていくムト。
……壊れている。今のムトを見て、僕はそう思った。
今までのムトは復讐で人種を滅ぼそうとするような奴だったけれど、まだ会話が成立したし、自分で考えて行動しているようだった。
でも、今のムトは違う。今のムトはただ周囲の言葉を鵜呑みにする、考えることを放棄した殺戮人形の様なもの。
死を恐れずに暴れまわったら、どれだけの被害が出るか分かったものじゃない。
「ムト、貴方は誤解しています。それ以上この子に近づくのであれば、私が相手をしますよ」
「……邪魔は、殺してやる。絶対に、許さない」
「……ムト」
悲しげに目を伏せて、ムトの名を呼ぶリチェルさん。
リチェルさんも分かっているんだ。
もう、ムトは壊れている。壊れかけで動いていたムトだけど、もうそれも終わりに近づいているのだと。
……随分とムトも無茶をしたんだろう。僕が知っている中でも、こんな短期間でダンジョンの創造、ダンジョンコアの作成、ミル達を結界で閉じ込め、僕やミルと戦った。
以前の僕であれば、そのどれか一つでも困難なくらいに、力を必要とする。それをたった一人でムトはやっていたんだ。どれだけの力を使ったのか、想像するだけでも疲れてくる。
きっと、命を削りながら力を使っていたんだろう。
全ては、ムトの姉さんであるリチェルさんの仇を取るために。
ここでムトを止めることはできる。
相手も命がけとは言え、随分と負傷し、神力もそれほど残っていないはずだ。今の僕でも、十分に倒せる。
……でも、それで本当にいいのかな?
確かに、僕はムトが憎い。今でも、リンを手にかけたムトのことは許せない。
許せないけれど、それと同時にムトの気持ちも分かってしまうんだ。……僕にも姉さんがいるから。
ムトを倒して終わり、……それで本当にいいのかな?
そんな想いから一歩を踏み出せずにいると、
『ならば、したいようにすればいい』
そんな、僕の背中を押してくれるような声が聞こえてきた。
「……そうか。そうだよね」
今までうざったいと思っていたその声が、とても頼もしく思えた。
思わず、僕は頬を緩める。きっと今の僕は笑っているんだろうね。
『行ってこい』
「うんっ!」
そんなもう一人の僕の言葉を受けて、僕は荒れ狂う殺気の中へと身を投じた。