104話 お出まし
いつからだったかな。僕は“怖い”という感情が表に出てくるのが少なくなった。
いや……そういった感覚が鈍くなったというべきか。
昔は夜が怖かったりもしたけど、今はそんなことは全く感じない。
むしろ旅をしている最中の、人のいないあの静かな夜。僕だけが動いているようなあの感覚が結構好きな方だ。
僕の時間だけがゆっくりと過ぎていくような、そんな感覚が。
……と、話が逸れたね。
結局のところ、僕自身が様々な経験をしたことで、“怖い”という感情に慣れてしまったんだろう。
死にかけたことは何度もあったし、人の”裏”の部分も見てきた。
騙し合い、陥れ合い、傷つけ合って死んでいく。一方的な搾取だって珍しい話じゃない。
オルンの父親がそのいい例だね。
村を捨てて逃げるだけならまだしも、食料や価値のある物品まで盗んで、逃げ出したんだ。
今思い返してみても、あの時村の人達が抱いていた絶望は想像に難くない。
そしてそこから繋がる、“死”に対しての恐怖も……。
“怖い”っていう感情は大切だ。
“怖い”と思えるからこそ、人は危険なことから避けることができる。
命がかかっていると思えるから、全力を出すことができるんだ。
言うなれば、火事場の馬鹿力とかがそうなのかもしれないね。
命は大切だ。
モノとは違って、直したり、作り直したりすることができるものじゃないからね。
失ってしまえば、それっきり。
だから、僕は死にたいなんて微塵も思ってない。……思ってはいないのだけど、死に対する恐怖が薄れているようには感じている。
ミルに心臓を貫かれたときも、黒い人型に吹き飛ばされて重傷を負ったときも。
“死”が僕のすぐそばまで来ていたのに、“怖い”なんて全く思わなかった。
……思えなかったんだ。
そんな“怖い”っていう感情に……“死”に対する恐怖に慣れてしまった僕は、いざという時に本当に全力なんて出せるのかな?
笑ってない目をした魔女さんから目を逸らして、眼下で凍りつく大蛇に集中する。
にしても、随分と強力な魔術を使ったものだ。
霜のせいで体表が白い。触ったら、ドライアイスみたいにそのまま皮膚がくっついちゃいそうだ。
あの大蛇の耐久性がどれくらいなものなのかは知らないけど、前回の大亀のことを考えると、そう簡単には壊れそうにない。
となると、一気に切ってしまうのが一番手取り早いだろう。
なら、あのムトの創った神剣を切り壊した時の、あの技で切って……なんて考えていると、リチェルさんの含みのあるような声色で、
『自重してくださいね』
っていう言葉が聞こえてきた……ような気がした。
多分幻聴だとは思う。だって、いつもみたいに頭の中に響くようなはっきりとした声じゃなかったから。
でも、まさかとは思うけど、リチェルさんって僕の精神を乗っ取ろうとなんてしてないよね? ……幽霊みたいな存在なだけに。
突然そんな不安に駆られていると、魔女さんに肩を叩かれる。
「ユートくん、なるべく急いでくださいねぇ? あの子が凍えちゃうかもしれないので」
「凍えるって……まさかあの大蛇と一緒に」
「まさかですよぉ。ちゃんとあの子には影響がないようにはしました。でも、凍らせた後の寒さまでは考慮してませんから」
魔女さんが常識的で良かった。
冷凍しておいて、後から解凍でもするのかと思ったよ。
リチェルさんに関しては……うん、後から問い詰めよう。
そもそも、僕の体はマンションみたいに、誰かを住まわせるような場所じゃないんだから。
「分かった。それじゃ、さっさと切ってーー」
中から助け出してあげようか。
そう言おうとした瞬間、魔女さんの手によって大きく突き飛ばされた。
「ッグゥ!?」
魔素による身体強化もしていたんだろう。
突き飛ばされた僕の方はただでは済まず、腕の骨があっさりと折られた上に、海上の氷塊に激突した。
神力を節約するのに魔素で身体強化をしていたとはいえ、その上でこの怪我だ。何もしてなかったらと思うと、ぞっとする。
しかも、この腕の骨折は魔女さんに突き飛ばされて折れたものであって、氷塊にぶつかった時に折れたものじゃない。
……いったいどれだけ身体強化すればそんな力が出るのやら。
「ッ……イタタタ」
前髪に付いた、砕け散った氷の破片を払い除けながら、ゆっくりと立ち上がる。
氷塊に打ち付けた反対側の腕も少し痛むけど、問題はない。これくらいなら、折れた方と纏めてすぐに治せる。
それよりも、どうして突然魔女さんに攻撃されたのか、だ。
魔女さんからは妙な気配なんて感じなかった。
話をして嫌な感覚もしなかったから、ある程度は信頼していたんだけど……。
僕の感を信じるのであれば、魔女さんは敵じゃない。
だとしたらこの一瞬のうちに洗脳された?
