124話 物語
そこは光の届かない、沼のような場所だった。
捥がけば捥がく程、体に絡みつく泥に体を取られる。
――気持ち悪い。
時間と共に徐々に沈み込んでいく感覚に、フィリアはそんな不快感と同時に、恐怖を感じていた。
もはや身体も顔も、全て飲み込まれている。声を出して助けを呼ぶこともできない。
今のフィリアにできることなんて無い。精々、抗い捥がくことと、心の中で叫ぶことくらいだ。
助けて、と。
……物語であれば。
助けを求めた姫は、勇者の手によって救われる。
例えどれほど強大な敵がいたとしても、例えどれほど絶望的な状況でも。彼は颯爽と姿を現し、微笑み、そして助けてくれるのだ。
何故か? ……それは物語だからだ。小さな子供に読み聞かせるのに、バッドエンドでは酷だという大人の都合に過ぎない。
打算に蹴落とし。世の中は悪意に満ちている。
小さいながらにフィリアはそれを悟っていた。いや……悟ってしまった。その賢さ故に、物語は所詮作られた美談なのだと、気付いてしまったのだ。
だからこそ余計に、作られた物語へと羨望の目を向けた。こんな世界に生まれたかったと、そう心から願っていた。
誰もが傷つかない、皆が幸せな世界を。
そんな時だ。彼が現れたのは。
突如部屋に乱入して来た暗殺者の手から、フィリアは彼に命を救われた。
見返りを求めず、ただ善意から他人を救う。
そんな物語に出てくる勇者のような。まるで本の中から飛び出して来たかのような彼に、フィリアが惹かれない筈がなかった。
告白を断られた後の今でも、その気持ちは変わらない。変わるはずがない。
フィリアにとっての理想が、彼そのものなのだから。
だが、
――ユートはね、死んだよ。
あの悪魔の言葉が、フィリアの頭の中で何度も何度も再生される。そんな筈はないと何度否定しても、あの言葉が頭から離れないのだ。
故に、フィリアは捥がく。その言葉を否定するように、この泥沼の中で。
例えどれほど絶望的な状況でも、みんなが幸せに終わるのが物語だから。それが、唯斗の力だから。
しかし、そんなフィリアにさらなる絶望が襲う。
真っ暗な視界が突如切り替わった。
外に殆ど出たことのないフィリアでも分かる。ここは街の外だ。内側からしか見たことはないものの、あの聳え立つ分厚い外壁には見覚えがあった。
しかし、そんな物よりも。視界の最も近くに写っている人物に、フィリアの心が大きく揺さぶられた。
「……フィリア?」
(……お父様?)
そんな時間も束の間。
「さぁ、始めようじゃないか」
近くから聞こえて来た悪魔の声を火蓋に、ウォルスの体が大きく吹き飛ばされた。
……他でもない。フィリアの手によって。
(いやぁああああああああああああッ!!)
手には、人を殴りつけた生々しい感覚が未だ残っていた。
人に暴力を振るったことのないフィリアでも分かる。何かが折れたようなあの感触が、一体何なのか。
――物語は所詮、物語でしかない。
そう、現実に言われているようだった。
声が聞こえる。
助けて、助けて、と何度も聞こえてくる。
キミはだれ? どうして僕に助けを求めてくるの?
どうせ、僕には救えない。
親友を救えなかった僕が、誰かを救うことなんて……、親友?
親友ってだれだっけ……、思い出せない。でも、とても大切な人だった気がする。
――いつまでそうして閉じ籠っているつもりだ?
……だれ?
――我はお前、お前は我だ。お前がいくらそれを否定したところで、その事実は変わらない。
……否定? 何のこと? 僕はキミを否定したの?
――記憶が抜けすぎているか。我がどうにかしてやってもいいのだが、それではここまでした意味がない。……ふむ、あいつを使うか。
ねぇ、キミは一体……、
――少し待て。
少し待てって、相変わらずキミの考えていることは分からないや。
……あれ? 相変わらず、ってことは、僕はやっぱりこの声の人を知っている?
……思い出せない。
「ッはぁ! ……あら、随分と簡単に空きましたね。さっきまで何をしてもびくともしなかったというのに」
また新しい人……。助けを求めてきた人とも、自分勝手なさっきの人とも違う。キミはだれ?
「やはりここにいましたか。ユート、早くここから出ましょう。あなたを待っている人がたくさんいますよ」
ユート? それって僕のこと? 何だか聞き覚えのある名前だけど……思い出せないや。
「ッ! あなた記憶を」
――そのためにお前を呼んだのだ。
あ、またさっきの人。僕自身だって言ってたけど……。
「なるほど、あなたが……。しかし、どうして貴方は消えていな――まさか」
――理解したのなら、外で待っているあいつに助力を得て来い。
「……随分と偉そうですね。まぁ、この子の体に入らせてもらっている身として、そのくらいのことはしますけど。ですが、私の姿は他の者には見えませんよ。神でさえも」
――それはお前の世界の話だろう。我のいた世界では違う。
「っと、そうでしたね。分かりました。ではユート、また後で」
いや、また後でって言われても、何が何だか。
――お前はそこで待っていろ。直に分かる。それよりもだ、おい。
「私ですか?」
――そうだ。……繋がりは切れていない。あいつが気づかないようなら、それも伝えておけ。
「それはどういう――」
――いいから行け。それほど時間は残っていないぞ。
「……分かりました。ではユート、また後ほど」
あ……、うん。
もうどうでもいいや。
真っ白なシーツが掛けられた、ベットの上に眠る唯斗。
いったいどれだけの時間が経ったのか。まるで死んでいるかのようにピクリとも動かなかった彼に、ようやく反応があった。
「……うっ、ぁ」
「唯斗ッ!?」
わずかな変化も見逃さないよう、ずっとそばで唯斗を見守り続けていた天照が、勢いよく立ち上がった。
その反動でパイプ椅子がカシャンと音を立てて倒れるが、そんなことは知ったこっちゃないと、すぐさま唯斗のそばへと駆け寄る。
が、自身がかけた結界にぶつかって顔面を強打した。
「いたっ!」
「……落ち着け」
隣から聞こえてくる呆れたような建御雷神の声に、天照はわずかに頬を赤く染める。
そしてジンジンと痛む鼻先をそっと押さえながら、涙目でそっと唯斗の顔を覗き込んだ。
「これは……」
「どうなんだ? 俺にはこういうことはよく分からないんだが」
「……なるほど。分かりません」
「おい」
「仕方ないではないですか。このような状態の神を見たことなどないのですから。普通、自身を否定した神は苦しみ、消滅。もしくは、力が暴走するかのどちらかしかありません。ですが、唯斗はそのどちらでもない。何故か、安定しているようにも見えます」
それに、と続けて、
「唯斗は前代未聞の半人半神です。ただでさえ前例がないというのに、この子が自身を否定した場合どうなるかなんて分かりませんよ」
「そうか」
天照は神が自己を否定して消滅するところを、一度も見たことはない。が、聞いた話では二度あったらしく、その様子を目にしたという神がいる。
その神々曰く、そのどちらもが、もがき苦しみ、数分ほどで姿を消してしまったそうだ。だが、それは今の唯斗に当て嵌まらない。
苦しそうにもがいていたものの、気を失ってからはただ眠っているようにしか見えない。暴走を想定して結界を張ってはいるが、それすらもいらないのではないかと思えてくる。
唯斗は暴走していないのではないか。と、そう思わせられるほどに。
と、その時だった。
「……私の声が聞こえるかしら」