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パンドライドラ  作者: 如月うなむ
第四章:劇場の終幕
51/54

“承”編

平日某日、放課後、学校の廊下。

僕はあるひとの所へ向かっていた。


あの日、落東先輩と喫茶店で話をして、僕の頭の中は一挙に整理された。

源部長の目的、音沙が置かれている状況、これから僕がすべきこと。

本当に怪奇的なひとだけれど、さすがは源部長に対抗できる存在、落東先輩はやはりすごい。


その後の彼女との話し合いの中で、理解し、定まったことがある。


音沙の“無能”を駆逐し、“才能”を開花させようとしている源部長。

そしてあの雨の日の部室で対話した彼の言葉の中に、「パンドラにイドラはよっつ絡まっている」と言っていた。

つまり“パンドラ”を駆逐する為、次に源部長が行動を起こすのは、残る第四のイドラに対してだろうということだ。


第四のイドラ、それは劇場のイドラ。

権力や影響力のある人物の発言による誤認や偏見。

天文学者が天動説を唱えれば、それを直接的に確認できない限り、一般大衆の認識がそうなるというあれだ。

これが現状どうパンドラに絡まっているのかはわからないけれど、源部長が動く以上は第三のイドラの時のように乗っ取り、もしくは利用してくることも考えられないことではない。


そこでまずは、“不幸を呼ぶ少女パンドラ”に絡みつく劇場のイドラとはいったい何なのかを知る、話はそこからだった。


……と、言っても「パンドラと劇場のイドラの関係、何か知ってる?」と質問して、答えられるひとは皆無だろう。

どころか、「何言ってんのお前、というかお前誰だっけ?」となる可能性の方が高い。

高いのだ。

異常なまでに高い。


悲しくないもん。


いや、まあ。

そうであるならば、僕が出来ることはさらにそれ以前の話。

音沙がいつから、どうして、何があって、“不幸を呼ぶ少女パンドラ”に成ったのかを、劇場のイドラに留意しつつ詳しく調べるところから始めるだけである。


灯台下暗しとはこのことで、そういえば僕は、パンドラの不幸現象については噂程度のものしか、そもそも知らなかったのだ。

友人と話しながら歩いていたら突然花瓶が足元に落下してきたとか、音沙の真横にいた学生が階段から滑り落ちて骨折したとか、様々な不幸現象に見舞われて告白希望の男子が音沙の所へたどり着くことすらできないとか。

まさか本人に真相を訊くわけにもいかなかったので触れていない話題だったけれど、あくまでこれらは噂話だが、しかし噂話として存在するものでもある。

火のない所に煙は立たないと言うけれど、実際その煙がどの程度の火の上に起きているのかを調査すれば、“不幸を呼ぶ少女パンドラ”誕生に関して何か見えてくるものもあるだろう。


落東先輩とその辺りまで話を煮詰めた結果、その結論として僕は声を掛ける。


「真っ先に僕が声を掛けるのは、貴方だ」

「うおっ、榎臥か、びっくりした」


よそじ先生。

確か彼は以前、まだパンドラと呼ばれる前の音沙から、「高校生活という新しい場に立って、しかも主席入学とあればプレッシャーもそれなりだったろう。小さなお悩み相談に乗っていただけだ」と、生活指導担当教員として音沙と関わりを持っている話をしてくれた。

つまり“不幸を呼ぶ少女パンドラ”になる前の音沙を知っている。


よそじ先生はその時「高校生活という新しい場に立って、しかも主席入学とあればプレッシャーもそれなりだったろう」と言っていたけれど、それはそれとして本当のことだろうけれど、今思えば本義は恐らく別だ。

そういった心の問題である話なら生活指導の先生ではなく、心理カウンセリングの先生を選択するだろう。

生活指導の先生へ話を通したということは、心理的な問題だけではなくなっている状況に音沙が置かれていた、つまり音沙が不幸現象に遭い始めたことを悩んで彼に相談していた、そう考えるのが妥当だ。

