閑話 リバーの復讐⑥
「やぁ、楽しそうだね。ルーティリス」
「……お兄様」
ルーティリスがお兄様と呼ぶ。そんな者はこの世に一人しか居ない。
エスカトス国王子、名はジルクス。エスカトス国唯一の王子だ。
その整った容姿と、優しさの溢れる笑み。そして国内でも五本の指に入るほどの剣の達人であることから、男女の人気は高い。
加えて、その強さを誇示せず、力に溺れることなく弱者をも救うことから、民衆からも高い評価を得ている。力、性格。共に素晴らしいというのが世間一般の評価だ。
故に、現在最も国王の座に近いのはジルクスである、と誰もがそう言葉にする。
曰く、馬車の前に飛び出した浮浪児の子供を救った。
曰く、力で女性を脅す悪人を裁いた。
曰く、貴族と平民の間の争いを、その身分を使うことなく収めてみせた。
と、聖人君子のように語られるのが、ジルクスという男だった。
強さを重視しがちな竜人は、弱者を蔑ろにしがちだ。だが、ジルクスは弱者をも救う。
リバーから見ても、ジルクスという竜人はとても好感の持てる人物だった。
それ故にリバーは驚きを隠せなかった。
そんな多くの者から愛されるようなジルクスに対して、実の妹であるはずのルーティリスが、まるで手負いの獣のように強い敵意を放っていたのだから。
「……どうしてこちらに?」
「なに。勉強漬けで少し気分を晴らしに中庭へね。そういうキミは?」
「私は少し外へ出かけようと」
リバーは誰にも分からない程度に首を傾げながら思う。先程ルーティリスは中庭に行くと言っていなかったか? と。
しかし、そんなリバーの疑問も他所に、二人の会話続く。
「外へかい? つまり街に下りるということだよね。なら、私の護衛を――」
「いいえ、結構です。今回はちゃんと護衛を連れて行きますので」
「護衛を? ……ああ、そっちのキミのことかな? 父上から聞いたよ。確か専属近衛兵に選ばれた――」
「はい。リバー・ストレインと申します」
「ストレイン……、もしかして、キミがあのバルクスの養子かい?」
「はい。バルクスは私の養父にあたります」
そうリバーが答えると、より一層ジルクスは笑みを深め、
「ハハッ! そうか! キミがあの。……キミの義父にはとてもお世話になっているんだ。時折剣の修行をつけてもらってね」
「そうなのですか」
「うん。……そうか。それならルーティリスも安心だと思うけど」
言葉を止め、なにやら思案顔のジルクス。未だ顔を歪めるルーティリスなど気にもしていないようだ。
そして何か思いついたように手を打つと、その笑みをリバーに向けて言った。
「そうだ! 私と一戦手合わせをしてくれないかい?」
「王子殿下と、ですか?」
「ジルクスで構わないよ。あの人の養子なら大丈夫だとは思うんだけど、私は少し心配性でね。可愛い妹のことを考えると、その力を確かめておきたいんだ」
そう言って優しい目をルーティリスに向けるジルクス。
リバーはそれを聞き納得して頷いた。確かに、大切な人を預けるのであれば、相手の実力は知っておきたいもの。
仮にリバーがジルクスの立場であれば、同じような申し出をしただろう。
しかし、リバーが了承の意を伝えようとした瞬間、隣から悲鳴のような声が聞こえてきた。
「いけません! 絶対にダメです!!」
声の主はもちろん、リバーの主人である第二王女だ。
「リバー、命令です。その模擬戦は断りなさい!」
「しかし……」
「断りなさい!!」
この一月の間、ルーティリスはリバーに一度たりとも命令はしなかった。
あらゆることに対してリバーのことを尊重し、リバーが望むように、リバーを縛り付けないようにと。
初めてリバーがルーティリスの護衛に付いた時も、そのように説明されていた。
だが今は違う。
まるで別人かのように、ルーティリスはリバーに命令していた。
その勢いは氾濫した川の如く。否定など許さない、そう以前よりも青の深くなった双眼が物語っていた。
突然大声を出したルーティリスに驚いたためだろう。ジルクスが再度ルーティリスに目を向ける。
だがその途端、ジルクスの笑みが消えた。
「……ジルクス様?」
背後に控える護衛の者が声をかけるが、ジルクスは返事をしない。
