118話 開戦
「……来ました」
暗い顔をした斥候のその言葉が、悪夢の始まりだった。
王都の北側から姿を現した、およそ一万の軍勢。その三分の一程は黒く塗りつぶされた鎧を身に纏い、残りもこれまた黒いローブで身を隠していた。まるでカルト宗教の集まりだ。
その怪しげな雰囲気は、エルムス国の兵達の士気を徐々に奪っていく。フィリアもその一人だ。己の意思とは反して、体の震えが止まらなかった。
そんな軍勢の前に並び立つ、ボロボロの衣服を身に纏った者達。その者達の首には、重く、冷たそうな、鉄の輪が付けられていた。……間違いない、あの者達は奴隷だろう。その数およそ一万。
計およそ二万の軍勢が、エルムス国王都を睨み付けるように集結していた。
対するエルムス国の兵は約二万。加えて、冒険者達が一万弱。計三万と、数の上では優っている。
ウォルスがあの手この手を使って、ようやく集まったのがこれだ。これ以上の戦力を集めるのにはもっと時間が必要だ、と嘆いていたのはフィリアの記憶に新しい。
「防衛の準備は?」
「滞りなく」
「分かりました。では予定通り、これよりこの王都を死守します」
「はっ」
フィリアが近くに控える指揮官補佐、マルクスへと命令を下すと、そこから各部隊へと伝令が回った。が、いまいち士気が低い。
敵の不気味さを感じて士気が下がっているというのもあるだろう。だが、それ以上に。実際に敵を目の当たりしたことにより、実感してしまったのだ。
ーー今から始まるのは命の取り合いだ、と。
夢などではない。
剣を振るえば命を奪い、戸惑えば命を奪われる。止めて、と言って止まるような模擬戦とは訳が違う。
ーー怖い。そんなこと、ここにいる皆が思っていることだろう。しかし、やめるわけにはいかない。逃げるわけにはいかない。
ここで止めなければ、背後にいる民が、王都より南に位置する村が、街が蹂躙されてしまうから。
フィリアは一杯に空気を吸い込み、
「戦いの時ですッ!」
ーー叫んだ。
想像していた以上の大声に、自分でも驚く。
思考が停止したのも一瞬だけ。直ぐさま、息を吸い直して兵士達へ、そして自分へ言い聞かせるように言葉を並び立てる。
「ここで止めなければ、友人が、家族が、大切な人が死にます。そんなのは嫌です。……絶対に嫌です」
すると、その言葉に同意するように、キンッと金属同士をぶつけるような甲高い音が響いた。
見れば、兵士たちの手はいつの間にか腰にある剣へ。鞘から僅かに抜き出し、勢い良く差し入れることで音を鳴らしていた。
フィリアは構わず続ける。
「だったら戦うしかありませんッ! 相手はこちらの降伏など聞きはしない。すでに多くの人達を殺した、人の皮をかぶった化け物です。容赦入りません」
再び鳴り響く金属音。
今度は先よりも大勢が鳴らしたために、音は重なり合い、響き合い、より大きな音へと形を変えた。
「安心してください。私達にはアルミルス様から譲り受けた、この神剣があります。この結界がある限り、アルミルス様が私達を守ってくださいます」
皆の心は一つになった。その証拠に、金属音には一切の乱れはない。
ズレのなくなった甲高い金属音が、自身の身を引き締める。それはフィリアだけが感じていることではないはずだ。
普段大きな声を出さないフィリア。なのに無理をしたせいか、喉に僅かな痛みを感じていた。
だが、力を抜くなんてことはしなかった。自身の声だけで士気が少しでも上がるのであれば、この程度安いものだ。
フィリアははち切れんばかり息を吸い込み、再び叫んだ。
「では、戦闘開始ッ!!」
フィリアの合図と共に兵達が互いの距離を取り、広がる。とは言っても、誰一人として結界の外には出ていない。
まずは小手調べだ。後方に配置してある、対魔物用の投擲器へと砲丸を込めると、
「放てッ!」
フィリアの合図と同時に、敵陣へと打ち出した。
砲丸はドシュッ、という鈍い音と同時に発射され、結界を通り抜けて敵陣の僅か手前に着弾。そして、眩い光を放つと同時に大爆発を起こし、遅れてフィリア達の鼓膜を爆音が叩いた。
「……す、すごい威力ですね」
魔物が攻め入ってきたときによく使われる、爆発系魔道具の一つだ。
欠点は投擲器自体の持ち運びが困難な程に重たいこと。遠征には向かないため、王都や一部の大きな街にしか設置されない。