いや、でもあれほどの魔術師がそう簡単に洗脳なんてされるとは思えない。それがたとえ、敵の背後にムトがいるのだとしてもね。
だとすればいったい何が……。
そう思って上を見上げて、
「ーーッ!」
言葉を失った。
僕の視線の先に魔女さんはいる。でも、さっきまでの余裕の笑みなんてどこにもなくて。
ただただ真剣な表情で大蛇の口の中を睨みつける、片腕を無くした魔女さんの姿がそこにあった。
訳が分からない。
大蛇から目を離した覚えはない。それに気を抜いていたつもりも。
むしろ、相手がムトと繋がりのある可能性が高いために、いつも以上に集中はしていた。
それでも、何が起きたのか、この目で捉えることすらできなかった。
分かっているのは、あの瞬間、魔女さんに突き飛ばされたということだけ。
でも現状から察するに、魔女さんは僕を庇って片腕を失ったんだろう。
あれだけ強力な身体強化をしていた魔女さんでさえ、あの怪我だ。もし僕が直撃していたら、即死もあり得る。
「……くそッ」
いや、自分を責めるのは後回しだ。
今は戦場、命のやり取りをしているんだ。
少なくとも、これ以上足を引っ張るような真似をだけはしない。
「【解】」
これを使うのは、初めて黒い人型と対峙した時以来かな。
普段眼へ纏う神力は微々たるものだけれど、その量を増やすことによって、本来の神眼としての力を発揮する。
眼にかなりの負担がかかるから滅多にしないんだけど、この際は仕方ない。
いつの間にか死んでるよりかはマシだ。
あとは身体強化も神力に変えて、と。
「……さて、と」
まずはさっきのがどういった攻撃なのかだけど……さっぱりだね。全く分からないよ。
第三者による視覚外からの攻撃? ……いや、それなら魔女さんも警戒するはず。
今魔女さんが集中しているのは、見ても分かる通りあの大蛇の口だ。
だとすれば、さっきの攻撃は大蛇の口にいる者から受けた攻撃なんだろう。
さっきまでの光線じゃない。あれは僕にだって感じ取れるものだったから。
なら、答えは一つに絞られる。
「……ついにお出ましか」
あれやこれやと推測していると、ゆっくりとそれは大蛇の口の中から姿を現した。
以前よりも、肌も羽も黒くなっているように見える。
瞳の色も薄雲っていて、まるで感情がないみたいだ。明かに正気じゃない。
でも、ダンジョンの中で戦ったあの時の精霊ーー邪神ムトと繋がりのある精霊に間違いない。
「魔女さん、腕大丈夫?」
魔女さんの隣に転移する。
もちろん、目の前の精霊から目を離すなんて馬鹿なことはしない。
この状態の神眼なら、見ることさえすれば大抵のことは見破れるはずだ。
「……ええ。そっちも大丈夫そうで何よりですぅ。それに、本気になってくれたみたいですし」
流石に魔女さんなら神力も感じ取れるか。
半人半神だってことも伝えたいけど、今はそれどころじゃない。
「魔女さん、この子が?」
「……そうですよ。あんなに白くて綺麗だった肌の色も、木漏れ日で輝いていた羽も違っていますが……フィリーに間違ないです」
どこか悲しそうに、魔女さんはそう言った。
「そう。……以前、魔女さんと出会う少し前に、この子に会ったんだ。ダンジョンの中で。その時は、まだこんなにも自我を失ってはいなかったんだけど」
「……なるほど。随分と会っていないと思えば、やはりあの邪神と関わっていたのですねぇ。お馬鹿さんです。大馬鹿さんです」
「ムトと関わっていたことは知ってたんだね」
「ええ。しかし、通りで呼びかけても返事がない訳ですねぇ。おそらく神との契約……洗脳といったところでしょうか」
洗脳……リバーが受けていたものと同じものかな。
「魔女さんはムトが何をしているのか知っているの?」
「多少は、ですけどねぇ。洗脳、新しい国創り、兵器の開発、……そして神を創り出す実験」
「神を創り出す?」
「擬似的なモノみたいですけどねぇ。ダンジョンに人を呼び込んでは、少しずつ実験材料にしていたみたいです」
実験材料って、ムトは人の命をなんだと思ってるんだ?