確かにそんな音沙のプライバシーに関わるような話、よそじ先生は、僕なんかには出来ないよな。


しかし、だとするならば、この調査において彼は主要中の主要人物だろう。

まあ、というか、そもそも僕、よそじ先生以外に宛がないし。


「ホームルームが終わったらさっさと行っちゃうから、追い付くのが大変でした」

「おお、何か用事があったか。すまんな、この後色々と立て込んでいるもんだから」

「お急ぎのところすみません、少しだけお話を伺っても良いですか?」

「ああ、なんだ?」

「音沙乙女が起こしたと言われていた、不幸現象について」


よそじ先生はしばらく視線のみをこちらへ向けていたが、やがて窓縁に腰を据えて、ため息をひとつ。


「そういうデリケートな話はペラペラ語れるもんじゃない……、と、言いたいところだが。実績があるからな、音沙がパンドラと呼ばれなくなったのは自由研究部のお陰だ。良いだろう。ただし、絶対に口外無用だ」

「はい」

「……音沙の不幸現象騒動が始まったのは、入学してから少し経った後の話、お前ら一年生が学校に慣れ始めた頃のことだ。音沙が横切ったとき触れてない花瓶が落下して割れたり、音沙を追い抜いた学生が階段から滑り落ちて軽い怪我を負ったり。本当にくだらない、ほぼ不幸現象とは言えないようなところから始まった」

「噂話になっているものはもっとハードな内容でした、脚色されていますね」

「だが中でも俺が一番記憶にあるのは、音沙に告白しようとした男子の近くに植木鉢が落ちてきた話だ」


僕は一瞬どきりとした。

それは僕も体験済みだったからだ。


「確かそいつは二年 C 組のやつだった。噂されていた不幸現象騒動も相まって、その辺りから音沙は孤立し始めたんだ。パンドラと呼ばれ始めたのもその辺りの事だったな」

「単刀直入に訊きます、音沙がパンドラと呼ばれ始めた原因をご存じですか?」

「単刀直入に返そう、 SNS だ」

「 SNS ?」

「不幸現象騒動が次々とひとり歩きを始め、音沙乙女に関わると不幸が訪れると言われるようになった。しかし SNS 上の呟きの中で、本名を出せば色々と問題になることもあるからだろう。誰からだか知らんが、“音沙乙女”という本名の代わりに“パンドラ”という固有名称が使われるようになった。わかるやつにはわかる、代名詞的なやり方だ」

