第5話
「ところで先生、どこから湧いて来たんですか?」
「俺は泉の精霊かよ、普通にその教室にいたわ」
「一年五組の? 明日の新聞記事を楽しみにしていますね」
「誰がガキのもん盗るか、施錠だ施錠。この教室で最後だ。最近は物騒だからな」
「変質者も多いですしね」
「俺のことを言いたげな目だが、お前の方がよほど変質者だぞ」
「えっ」
「学舎に入るなり、逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ、ってひとりでぶつぶつと。なにお前アダムとでも戦ってんの?」
「えっ」
口に出していたらしい、分類は汎用人型兵器だろうか。
「まさか、女子生徒のリコーダー狙ってんじゃないだろうな?」
「そんな古典的なことはしませんよ!」
「それじゃあ何か、現文的なことをするってか」
「どういう意味です?」
「古典教員、男。現文教員、女」
「男子生徒のリコーダーも狙わねえよ!」
「そりゃあお前、いくらなんでも現文の先生に失礼だろ……」
「あっ、真顔で! 誘導尋問だ! 大人って汚い!」
でも確かに失礼な話である、僕は心の中でそっと現文の先生に謝罪した。
と、こんなことをしている場合ではなかった。
帰りのホームルームが終わってから随分と経っていた、人間が待ち惚けを呈するには十分な頃合いである。
「ちょっと急ぎの用事があるので、僕もう行きますね」
「まるで俺が引き留めていたような物言いは気に入らんが、学舎はもう完全退出だぞ」
「ああえっと、下駄箱に忘れ物したんですよ。取ったらすぐ出ます」
「それが急ぎの用事か?」
「完全退出時刻だから急いでいるんでしょうが」
「確かに、そりゃ悪かったな」
まさか、今から校舎裏で女子と待ち合わせしている、だなんてとても言えない。
何とか言い逃れを作り、僕は訝しがるよそじ先生の警戒を解した。
ともあれ女子のリコーダーを狙っていると誤解されたままでは、後味悪いにもほどがある。
両体裁を守る、我ながら素晴らしい口八丁だった。
「それじゃあ、疑った詫びに」
よそじ先生は金色の包み紙に包装された、高級そうな小さな何かを手渡してきた。
この芳醇な匂いで、それがいったい何なのか判断するには十二分に事足りた。
「チョコレート?」
「ひと粒数万円だぞ、感謝して食えよ」
「は!?」
ひと粒数万円という価格帯に、自分で高級チョコ買うとか女子かよとか、教師が学内に菓子を持ち込んじゃいけないだろうがとか、何だかそれらしい反応すらままならなかった。
高級過ぎる、高級が過ぎる。
ありがたい通り越して怖い。
「まあ、ゼロみっつ鯖読んだけど」
「嘘つきかよ!」
「若いって良いなあ、素直過ぎて眩しいわ」
「よそじ先生だって、まだ十分若いでしょう」
「汗水垂らすガキ共を見て、青春してんなあって感じてる時点でもう俺は枯れてんのよ」
妙に重い溜め息をつくよそじ先生。
お疲れの様ですね、と、僕は社交辞令だけ隙間に挟んだ。
「施錠も終わったことだし、それじゃあ俺は職員室に戻るわ」
よそじ先生は僕が進入してきた扉を指差した、職員室は校舎横に別棟として隣接しているので、この扉から戻るのだろう。
三階校舎かつ全学年5クラスまである校舎をひとりで施錠し回るのは、枯れたおじさんにとっては重労働だったろう。
まだ三十路だけど。
「教室は全部施錠したが、部活動しているやつらの関係で、玄関だけは完全下校時間まで開いてるからな」
そう言うと、よそじ先生は気怠そうに扉の把手に手を掛ける。
いたたまれなくなった僕は、その枯れた背中に最後のひと声を掛けた。
「先生」
「あ?」
「チョコレート、まだ残ってます?」
「ああ、箱売りのやつだからな。もうやらんぞ」
「ひと箱うん万円でも、ひと粒数十円でも、チョコはチョコ。よそじ先生だってまだまだ「青春」できますよ」
「何だかよくわからんが、そうかい」
「失礼します」
「おう、気を付けてな」
よそじ先生はひらひらと手を振ると、早々に退出して行った。
大丈夫、そのチョコレートを屋外に撒くだけ、ただそれだけで先生はまだまだ「青春」できる。
そこまで思考して、ふとよそじ先生の側に立ったとき、サイコパス発言を繰り返す男子生徒が眼前に立っていることに気付いた。
誰とは言わない。
しかし、さて。
学舎の廊下はグラウンド側、教室は校舎裏側に面しており、一年から三年まで三階層に区分されて教室がある。
その他実験室や調理室も点在するが、学生の移動が楽なように学舎を中央から両断する形で、各階に移動できる大きな中央階段があった。
ショートカットするためその中央階段裏手の非常口から校舎裏へ抜けようと思いここに来たけれど、とんだタイムロスの上、まさかもう施錠されているとは。
仕方なく僕は中央階段を横目に廊下を突っ切り、玄関口から再び屋外へと躍り出た。
相も変わらず「青春」を繰り返す若気の至りを右手に見遣りながら、僕は迂回する形で校舎裏を目指す。
源部長が超紳士的にこの流れを作ったとはいえ、そういえば僕は音沙に会ったらいったい何を話せば良いのだろう。
そもそもまだ彼女が校舎裏で待っていることすら、なかなかどうして怪しいものである。
僕が呼び出しを受けた女子ならとっくに帰ってしまうだろう、もしくは待ち通してビンタ。
そういう時分だった。
源部長の言い回しをするなら、現在僕ができる憶測はただひとつ。
僕がまだ不幸現象らしい不幸現象に見舞われていないことを熟慮すれば、音沙は既に校舎裏にはいない。
しかしそんな判断材料は公が許しても、僕は認めない。
ビンタされる方を期待しながら、いやそういう期待は全くしていないけれど、まだ彼女が待っていることを祈りながら僕は戦々恐々と校舎裏への角を曲がった。