……いや、ベルの扱いを思い返せば、どう思ってるかなんてはっきりしてるか。
道具くらいに思っていても、おかしくはない。
「にしても、随分と詳しいね」
「魔術師には知識が重要ですからねぇ。その過程で知ったに過ぎません。しかし、私でもこの状態のこの子をどうにかする方法は知りません。邪神に契約を切らせる方法が、一番明瞭かつ単純な方法なのですが」
「この子を正気に戻すの? それなら僕でもできると思うけど」
「本当ですかぁ!?」
一切警戒を解く様子もなく、嬉しそうに返事を返してくる。
随分と器用な真似をするもんだ。
「うん。正確には僕の中にいる、もう一人の僕って言えばいいのかな。詳しい説明をしたいところではあるんだけど」
「構いません。治せるのであればそれで。では、今度こそ油断せずに手伝ってもらえますか?」
「もちろん。さっきはありがとう。流石にもう足を引っ張るような真似はしないよ」
「いい心がけですねぇ。では、お互い死なないように」
魔女さんが言い終えたその直後、その姿が一瞬で消えた。
これはただの移動じゃないね。間違いなく転移だ。
神の眼として発動しているのに、移動している姿が見えないはずがない。
そして、精霊のーーフィリーの頭上に出現したと思えば、
「さっきはよくもやってくれましたね。大馬鹿さん」
と、大きく振りかぶった拳を振り下ろした。
すると、フィリーはホームランを打ったかのように、まっすぐと凍った海へ飛んでいき……派手に氷を散らしながらめり込んでいった。
「はぁ……すっきりしましたぁ」
非常に満足そうな笑顔を見せる魔女さん。
……いや、ちょっと待ってよ。
「ちょっと、死んだら流石に治せないよ!?」
「大丈夫ですよぉ。あれくらいで死ぬようなら、もう何回も死んでますから」
「いやいや、相手は精霊だよ? ムトの力で強くなっているだろうけど、それでも限度があるって」
「あの子は強い子ですからぁ」
ダメだ。全然話が通じない。
こんなことになってしまった以上、僕にできるのは生きているのをただ祈ることだけ。
……死んでいても、祈ることしかできないけど。
「……」
そんな僕の祈りが通じたのか、モゾモゾと氷のかけらをかき分けて穴の中から這い出てくるフィリーの姿が見えた。
相変わらずなんの感情も表に出てはいないけど、どこか不満を言いたそうにしている……ような気がする。
「うーん、これでは無力化するのは時間がかかりそうですねぇ」
「僕が聞いた話では、もう一人の僕はかなりきつい一撃を与えて無力化したみたいだよ。でも、流石にそれを友達に与えるのは心苦しいよーー」
「なるほど。ならそれでいきましょう」
僕の目の前には、やる気に満ち溢れた様子でぐるぐると腕を回す悪魔が一人。
……僕は、心苦しいよねって言おうとしたんだけど。
「……」
さらに不満を言いたそうにしている……ような気がするフィリー。
いや、これは僕は悪くないと思う。
「……」
……僕は悪くないって。
だから、その『お前から殺す』みたいな目を向けるのを止めてくれないかな。