「なるほど……」


第四のイドラ、劇場のイドラ。

権力者や影響力のある人物の発言による誤認や偏見。


しかし今のご時世を考えると、権力や影響力を持つものが人物だけとは限らない。

SNS での呟き、という意味では、源部長がエルピスを使って第三のイドラを乗っ取ったように、若者に対する影響力が申し分ないからだ。

つまり SNS 自体が“不幸を呼ぶ少女パンドラ”誕生の原点であり、劇場のイドラの根幹である可能性も否定できない。


そうであるならば、よそじ先生が話してくれた時系列的に考えても、音沙に告白しようとして植木鉢落下を体験した男子生徒がいの一番に怪しい。

最初の“パンドラ”使用者として、話を伺ってみた方が良さそうだ。


「さて、そろそろ俺は行かなきゃならん」

「ああ、お引止めしてすみませんでした」

「生活指導担当だからってこう、学舎の施錠を毎日やらされるのもたまったもんじゃねえな」

「そういえばそうでしたね」

「職員室に鍵を取りに行ったら、教室は順次施錠していくからな。お前も忘れもんないように気を付けてくれよ、また空けに行かなきゃならん」

「はい、お勤めご苦労さんです」

「それじゃあな」


よそじ先生は至極気怠そうに、職員棟の方へ向かっていった。

しかし色々な話を聞けて良かった、重要な証言も得られたし。


僕はそのまま、近くにある階段を駆け登り、二年 C 組を目指す。

よそじ先生と話をしていたら、そこそこ時間が過ぎてしまった。

教室の施錠が始まる放課後、件の男子生徒も既に下校している可能性も否めない。


一段飛ばしで駆る階段の、中二階踊り場のさらに上。

普段だったら確実に足を踏み入れることのない場所、二年生教室階層。

下校を始めている先輩群を縫うようにして、僕は当該階層 C 組を目指した。


二年 C 組。


その御前に立って今、異様な量の冷汗が出てきた。

それはきっと駆け足でここへ来た動悸だけのせいでないだろう。

一年生がここにいること自体既に空気を乱しているというのに、この教室の誰ともわからない先輩を訊ね、単身乗り込まなければならないのだ。


そして、どうする、何と訊ねるんだ僕は。


まさか「 SNS でパンドラって呟きました?」とか?

訊けるかアホ。


やばい、もっとラフに考えてた。

どうしよう、どうするよ僕。


そのときだった。


背後から肩を突かれ、素っ頓狂な声を上げてしばらく。

恐る恐る振り返ると、そこには丸眼鏡を掛けた小動物のような先輩が立っていた。


「さ、更紗先輩……」


いつも通りの無表情だけれど、僕を見て小さく小首を傾げる。

そりゃあそうだろう、二年生の教室にわざわざ僕が来るだなんて、普段なら天変地異が起こるより稀な話だ。


目で「何か御用?」と訊ねられているような気がしないでもないが、しかしこの先輩に関わるのは、今は危険だった。

源部長の従兄妹にして彼の従順な手駒、素知らぬ振りをして、既に何か吹聴されている可能性だってある。


とはいえ、二年生で僕が頼れる人間もまた、更紗先輩のみだった。

訊ねるだけ、どの先輩が件の男子生徒なのか、訊ねるだけ。


「えーっと、よそじ先生から聴いた話なんですけれども。二年 C 組の男子生徒で、告白をー……、した方がいらっしゃるとか……?」


更紗先輩はしばらく考えている様子だったが、やがて自前の端末を取り出す。


“いつの話?”

「んー、こ、告白中に、植木鉢が落ちて、きた、と、か?」

“ああ、音沙さんの件か”

「うぐ……」


ばれた、行動が盛大にばれた。


“大丈夫。私は今回、何も指示を受けていない”

「ごめんなさい更紗先輩、ちょっと今はその言葉を信用できないんです」

“ケータイの送受信履歴を全て見せても良い”

「マジですか」

“脱いでも良い”

「マジですか!?」

“変態”

「さーせん」


だってさあ、僕もひとりの男子高校生だしさあ。


いやいや、今はそんな場合じゃなかった。

危うく更紗先輩のペースに乗せられるところだった。


源部長はパンドラの秘密を知った上で、既に行動している。

これは時間との勝負でもあるのだ。


「すみません、今は急いでいるので。音沙に告白をしようとして、近くに植木鉢が落ちて来たという体験をした先輩を教えて下さい」

“良いよ”

「隠しても無駄ですよこのまま教室に飛び込ん、え?」

“それはそれで見てみたいけれど”

「教えてくれるんですか?」

“だから、言っているでしょう。私は今回、何の指示も受けていない。第四のイドラに関して、私はノータッチ”

「な、なぜです?」

“最波くんは最波くんで、色々と考えているんだよ。音沙さんをパンドラという存在から切り離した時点で、私のお役は御免。続きは最波くんの嗜好的部分だから、彼はそういうものに私や部員を巻き込んだりしない。邪魔をすればまた、話は別かもしれないけれど”

「そういうもんですか……」

“私は最波くんのこと、根底から嫌いだけど、そういう部分は尊敬できる”

「えっ、更紗先輩は源部長のこと嫌いなんですか!?」

“最波くんは自分の目的の為なら、善悪の是非を選ばない。真っ黒でドロドロ”

「真っ黒、どろどろ?」

“こちらの話”

「はあ……」

“ああ、榎臥くん。今すぐ一歩後ろに下がった方が良いかも”

