116話 女王として
ギルマス、騎士長、ロンドの順で部屋を出ていく。
その最後の一人が出ていくのを確認して数秒。フィリアは力を抜くと同時に、大きく息を吐きながら椅子の背もたれへと体を預けた。
「……ふぅ」
「お疲れ様です」
何か甘いような、優しい匂いがする。
そっと目を開けてみれば、そこには先ほどまで飲んでいた紅茶とは、また別の紅茶が置かれていた。
「ありがとう、爺」
感謝もそこそこに、飛びつくように手を伸ばす。
先ほどの紅茶も悪くはなかった。いや、王族が口にするようなものなのだから、品質は最高級にも近しいものなのだろう。実際、フィリアは今まであの紅茶を不味いと感じたことは一度たりともない。
しかし、そんな舌の肥えたフィリアの本能が、目の前の紅茶を飲めといって聞かなかった。
今までに飲んだことのない、未知の紅茶。
爺の出したものだ。危険はないと判断して、その手を伸ばしーー、
「あつッ!」
「おっと、申し遅れました。その紅茶は葉の特性上、熱い状態でないと香りが薄いのです。冷めても味は変わりませんので、そのまま少し冷ましてからお召し上がりください」
むぅ、っと膨れっ面を浮かべたお子様は、紅茶に向かって息を吹きかける。少しでも早く飲むために必死だ。
そしてようやく飲めそうだと判断し、恐る恐る口を付けると、
「っ!」
それはそれは、何処ぞの朴念仁でさえも落としかねない、満足そうな笑みを浮かべた。
「これ! 美味しいですッ!」
「ほっほ。そう言っていただけると、私も作った甲斐がありましたな」
「何という紅茶なのですか?」
「名前はありません。これは私のオリジナルですから」
「オリジナル?」
「はい。複数の葉を組み合わせて作ったのです。……どうです?しつこくない甘さでしょう。貴女様好みの味になりましたかな?」
「ええ、とってもおいしいです」
まだ熱いため、少しずつ口に含んでいく。
と、フィリアはふと感じる視線に気がついた。
「どうしたのですか、お父様」
「いや、お前がこの国の王になったのだと実感してな」
「実感ですか? どうしてこんなタイミングで」
「お前の飲んでいるそれだ」
ウォルスの視線に釣られるように、フィリアはカップの中を覗き見る。
顔だ。僅かに赤みがかった紅茶の水面がゆらりと波立ち、そこに映る歪んだ顔。
そんな自分の目と目が合った。
「これですか?」
「そうだ。別にそう定めているというわけではないのだがな。爺はこの国の王となった者に、その者が好む味の飲み物を自ら作って渡しているのだ」
「爺が?」
確認するように爺へと視線を向ければ、にこりとした笑みが返ってきた。
「私に出来ることをしているだけです」
「では、お父様も」
「ええ。ウォルス様は見ての通り、いつも仏頂面ですからね。好みを探るのに苦労しました」
確かに、とフィリアは心の中で返答する。が、心の中では抑え切れず、堪えるような笑いが溢れ出た。
「おい」
「事実ですからな」
そんな二人の掛け合いで、フィリアは少し心が軽くなるのを感じた。
そして思う。王になったという事実が、自身が思っていたよりも、遥かに負担になっているのだと。
フィリアが王になったのには理由がある。……いや、なったのではないか。ならなければ、ならなかった。
というのも、アルミルス不在の今。この国の守りの要となっているのは豊穣の短剣による結界だ。
しかし、この豊穣の短剣を起動させるためには条件があった。それは使用者がこの国の王であり、かつその者が女性であるということ。でなければ神剣の力を引き出すことができない。
ウォルスではこの短剣の力を使うことはできない。この国を守ることはできないのだ。
故に、フィリアに王の座を譲るしか方法はなかった。
本来であれば、王が変わる際にはアルミルスへの報告、手続き、国民への事前通達。と、やらなければいけないことがたくさんあるのだが、国の存亡がかかった緊急事態のため、敵国に情報が流れるような、大々的な告知はできなかった。
