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しょうがないだろと言われている気がした。そんなの理不尽だ、俺は何もしていない―――そう言っても無駄だ。むしろさらに嫌われるもとになる。
これ以上状況を悪くしないようにするためには、何もせずじっと堪えているのが一番だろう。それ故、俺の人生は何の面白みもないものになってしまった。
もし、俺がこの家に生まれていなければ―――いつもそこまで考えて、罪悪感にさいなまれる。それじゃ母さんを全否定するようなものだ。ダメだ。違う。嫌だ。
どうして母さんはあんなことを―――。
「ただいま」
玄関を開けると、嫌な予感がした。妙に静かな気がしてならない。返事をされないことなんてしょっちゅうある。別に変わったことではない。
なら、この胸騒ぎは一体何だ? 俺は足音を立てずに、息を殺して居間へと向かった。
「――――――――――――ッ」
声が出なかった。目の前に広がった光景に、言葉を失った。
電気は消え、夕日だけが部屋を照らしている。閉めきられた窓のせいで、鼻につく強烈なにおいが充満していた。そのにおいと、そしてテーブルに置かれたメモに、俺は現実を突きつけられる。
――――――ごめんね、渚。もう疲れちゃった。あなただけは、幸せになってね。
「…………なんで」
鞄を落とし、その場に膝から崩れた。ぽろぽろと涙をこぼしながら、目の前に横たわる二人を眺めていた。苦しそうな、それでいて嬉しそうな表情。固く手を繋いでいて、傍には二本の包丁が落ちている。その刃は赤く濡れていた。
二人の胸も、赤く染まっていた。
「なんで、俺を置いていっちゃうんだよ………」
ぽつりと呟いた俺は泣き続けた。
父さんと母さんはその間も、腐臭と鉄のにおいを放ち続けていた。
*
俺は、このゲームをやってよかった。
それはイオリの件で身に染みて感じたが、俺は今日、それを再認識することとなった。
「どお? 似合うかな?」
くるりとその場で回転し、ふりふりのスカートを揺らすファイリア。自身の全身を眺め、俺を上目遣いに見た。俺は無言でぐっと親指を立てる。
文化祭が迫るキシリア学園では、生徒は皆その準備で毎日が忙しかった。俺達のクラスがやる「天使喫茶」では、店員は天使の恰好をするのだが、それだけではなく、女子はメイド、男子は執事の恰好をすることになったのだ。
そして今日は、出来上がった服の試着会である。
つまりはどういうことか―――言わずとも分かるだろう。
ファイリアは今、メイドの妖精に扮しているのだ。
「ナギサくん? 具合でも悪いの? 口なんか押さえて」
「い、いや。大丈夫」
大丈夫じゃない。ファイリアが可愛くて直視出来ない―――予想外の事態に、俺は動揺していた。
こんなに心揺らぐなんて。これじゃ話すことすらまともに出来ないじゃないか―――。
「ナギサくん?」
ひょっこりと、ファイリアが視界いっぱいに映った。エメラルド色の瞳からでも分かる程に頬を赤く染めた男は、どうすることも出来ずに硬直してしまった。ファイリアは小首を傾げる。
「どうしたの? 顔、真っ赤だよ?」
「あっ………えっ………」
「暑いの?」
「えっ………えーっと! そう! ちょ、ちょっと暑いかも! す、涼んでくる!」
「え?」
耐えきれなくなり、俺は教室を飛び出した。途中誰かに呼び止められた気もしたが、とても教室に残っていることは出来なかった。
「あんなに可愛いなんて反則だろうがー!」
羞恥など関係なく叫び、校舎内を走り続けた。外にも飛び出して走り続け、本当に暑くなった頃、むしろ俺の頭は冷え切っていた。体力切れで足を止める。
「…………何やってるんだろう」
完全に冷静になった脳で辺りを見回した。いつの間にか学園街まで来てしまっていたようだった。まだ日の出ている放課後だからか、生徒も多く通りは賑わっていた。
「ああああ……」
急に羞恥心に苛まれ、穴があったら入りたい。しかし穴などあるわけなく、メイド服に興奮した男は一人でとぼとぼ歩くしかなかった。
「おーい! おーい!」
ふと、誰かに呼ばれているような気がした。辺りを見回すと、クレープ屋の女性ラキアナが俺に向かって手招いていた。導かれるままに向かうと、ラキアナはずいっと窓から身を乗り出した。
「キミキミ! ファイリアと一緒にいた子だよね!」
あまりにも距離が近く、俺は若干後ろに引いて答えた。
「そ、そうですけど……」
「ねえねえ、ホントにあの子と付き合ってないの⁉」
付き合えたらどんなに良いか―――そう思いながら頷く。するとラキアナは、腕を組んでしかめ面をした。
「おっかしいなあ……絶対そうだと思ったのに……」
「あ、あはは……ラキアナさんは、ファイリアと仲がいいんですね」
「まあね。あの子、人当たりは良いけどあんまり友達といるわけじゃないのよ。だから、あなたを見てもしかしてって思ったんだけど……」
たしかに、ファイリアが特定の誰かといるところは見たことがない。ずっと俺についてきてくれてるし。
そう考えると、もしかして……?