「はあ……?」


僕は更紗先輩に言われるがままに、一歩だけ後退した。


刹那、僕の目の前を高速で何かが横切った。

それは真横の壁に激突し、足元を跳ね、天井に跳弾し、やがて静かに廊下を転がる。


「は、はは……」


野球ボールだった。


廊下の窓が開いていたため、グラウンドからそこへ飛び込んできたらしい。

ちょっとしたどよめきが起こったものの、幸い怪我人はなく、別の生徒が声を荒げながらグラウンドへ返球している。


「何で、わかっ、たん、ですか?」

“見えた”

「うっそ!?」

“ 280km/h で空中を移動する生命体すら、私の目には止まって見える”

「スカイフィッシュを視認可能だと!?」

“見えたらいいのにね”

「希望的観測!」


まあ、鏡面反射とか、察知する手段は色々あるのかもしれない。

深いことは考えないでおこう。


大事なのは、更紗先輩が僕のことを助けてくれたということだ。

源部長に加担しているなら、今の時点で僕を失神させておいた方が手っ取り早い。

もしくは、僕が活動していても問題ないほど、甘く見られているのかもしれないけれど。


“音沙さんに告白をしたという意味では、二年生にも複数人いるから。私は誰とも関わりを持たないけれど、その教室の黒板前に突っ立ってるひとも当該生徒”

「その教室、おお、C組ですね」

“声を掛けてみたら?”

「はい、そうしてみます。ありがとうございます!」

“すごい、本当に行くんだね。いつもならあり得ない光景、明日はICBMが降るかな”

「槍どころじゃないんですね、僕のこの行動の稀有さは……」

“榎臥くん”

「はい?」

“大きな怪我には気を付けて”


更紗先輩はそう言い残し、踵を返して、去っていった。


どういうことだろう、良くわからないけれど。

でも確かに、さっき更紗先輩の指示で一歩下がらなければ、僕はこめかみに硬球をもらうところだった。

そういう意味で言っているのだろう、怪我には注意。


さて。

僕は二年 C 組の教室に向き直った。


緊張するものの、覗いてみるとそこには更紗先輩の話通り男子生徒がひとり在るのみで、なにやらその顔は全校集会や学校の集まりで壇上に見付けたことがあった。


生徒会副会長、彼はまだ教室に残っている。


やせ型の穏やかそうな男子生徒だが、教壇から教室を見回している目付きが鋭い。

生徒会副会長として、これから施錠される教室からの退室を他の学生に促しているのだろう。


「あの、は、初めまして、一年生の榎臥です」

「ああ、うん。何か?」

「自由研究部の活動で、先輩にちょっとお伺いしたいことが」

「自由研究部? ああ、源先輩のところか。活動報告があまり上がらないから心配していたんだ。そういうものはちゃんと提出した方が良い、部の存続の為にもね」

「き、肝に銘じておきます……」


なんで僕が怒られてるんだろう。

まあいい、今は堪えよう。


「それで、何かな?」

「先輩は以前、音沙と何か関わり合いがありました?」

「音沙くん?」

「はい」

「うーん」

「えーと……」

「どういう経緯があって、そんな話を訊いてくるのか知らないけど。それは不躾な事じゃないかな」

「突然なのに変な話をしてすみません、不躾な事も理解しております。でも僕にとって、これは重要な話なんです」

「ふむ」


副会長は顎に手を当てて、しばらく悩む様子だったが、彼はやがて視線のみこちらへ向ける。


「気恥ずかしい話だから、あまりしたくないのだけど」

「そこをなんとか」

「部で記事にして公表、とか?」

「しません。あくまでも調査の一環というか、口外無用を約束します」

「うーんまあ、じゃあ、わかった、話そう。と言っても、大した話じゃないけどね……」

「ありがとうございます」

「確かに僕は音沙くんへの告白を決意した、ベタにも校舎裏へ呼び出してね。そのとき僕は音沙くんに気持ちを伝えようとした、が、出来なかった」

「緊張、ですか?」

「いや、空から落ちてきたんだよ、植木鉢が」

「植木鉢、ですね」

「うん。僕のすぐ近くには落ちたけど、どこも怪我はしなかった。当時音沙くんの身辺で変な噂が流れていたから、告白のタイミングで植木鉢が落ちてくるだなんて、ちょっと縁起が悪く感じてね。日を改めた」


