第6話
見通しの良い校舎裏。
裏道を挟んで学舎の対岸は山になっており、僕の目の前には吹き抜けた一本道だけがまっすぐ伸びていた。
それはつまりその通りの意味で、裏道にあるものと言えば雑草と細い木くらいである。
やはり音沙はいなかった。
帰ってしまったのか、それともそもそも来てすらいなかったのか。
音沙はある種の有名人だから僕は彼女を知るが、その逆の関係に整合性はない。
見ず知らずの男子と人気のないところで会うのは、例え経験則的に慣れていたとしても、やはりそれなりに緊張するものだ。
ましてやそんな信頼関係皆無の人間からひどく待たされては、例えこの場に来てくれていたとしても、誰もいない今の校舎裏に結果としての及第点すら覚える。
「アホらし、帰ろ」
僕はくるりと踵を返した。
そして、目撃する。
まさに踵を返した背後の景色、少し離れた木の影に溶け込んで、彼女は在った。
隠れている、つもりはないのだろう。
どちらかというと、離れている、そんな感じだった。
憂いと取るか胡乱げと取るか、僕が思い当たる指折りの学内有名生徒、音沙乙女は不安を満面に貼り付けたままただじっとこちらを見ている。
互いに視線を交えながら硬直、拮抗状態が続く。
僕はいったい、これからどうすれば良いのだろう。
源部長からはここから先のことを何も聞かされていない、ただただままよと言わざるを得ない状況。
この場に音沙がいて良かったと思う反面、彼女がこの場にいたときのことを微塵も考えていなかった僕は、とりあえず頬を差し出す準備だけ整えた。
「音沙……」
そして僕が意を決し、彼女に歩み寄ろうとした刹那である。
真横から炸裂音が響き、僕は反射的にそちらを見遣った。
そこには砕け散った植木鉢。
陶器の破片が四散し、植えられていたであろう土と花が地に伏して沈黙していた。
背筋の凍る感覚。
なぜならその場に、校舎裏の一本道に、植木鉢なんてものは存在していなかったからである。
学舎と山に挟まれ日当たりに恵まれない校舎裏の道、消去法で考えれば唯一その生命線を保てる場所に鉢は在り、そしてそこから落ちてきた。
そう、降ってきたのだ。
野球ボールも、光線銃も、隕石も降ってはこなかった。
しかし、間違いなくその植木鉢は僕の真横に落下してきた。
立ち入り禁止となっている屋上からなのか、辛うじて日当たりのある三階校舎の窓縁からなのか、その両者にそもそも鉢なんてものがあるのか、いずれもわからない。
というか、学舎にある窓や扉は玄関以外全てよそじ先生によって施錠されている、誰かが狙って投げ付けるにしても窓どころか教室にすら進入することができない状況だ。
これをパンドラの呪いと決めるにはまだ早計過ぎるかもしれないが、しかし僕の語彙と想像力では、これをパンドラの呪いと言わずして他に言葉が思い至らなかった。
唯一の事実として、僕がたった今死に掛けたという現実だけが脳裏に貼り付き、横たわる花と静かに重なった。
脚が震える、冷や汗が止まらない。
そんな僕の様子を、音沙はずっと変わらない表情で見つめ続けていた。
こんな現象が日常茶飯事だとでも言うように感慨はなく、驚嘆もせず、憂いと胡乱の合間を往来するような面持ちでその場から微動だにしない。
それなりの破砕音だったにも関わらず誰も来ないのは、グラウンドで励む部活生達の声にかき消されたからだろう。
ただでさえどうしたら良いのかわからない状況下で起きた事故、僕の許容応力は限界値に達していた。
「はーい、おっつかっれさーん!」
突然の大声は、学舎と山に挟まれた校舎裏の道にひどく反響する。
神経が逆立っていた僕は身体が大きく跳ねるのを感じ、背後に在ったその声の主を確認してしばらく。
ようやく僕の意識は脱力した。
「源部長……」