眉を顰め、ブツブツと誰も聞き取れないような小さな声で何かを呟く。が、やがて不機嫌そうな声色でジルクスはルーティリスに問いかけた。
「ルーティリス、その目は?」
「……何ですか? 突然――」
「いいから答えろ! どうして目の色が変わった!!」
今までの笑みからは想像もつかないほど、怒りに満ちた様子のジルクスに、その場の誰もが言葉を出せなかった。……妹であるルーティリスでさえも。
そんな中でも、リバーはそっとルーティリスの前に出た。今にもつかみかからんばかりの勢いを放つジルクスから、ルーティリスを守るためだ。
流石、魔物狩りばかりしてきたリバーと言えよう。魔物のように血気迫るジルクスがこの空間を支配する中、動けたのはリバーだけだった。
そんな心強いリバーを前にして、少し余裕ができたのだろう。ルーティリスはその震える体を抑え、口を開いた。
「わ、分かりません。気がついたときにはこうなっていました」
「いつからだ?」
「……一月ほど、前です」
その言葉の真偽を探るように、鷹のように鋭い目を向けていたジルクスだったが、やがてその目を瞑る。
そして次にその目を開いた時には、表情共に人当たりの良いものへと戻っていた。
「ごめんね? もしかしたら何かの病気なんじゃないかと思って焦ってしまったよ」
「……」
「そんな顔しないで。大丈夫、問題ないはずだから。もし気になるようだったら、一度診てもらうといい」
と、言われるものの、リバーはその言葉が信じられなかった。
それはそうだろう。誰が病気かもしれないからと言って、実の妹に怒りと殺気を向ける筈がない。
リバーはその理由を問いただそうとするが、
「ジルクス様――」
「あ、ごめんね。大切な用事を思い出してしまってね。これで失礼するよ」
そう言ってあっさりと避けられてしまった。しかし、だからと言って、さらに追求するのは難しいだろう。
相手は次の王と名高い王子殿下。次会おうにも、いつ会えるか分かったものじゃない。
リバーには、ただ黙ってその後ろ姿を見送ることしかできなかった。
「ルーティリス様、着きましたよ」
ジルクスと別れた後。
ルーティリスの二人きりで話したいと言う要望を叶えるために、リバー達は王都近郊にある湖へと来ていた。
「ここなら誰も来ないでしょう。少し街から離れてしまいましたが」
「いいえ。少し距離を取りたかったので。……それよりも、良いところですね」
陽に照らされ、きらきらと反射した光が輝く湖面を見て、ルーティリスがポツリと呟いた。
「私は時々ここで寝るのですよ。風が心地良いので」
「そうですね。ここならぐっすりと寝られそうです」
そう言って目を細めるルーティリス。
そして沈黙。互いに何も喋らない。リバーは喋ろうとするのだが、どうにも言葉に出しづらかった。
先ほどのジルクスは、まさに豹変した。
最初の優しい笑みはどこに行ったのか、本当に同じ人物なのか疑うほどだった。
しかし、リバーはジルクスのことをよく知らない。否、知ってはいるのだが、それは誰もが知っているようなことだけだ。
何せ、今日初めて会ったのだから。それも十数分だけ。それだけで彼の全てが分かるほど、リバーの感覚は鋭くない。
故に、何かを知っていそうなルーティリスに聞きたかったのだが、先ほどのこともあり、どうにも聞きにくかった。
――あの時ルーティリスは震えていたのだから。
(……気まずい)
しかしそんな無言も、独り言のようなルーティリスの呟きで終わりを迎える。
「……お兄様は優しい。慈悲深く、弱い者に手を差し伸べる。まさに王になるべき存在。……そう私も思っていました」
「……」
「ですが、私は聞いてしまったのです。お兄様が普段どのように考えているのか、私たちをどのように思っているのか……」
「……」
「リバーさん、私のお姉様は知っていますよね?」
「ええ。第一王女殿下ですよね」
「はい。お姉様は、もう長い間王城のとある一室から出てきていません。心を病んでしまったそうです」
「心を、病んだ?」
そんな話、リバーは一度も聞いたことがなかった。もちろん民衆にも知られていない。つまり、その事実が隠されていると言うことだろう。
(……しかしなぜ?)