変な噂、不幸現象のことだろう。

しかし日を改めて告白リトライですか、漢だな。


「後日、僕は再び音沙くんに気持ちを伝えようとした」

「伝えようと、した……、ということは……」

「ああ、また落ちてきたんだ。今度はさすがに作為的なものを感じてね、僕は急いで校舎に入り、一階から屋上扉前まで見て回った。でも残念ながら全ての教室は施錠されていたし、屋上へ続く扉もそうだった。廊下の窓はグラウンドに面しているし、室内から校舎裏へ植木鉢を落とすなんてこと、誰にも出来なかったんだよ。これがうわさに聞く不幸現象ってやつかと、僕は思った」

「結局先輩は、音沙に気持ちを伝えなかったんですか?」

「そのときはもう、心臓の冷える思いがした、というのは音沙くんに失礼だろうな。今は音沙くんは幸福の女神とまで呼ばれているし、確かに彼女の手は、その、温かく豊かなものだったよ」


第二の方法を試したな、このひと。


「じゃあ、先輩はそのとき確かに植木鉢の落下を体験したんですね?」

「ああ。まあ当時、音沙くんに好意を寄せるひとはごまんといたし、そこで僕と同じような体験をした者もいたと聞く。だが振られた腹いせに、告白中に植木鉢が落下してきて頭部を負傷したと、法螺吹く輩もいたくらいだ。もしそれほどの事件があれば生徒会にも報告が上がるだろう、実に器が小さく、見え透いた者共だと糾弾してやった」

「副会長、いぶし銀ですね」

「告白中に植木鉢が落下してくる現象は確かに僕も体験したが、まあ、学生間で騒がれている音沙くんに関しての噂は、話に羽が生えたものばかりだな。生徒会に上がる話もあったが、ほとんど虚実だった」

「なるほど」


よそじ先生の証言通り、彼は音沙に告白する最中、確かに植木鉢の落下現象を体験していた。


けれど、今重要なのはそこでない。


重要なのは、生徒会に報告される不幸現象騒動のほとんどが、虚実だったということだ。

音沙は不幸現象なんて、最初から起こしてなどいなかった。

ではよそじ先生の言うように、たまたま音沙が近くにいたとき起こったトラブルが、誇大化されただけなのか。

もしくは、そういった話を受けて、ありもしない話を捏造する輩がいたということなのか。


じゃあ以前の音沙は、なぜ自らをパンドラと名乗った?

植木鉢の落下現象はどう説明する、僕も体験者のひとりだぞ?


謎が謎を呼びやがった。

頭がぐちゃぐちゃになる。


集中しろ、ひとまずそれは捨て置け榎臥倫。

問題なのはこのひとが“パンドラ”という名を、音沙に着せた人間がどうかだ。

例えSNSが匿名サイトだったとしても、身内ならどのアカウントが誰かくらいわかる。

生徒会副会長という役職は、学生の権力者という意味でも申し分ない。


僕は表面で平静を保ち、探るように開口した。


「ある SNS サイトから、音沙のことをパンドラと呼ぶひとが現れたという話はご存じですか?」

「そうだったのか。噂話の件と言い、蔑称の件と言い、悪質なことをする輩もいたものだ」

「ご存じなかったんですね」

「僕は SNS とかネットサーフィンのようなことをしないからな、どうしてもその手の情報に疎くてだめだ。音沙くんがパンドラと呼ばれていることも、友人間の話で知ったくらいだし」