特に、自国の守護神であるアルミルスには真っ先に報告しなくてはならないのだが、本人がいない以上、報告のしようがない。
連絡手段があるわけでもなし、結局は事後報告という形を取ると決めた。……ウォルスが。
国民への通達に関しては問題ない。おそらく今頃街中に広まっていることだろう。
もちろん、こうして通達を遅らせたのにも理由がある。
一つは、もう既にフィリアへの王権の譲渡が済んでいるということ。
豊穣の短剣による結界が発動した時点で、目的は達成された。もうこの情報を秘匿する意味はない。むしろ、デメリットの方が大きい。
王交代の情報を秘匿すれば、国の混乱を招きかねない。国が一つになって動くには、誰が命令を下しているのかはっきりする必要があった。
そしてもう一つは、豊穣の短剣の守り、結界が起動しているということ。
豊穣の短剣に関する結界の効果は、古い文献しか残っていないために詳しい事は書かれていない。が、嵐や魔物から街を守ったという記述から、街の害となるものを防ぐ効果があると考えられる。
だとすれば、進軍してくるウェステリア軍は敵であり、街の害と考えられる。
引いては、邪神ムトさえも。
あくまで、仮定の話だ。絶対とは言い切れない。
しかし、今後作戦を話し合う際、全てを盗聴されていたのでは勝ちようがない。
結界が張られた後である今なら、それを防ぐ可能性は無いこともない。少なくとも、結界が張られる前よりかは希望が持てるだろう。
敵側に情報を少しでも与えないためにも、結界が起動した後に行動し始めたというわけだ。
と、そんな経緯で女王となったフィリアの負担を推し量れる者などいまい。
フィリアの決断一つに国民の命が、国の存続がかかっている。それを実感して平然としていられるほど、フィリアの心は強くなかった。
(……私は、守れるのでしょうか)
心の中でそう、自身に問いかける。
家族を、この街の人達を、国民を、国を……本当に守れるだろうか、と。
しかし、いくら考えたところで答えは出ない。分かるはずがないのだ。未来のことなど、神でさえ知ることができないのだから。
でも……、それでもフィリアは答えを探してしまう。
何が正解か、何が正しいか。この選択は本当に合っているのか、間違っていないだろうか。そんなことばかり考えてしまう。
そして二の次にはこうだ。
(……お父様なら、どうするでしょうか)
己の中に答えが無い。となれば、誰かの答えを求めてしまう。
だが、それはその者の答えであってフィリア自身の答えではない。
ーー王は、他者の意見に流されてはいけない。
女王となる直前、現国王だったウォルスから聞いた言葉だ。
三人寄れば文殊の知恵とは言えど、ただ単に全ての答えを取り入れればいいというものではない。
取り入れた情報を吟味し、決断する。それこそが王に求められる最大の能力。
フィリアは賢王と呼ばれた一国の王から、そう聞かされた。
その時のウォルスの目を、フィリアは今も尚鮮明に覚えている。
今までフィリアを見ていた父としての目ではなく、何十万、何百万の民の頂天に立つ者の目。それらの命を背負う、覚悟の籠もった王の目だった。
その目を思い出し、フィリアは気合を入れるように頬を両手で叩く。それに擬音をつけるのであれば、「パンッ!」などではなく、「ぺチッ」と言った方が正しいか。
……閉じた瞼から溢れる滴は気のせいにしておいた方が本人のためだろう。
何やら視線を感じつつも、フィリアは目を閉じて無視を決め込む。
(私が揺れれば、皆も動揺してしまう)
指示を出す側が曖昧ではいけないのだ。
その点、ウォルスの決断は迅速かつ正確だった。短い間だが、ウォルスの仕事を見ていたフィリアはそれをよく知っている。
(この国は絶対に守ってみせる。そのためにもまずは……)
フィリアはゆっくりと瞼を開く。
そして僅かに赤く熱を持った頬を押さえたまま、
「……何か冷やすものをください」
王とはかけ離れた、覇気のない声でそう言った。