そうリバーが思っていると、ルーティリスの次の言葉に度肝を抜かれた。
「……その原因を作ったのが、お兄様です」
「ッ!?」
「お姉様には愛する人が居たのです。その人はとても強く、国内でも一、二を争うとまで言われていました。……でも」
「でも?」
「その人が次期国王になると噂された途端、その人は何者かによって殺され、その人の首がお姉様の部屋の机の上に置かれていたそうです」
「なっ!?」
「……それ以来、お姉様は人前に出なくなりました。私も会っていません」
「しかし……、どうしてそれが王子殿下の仕業だと?」
「私はその時まだ幼かったですから。遊んでもらおうと部屋に隠れていたのです。……その時に、お兄様がその計画を話しているのを聞きました」
ジルクスに会う前のリバーなら、流石にルーティリスの言葉と言えどすぐには信じられなかっただろう。
しかし、先ほどのジルクスならば、あり得ないとは言い切れなかった。
「そして、その時に知ってしまったのです。“王女は邪魔”“民は都合のいい道具”だと」
「……」
「それ以来、私はお兄様のことが信じられなくなりました。……お兄様は王になりたいそうです。そのために、その障害になるものは消す、と」
「……」
「今まで誰にも言えなかったことです。……貴方は――リバーさんは信じてくれますか?」
ジルクスの支持率は高い。もし仮に誰かに話そうものなら一笑してあしらわれ、おそらくルーティリスは殺されていただろう。……他でもない、実の兄によって。
それを今、リバーに話したということは、リバーを信じているということ。そして、リバーにその命を預けているということに他ならない。
縋るような目を向けるルーティリスに対し、リバーは地面に膝をつくと、
「信じます。そして、貴女を守ると誓いましょう。……今まで一人で良く頑張ったな」
「……ぅぐっ! うわぁあああああああん!!」
飛び込んできたルーティリスを抱きしめると、堰を切ったように泣き出した。
その小さな体に、国を傾けるほどの大きな重い重圧を背負って生きてきた少女。
リバーはその少女を抱きしめ、そっと頭を撫で続けた。
「……もう大丈夫です」
胸の中から聞こえてきた、そんなくぐもったでリバーは腕を退ける。
見れば、まぶたが少し腫れ、瞳の周りを赤くした少女の顔があった。
リバーがハンカチを取り出し、涙をそっと拭くと、ルーティリスは嬉しそうにはにかむ。
「……見ないでください」
「見ないと拭けませんから」
「むぅ……。いじわる」
時折見せる王女らしさは、何処かに旅に出ているらしい。そのギャップ故に、リバーがクスリと笑うと、抗議するようにルーティリスはリバーの胸元に顔を押し付ける。
「……そろそろ戻りましょう。お腹も空いたでしょうし」
「私は別にッ――」
と、図ったようにルーティリスのお腹が可愛らしく音を立てる。
「っくく!」
「わ、笑わないでください!!」
「前も同じようなやりとりをしましたね」
「ッ!? 忘れてください!!」
「できる限り善処しましょう」
「できる限りじゃありません! 絶対ですよ!!」
ぷくりと頬を膨らませるルーティリスを立たせ、リバーはゆっくりと街へ戻った。……互いに手を取って。
(……何か対策を考えないとな)
道すがらリバーは考える。
相手は一国の王子。それも偽の仮面をかぶって民を味方に付けている。となれば、この状況を覆すのも容易ではなかった。
しかし、それをルーティリスには気取られないよう、リバーは笑みを絶やさない。
(まずは王都に戻って、養父に相談を……)
養父の性格から、ジルクスのような者は好まないはず。話せば分かってもらえるだろう。……そう、リバーは考えた。
だが、その選択は甘かったと、すぐに思い知ることとなる。
「……これはどういうことだ?」
ところどころ破壊された建物。血を流し、倒れ臥す幾人かの人。そして――怒りをリバー達に向ける民衆。
――時はすでに、遅かった。