「あまりケータイをいじらない方なんですね」

「ケータイというか、僕はポケベルしか持っていない」

「このご時世に!?」

「悪いか?」

「あ、いえ、すみません、いぶし銀で格好良いと思いますはい……」


副会長は自前のポケベルを見せてくれた。

うわあ、むしろ僕は本物を初めて見た。

化石かと思った、とは口が裂けても言えないけれど。

というか音沙に第二の方法を試したってことは、ポケベルにも呪いのメールは届いたということだ。

書式とか色々な問題があるだろうに、源部長の周到さには頭が下がる。


しかし、よそじ先生と副会長。

ふたりの会話は須らく噛み合ったようだった。


そしてよそじ先生からは、SNS上で音沙の本名を隠匿して発言する為、パンドラが生まれたと聞いていた。

副会長が SNS をやっていれば、第四のイドラとの関わりも一目瞭然だったのに。

まあそれじゃあこじ付けみたいだし、僕も SNS をやっていないので、ひとのことは言えないのだけれど。


いずれにしても、証言上彼はSNSをやっていないのでパンドラ発信源とは言えない、と仮定出来た。

口では何とでも言えるし、ケータイ以外にもSNSに触れることは出来る、あくまでも仮定の段階だけど。


「君が何を調査しているのか知らないが、パンドラについて訊きたいのなら心理カウンセラーの先生に訊ねると良い。どの学年の生徒も利用し易いよう、この階の階段脇にカウンセリング室が設置してある。この階にあるからだろうな、パンドラと呼ばれ出してから音沙くんが良く足を運んでいるのを見たよ、よほど辛かったのだろう」

「まだ開いていますか?」

「カウンセリング室は部室棟と同様、完全下校時間まで施錠されない。先生もいらっしゃるだろう」

「へえ、利用したことのない場所って、知らないもんですね。わかりました、ありがとうございます」


僕は副会長に頭を下げ、二年 C 組から退室した。


パンドラと呼ばれ出してから、音沙は心理カウンセラーの先生を良く訪ねていた。

確かよそじ先生は以前、音沙からお悩み相談を受け、「まあ、それも音沙がパンドラと呼ばれる前の話だがな。そうなってからは心理カウンセラーの先生にもご協力願った」と話していた。

副会長の証言からも、話はしっかり一致している。


しかし。

脚色された噂話、ありもしない不幸現象、植木鉢落下事件、第四のイドラ、パンドラ発生源、音沙の自覚。

知れば知るほど、全くもって謎ばかりだ。

しかしこれらは、繋がりが皆無というわけではないから厄介である。


新学期少し後から音沙の身辺で事故があり、それらの話が脚色され、後追いするようにありもしない不幸現象が量産された。

その炎はSNS上にも拡大し、そんなとき音沙へ思いを寄せる生徒に植木鉢落下現象が起こり、それを以ってSNSという影響力のあるものからパンドラという蔑称が発生。

最初は抵抗していた音沙も、根幹は音沙身辺で起きた事故が発端だった為に否定し切れず、“不幸を呼ぶ少女パンドラ”を受け入れざるを得なくなった。


……、とか?