ただ、機動力を失った分、その威力は魔道具の中でも上位に入る。主に魔物に使用されるだけあって、人がその身に受ければどうなるか……。爆心地にいれば、おそらく跡形も残るまい。
さて。
想像以上の威力を目の当たりにしたフィリアは、心のどこかで、これで引いてくれたら、などと考えていた。
砂埃と煙が混じり合い、どうなったかは確認できていない。だが、あれだけの威力だ。向こう側もかなりの痛手を負っただろう。
もしこれで引いてくれれば、こちらとしても戦力を集める時間が増える。何より、唯斗が神々を解放するまでの時間がタダで稼げるのだ。そう願わずにはいられない。
だが、現実はそう甘くはなかった。
立ち登る煙の向こう側から、大きな炎の柱がこちら目掛けて突き抜けてきたのだ。
「全員、防御ッーー」
しかし、前衛が盾を構える間もなく炎はぶつかった。
ゴウッ! という音にフィリアは不安を抱く。が、その不安は目の前の光景を見て徐々に薄れていった。
炎は結界に阻まれて、微塵も熱さが伝わってこなかった。予想通り、やはりこの結界は敵の攻撃を防いでくれるらしい。
そしてもう一つ。これは事前に確かめていたから分かっていたことだが、こちらの攻撃は結界に阻まれないのだ。
「これなら……いける」
このまま攻撃を続ければ、こちらが負けることはない。
……そう思っていた矢先だった。
「ッ!?」
おぞましい、身を虫に這いずられるような気配と共に、真っ黒な炎がこちらへと飛んできた。
瞬く間にその黒い炎は結界へ着弾する。が、そこで思いもしない現象が起きた。
ーービシッ!
結界にヒビが入ったのだ。
この結界はフィリアの意思で発動しているとはいえ、その力の根源は短剣に込められた神の力だ。しかしそれが今、目の前で破られようとしていた。
現実感のない出来事に、フィリアは一瞬固まる。が、咄嗟に短剣を取り出だし、胸の前で祈るように短剣を握りしめた。
(お願い……直ってッ! 止まってッ!!)
フィリアには感じていたが、確かに結界は修復されていた。だが、直ったそばから壊されてしまう。
(このままじゃ……)
壊されるのも時間の問題。
泣きそうになりながら、フィリアは必死に結界へと短剣の力を送り続けた。
と、そのとき、
「ふんッ!」
マルクスが何かを結界の外へと投げ捨てた。
短剣に集中していたためによく見えなかったが、フィリアの視界の端に、微かにペンダントのような物が映る。
その次の瞬間、ゴゴゴッという地鳴りと共に、敵陣が揺れ始めた。
動揺する味方の兵士達。だが、それは向こう側も同じだったようだ。
黒い炎は徐々に細くなり、やがて消えた。警戒しているのだろう、二度目の攻撃は飛んではこなかった。
「……一体何が」
「申し訳ございません。私の独断で魔道具を使用しました」
フィリアの疑問に答えたのは、この現象を起こした張本人、指揮官補佐のマルクスだ。
「魔道具、ですか?」
「はい。個人的に持っていた、大地を揺らす魔道具です。危険だと思い、咄嗟に」
「……そうでしたか。助かりました。あのままでは結界が破られていたでしょうから」
軍での戦いに、独断はあってはならない。それは、兵士の誰もが最初に習ったことだ。
各自が思い思いの行動を取れば、下手をすれば味方を足を引っ張ってしまうことになりかねない。場合によっては間者の可能性を考えて、その場で断罪しなくてはならない場合もある。
しかし、今回に関してはマルクスに助けられた。
もし、マルクスがあの場で行動を起こさなければ、あの一撃で軍が壊滅していたかもしれない。
フィリアにマルクスを咎める気はさらさらなかった。
「しかし、結界が破られそうになるなど……にわかにも信じがたい」
「同感です。ですが、相手は邪神ムトを背後につけた者達です。それを加味して考えると、おそらく……」
「神剣、ですか」
「そう考えるのが自然でしょう」
あの場にあの化け物、黒い人型はいない。
となると、あの黒い炎はあの敵陣の誰かが放ったものだろう。しかし、人の身でこの神の力がこもった結界を破れるとは考えられない。
故に、フィリアは神剣の存在を疑った。いや、今となっては確信している。
今後は敵陣にも神剣があると考えて行動したほうがいい。フィリアはそう結論付け、マルクスへと指示を飛ばした。
「……危険ですが、結界から出て戦いましょう」