―――そんなわけないだろと、自分を叱責した。
「キミさ、ファイリアのこと好き?」
「はっ⁉」
いつかと同じように声が裏返ってしまった。それで確信したのか、ラキアナが悪戯っぽく笑った。
「やっぱりな~! いつから⁉ 協力するよ⁉」
ぐいぐい迫ってくるラキアナ。その迫力に圧されさらに一歩後ずさると、がしっと腕を掴まれてしまった。レモンイエローの目がキラキラと輝いている。
「話さないと解放しないから!」
「そんな横暴な……!」
絶対にと言い切った彼女に、俺はため息を吐いて降参した。
「分かりました。話しますよ……」
「よろしい!」
パッと手が離される。このまま逃げてしまおうかと一瞬迷ったが、約束を破れない良心に負けて留まった。
「それで、いつから⁉」
「いつからなんて分からないけど、気付いたら気になってて……」
「うんうん! それで⁉」
「今日、文化祭で着るメイド服の試着会をやってて……」
「ああ、可愛すぎて卒倒しちゃったんだね」
「違います! 逃げ出しただけです!」
「へえ~。それでここにいるというわけね」
ラキアナは俺の手をぎゅっと握って言い放った。
「じゃあ文化祭の日に告白しなよ!」
「こっ告白⁉ そんなの無理です!」
「なんで? ファイリアはまだフリーなんでしょ? しなよ!」
「で、でも……俺なんかが……」
「はあ⁉ へたれ! それでも本当に男⁉」
突然罵倒を浴びせられ、驚きを隠せない。ラキアナは黄色くネイルされた爪を肌に食い込ませる程に、憎き敵の如く俺の手を握り締めた。
「チャレンジしないでどうするの⁉」
「いたたた! ちょっと! ラキアナさん! 痛いです!」
「根性無しの恋なんて成就しないわ!」
「でも、ファイリアが付き合ってくれるとは思えないし……」
「そんなの告ってみないと分からないじゃない! 告う前から諦めるやつなんて一生結婚出来ないのよ!」
「お前は告ってるのに相手が見つからないけどなー」
店の奥から男の声が飛んでくる。ラキアナはそれを無視し、目をギラギラと光らせた。
「絶対言いなさい! いいわね⁉ フラれたら慰めてあげるから!」
「そんな無理矢理……」
「い・い・わ・ね⁉」
迫力に負け、しぶしぶ頷くしかなかった。それを確認すると、ラキアナはパッと手を離した。「いい報告待ってるからね〜!」と、彼女に笑顔で見送られる。帰り道、どっと疲れがのしかかってきた。
なんだかとんでもないことになってしまった。告白なんかしても、こんな俺をファイリアが好くとは思えない。
でも―――オレンジ色に染まる夕空を仰いだ。
―――どうせゲームが終わったら、現実に戻るんだ。なら、チャレンジしてみてもいいかもな。
もしそれで付き合えることになったら―――その先を想像すると、思わず笑みがこぼれた。すれ違う生徒に異様な目で見られる。慌ててその口元を手で隠しながら、俺は教室へと向かった。
―――告ってみないと分からない。
このゲームの世界なら、俺の存在意義があるこの世界なら、可能性はあるかもしれない。
「チャレンジ、してみようかな……」
教室に戻る。まだ試着が終わっていなかったために採寸係に怒られたのは、その直後であった。