完全に僕の憶測だし、わからないけれど。


兎にも角にも、僕は速足でカウンセリング室に向かった。


人の気配がかなり少なくなった校舎内、二年生廊下を、僕は疾走気味に歩く。

その甲斐あってか、二年 C 組からほどなくして、そこに到達した。

先輩の教室に単身乗り込むことを考えれば、カウンセリング室へ入る事など造作もない。


僕は軽くノックを挟み、中からの応答を確認して、戸を開く。


「こんにちは」


室内には唐草色のタートルネックセーターを着た女性が、優しい笑みを湛えながら座っていた。

さすがは心理カウンセリングの先生というか、底知れない包容力を感じる。


「どうぞ掛けて」

「ありがとうございます」

「お茶でも飲む?」

「いえ」

「あっ、お菓子もあるのよ」

「いえ、結構です」

「あら、甘いの苦手? もしかして苦味派だった?」

「あの、すみません、今日はちょっとお話を伺いに……」


何というか、すごくマイペースな先生だった。

しかし率先して「何かあったの?」と訊ねず、生徒の側から口を開くまで楽し気に応対する辺り、さすがプロなのだろう。


先生は「あら、相談事じゃなかったのね」と笑顔のまま応じ、結局こちらへコーヒーを差し出してくる。

僕は会釈をして受け取り、ひとくち含んで後、先生の方へ向き直った。


「パンドラについて、訊かせてください」

「それはまた単刀直入ね」

「そう訊ねても、きっと教えては下さらないのでしょうけれども」

「良くわかっているわね」

「守秘義務がありますもんね」

「本当に、良くわかっているのねぇ……」

「でも、だからこそ、パンドラについて先生から伺いたいんです。音沙に損害を与えるようなことは全て秘匿してもらって構いません、どんな些細な事でも良いので、教えて下さい」

「貴方は、音沙さんの彼氏さん?」

「え、その……」

「違うみたいね」

「早……、何でわかったんですか?」

「言葉のどもり具合、視線の揺らぎ、明らかな動揺。続いて腰掛ける貴方の身体は微量ながら後退した、精神的に守備態勢を取った証拠。ひとは嘘をつく前、ついている最中、その後、ついた嘘を悟られないよう守備的姿勢を取る。パンドラについての話を貴方は私にそれほど懇願するにも関わらず、信頼関係を築くべき初手で、私からの質問に対し即答を躊躇したどころか偽装しようとすら考えた。これは大きなペナルティひとつよ」


メンタリストかよこのひと。

高校生のド素人よろしく下手な駆け引きなんて、絶対に通用しそうにない。


「失礼しました、僕は音沙の彼氏ではありません。ここで彼氏だと言ったら、もしかしたらパンドラについてもう一歩深く話してもらえるかもと、愚行してしまいました。心から謝罪致します」

「素直なのはとても良いことね」

「僕は一年の榎臥倫です。音沙とは、友達です」

「友達?」

「はい、一緒に動物園にも行きました」

「あぁ、夏休みに動物園でクマに襲われたっていう、あの珍騒動の」

「ご存じなんですね」

「一応職員ですからね、生徒の動向は把握していますよ。ましてや入院までした本校生徒の話が、教師陣に届かないわけないでしょう?」

「確かに」

「でも、なるほど、確かに音沙さんとはお友達のようですね」

「僕は友達として、音沙の事をもっと深く理解してあげたいんです。その為には、音沙が置かれた“不幸を呼ぶ少女パンドラ”という状態について、僕は無知過ぎる」

「…………」


カウンセリングの先生は無言でこちらを見詰め、観察するように僕のことを見回している。


動悸が早くなるのを感じる。

悪いことをしていないのに、警察とすれ違うとどぎまぎしてしまうような、そんな心理だ。


だけれども、今の発言に嘘も偽りもない。


「うんうん。緊張及び警戒の気配は見られるものの、 NLP アイパターンの観点から見ても今の言動に作為的なものは感じません。わかりました、榎臥くん、貴方は本当に音沙さんのお友達なのでしょうね」

「っはー……」

「あら、どうしたの?」

「そんな風に視線の動きまで細かく観察されていたら、緊張も警戒もするでしょう普通……」

「うふふ、癖なもので。ごめんなさいね」


先生は麗かに微笑む。

いやはや、これは前途多難だ。


「お話出来ることは限られているけれど、何が訊きたいのかな?」

「音沙は確か、パンドラと呼ばれるようになってから、先生のもとを訪れるようになったんですよね?」

「そうね。音沙さんが私のところへ来たのは、彼女がパンドラと呼ばれるようになってすぐ。溜先生の紹介だったわ」

「溜先生?」

「学生の間では、よそじ先生って言われているんでしたっけ」

「ああ」


そういえばそうだった、よそじ先生で通していたので、本名の方を忘れていた。


しかしこれに関しては、よそじ先生、生徒会副会長、カウンセリングの先生の証言が一致した。

音沙はパンドラと呼ばれる前はよそじ先生のもとに、パンドラと呼ばれ出してからはカウンセリングの先生のもとにいた。

もちろん両先生は共同して音沙のことを見ていたのだろうけれど、時系列ははっきり繋がる。


「先生のもとに来てからの音沙は、どんな様子でしたか?」

「そうね、具体的な話に関してはノーコメントだけれど、精神状態で言えば最悪だったかしら。心理療法だけでは対応し切れなかったくらい。普通の子なら登校拒否状態になっていたでしょうね」