鉢の落下がパンドラの呪いだと言うのなら、この人が来たからと言って安心できる事案ではないのだろうけれど。
超異次元的な思考力を持つのに、オペラ歌手みたいに両腕を拡げて笑顔で大空を仰ぐ間抜けっぽい仕草を取っている源部長を見たら、色んな意味で力が抜けてしまった。
さらにその後ろには、源部長と背中合わせになって仁王立ちしている小動物、更紗先輩の姿も在る。
「ありがとうカガりん、怖かったろう頭ナデナデしてあげよう」
「結構です」
「さーちゃんからの方が良かったかな?」
「うっ、結構です」
撫でられるより撫でたい派なのだが、更紗先輩が一生懸命背伸びして僕の頭を撫でてくれるところをほんのちょっとだけ想像してしまった。
想像して、鉄仮面以上の無表情で撫でられるシュールさを鑑みて、やはり遠慮しておいた。
「カガりんの大活躍により、パンドラちゃんの正体視たり! って感じだな」
「パンドラの正体? じゃあ、やっぱり不幸現象を起こしてしまうのは本物の呪いだったって言うんですか?」
「順序を間違えちゃあいけないよ、カガりん。数々の不幸現象が起きるから呪いを認識するんじゃない、呪いが掛かっているから数々の不幸現象が起こるんだ」
「それって結局、どちらにしても音沙に呪いが掛かってると言っているようなものじゃないですか」
「便宜的にはね。でも順序は重要だし、呪いなんて全て作為的にしか起こらないんだぜ!」
源部長は再びオペラ歌手よろしく大仰な仕草を取り、歌うような口調で晴れやかに言い放った。
そりゃ、天然物の呪いってのは聞いたこともないけれど。
誰かが誰かに掛けるから呪い、私怨や怨恨が原因であるなら人間同士の問題だ。
そういう意味で考えれば、源部長の言う「呪い」とは何かの比喩なのだろうか。
呪いというより何か、呪いのような何か、呪いに見せ掛けた何か。
「全てはイドラの仕業だね!」
「イドラ?」
怪獣の一種だろうか。
「怪獣じゃないよ?」
「えっ」
「黒くて暗くてもやもやしていて、まるで毒針のように相手を蝕み、侵食し、絶命させる」
「化け物じゃないですか」
「化け物じゃないよ?」
「えっ」
「実際にそんな得たいの知れないものが、カガりんには見えるっていうのかい?」
「い、いえ」
じゃあ何の前振りだよ。
「イドラとはつまり、簡単に言えば人間が引き起こす偏見や勘違いのことさ」
「勘違い……」
「もちろん大昔には呪殺なんていう手法があったくらい、呪詛やらまじないやら、そういう実際の霊能に秀でた人達がいたのだろうさ。今回僕が言いたいのはまた別の話。複合的に絡まりあったイドラが、パンドラの呪いを仕立て上げているんだ」
源部長の意図しているところが、全く良くわからない。
つまり呪いは勘違いだと言いたいのだろうか、しかし実際に僕はパンドラの呪いをこの目で見てしまった。
これでは勘違いもなにもない。
源部長はそんな僕の疑問符を知ってか知らずか、視線を音沙の方へ緩やかに傾けた。
「さあ、パンドラちゃん。君を助けに来たぜ」
部室で僕が源部長の問いに対し返した言葉の一部、漫画の主人公みたいに困っている女の子がいたら助けに行くぜ、と。
不幸現象を巻き起こし、パンドラとあだ名までつけられてしまった女子高生、音沙乙女。
彼女にしてみれば、源部長のその言葉はヒーローにも匹敵する救いの言葉だ。
しかし、なんだろう。
笑顔な源部長から放たれている、この威圧感は。
しかし、なぜだろう。
今にも泣き出しそうな音沙の、あの畏怖の表情は。
「…………」
しばらく無言のまま、僕の時と同様に膠着していたが、数間の後に音沙はその木の影からこちらへ身を移したのだった。
助けられるはずの少女と、助けるはずの少年。
僕にはその光景がまるで、額に拳銃を突き付けられ両手を上げて投降する少女と、それを楽しそうに愛でる絶対強者の相関にしか思えてならなかった。