「普通の子、なら?」

「音沙さんは自分の心が苛まれている状態にありながら、それを圧し殺してでも学校に来るという固い意志があった。得てしてそれは、周囲から迫害を受けるが如く孤立していた高校一年生の精神状態において、普通とは言えないわ」

「そんなに話してしまって大丈夫なのですか?」

「平気よ、貴方はここで死ぬのだから」

「はっ!?」

「冗談ですよ、一度言ってみたかっただけ。貴方は音沙さんの友達で、音沙さんの為にここへ来たのでしょう。これでも私はプロだから話せないことは話さない、変な気を回さなくて大丈夫」

「失礼しました」

「まぁでも、私にもどうして音沙さんがあれほど頑なに学校へ来ていたのか、終ぞわからなかったけれど。溜先生の御力は大きかったでしょうね」

「よそじ先生の?」

「貴方に言うのも変な話だけれど、若い子達ってどうしても噂話を面白おかしく脚色して吹聴するじゃない。SNSサイトに上がってくる音沙さんへの根も葉もない話を、必死で削除申請して回っていたわ」

「なるほど」

「彼はもともと機械関係がてんでダメな、こてこての文系教師だったのよ。それでも音沙さんの為にSNSを始めて奮闘したし、学校では音沙さんに話し掛け、彼女の事を必死で支えてあげていた」


よそじ先生は、元々は機械関係に弱かったのか。

やれSNSだの、やれ現代っ子だのと自負するから、てっきり初めから得意なタイプなのだと思っていた。

頑張ったんだなあ。


「努力の甲斐も虚しく、結局音沙さんは周りから孤立してしまった。溜先生が一気に老け込んだのもわかるわ」

「ありもしない話を音沙の不幸現象として捏造され、タイミング悪く植木鉢落下事件。それによってパンドラ完成とは、本当に酷な話ですね……」

「……ん?」

「え?」

「それは違うわよ、時系列が違う」

「え!?」


時系列が、違う?


「音沙さんの身に起こった最初の事件が、植木鉢の落下」


植木鉢落下事件が、最初だと。


「音沙さん、入学当初から本当にモテモテでね。男女問わずひっきりなしに告白されていたわ。当時音沙さんは誰ともお付き合いするつもりがなかったようだし、その事にすごく困っていたようだった」

「ま、まさか、じゃあ、誰かのその告白中に植木鉢が落下して来たことが原因で……」

「これ以上はノーコメント」

「でも、いや、そんなの音沙に振られた連中の逆恨みに決まってる……!」

「ノーコメント」

「そいつらが、音沙に告白すると不幸現象が起こるって吹聴して、パンドラに仕立て上げたとしか思えない!」

「ノーコメント……、と、言いたいけれど。それは邪推よ。理には適っているけれど、振られた子達はどうやって校舎裏に植木鉢を落下させるのかしら。教室は全部施錠されていて、唯一空いているのはこのカウンセリング室と、一階の保健室だけ。どちらにも職員がいるし、そんなことは許されないわ」


だって。

いや、だって、待ってくださいよ先生。

そんなことを言ったら、僕が思い当たるのは、もう、ひとりしかいない。


放心状態の僕は、カウンセリング室の窓から外を眺めた。

校舎裏が見える。


校舎裏。


人、影……?


そこには人影が、ふたつあった。

ちょうど合流した頃合いのようで、軽く挨拶を交わしている。


どちらも、僕が見知った顔だった。


源部長。

源部長は挨拶を交わした後、二階窓のこちらを仰ぎ、静かに笑った。


「失礼します!!!」


僕はカウンセリングの先生の喫驚を無視して、校舎裏へ走った。


源部長と共にそこへ立っていた人影。

それは。


よそじ先生だった。

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