第3-6話
種族のイドラ、洞窟のイドラ、市場のイドラ、劇場のイドラ。
ひとつ目のイドラは、種族のイドラ。
人間の感覚、特に視覚による誤認から生じる。
これは“音沙が不幸を呼ぶのではなく、不幸の起こる場所に音沙がいる”という誤認から生じるという話を、あの日の車両事故現場で更紗先輩は語った。
そしてその日、更紗先輩はこうも言っていた。
"貴女が自身を不幸発生装置だと認識すればそうなる世界もあるし、不幸など知らぬ存ぜぬで通せばそうなる世界もある。思うことで実際そうなることは珍しくない、まずは不幸に囚われないことから始めるべき。それは第二のイドラにも通じる重要点"
ふたつ目のイドラは、洞窟のイドラ。
自分の経験に則した価値感による誤認や偏見から生じる。
つまりこれは、恐らくひとつ目とふたつ目のイドラに深い相互関係があり、端的に言えばこれらは音沙自身の問題なのだ。
ひとつ目のイドラによって自分が不幸を呼ぶと認識してしまった音沙は、その経験則によって自身を不幸の根源だと決め付けていている。
それがふたつ目のイドラ、種族のイドラに絡み合った、洞窟のイドラの正体だ。
本来ならこの状況に音沙が謝る必要なんてありはしない、それなのに音沙は謝った。
そう、音沙は謝った。
つまり、誤った、誤認したのだ。
音沙はこの状況すら自分のせいだと誤認している。
「音沙、お前は何も悪くない。それで言うなら、今日を指定日にした更紗先輩の方がよほど怪しいし、この動物園を選んだ源部長の方が輪をかけて怪しいもんだ」
僕がそう言い放った直後、何を思ったのか、クマは咆哮を上げてこちらに猛進してきた。
音沙が置いた飴玉など見向きもしない、僕はあらん限りの大声で「逃げろ!」と叫び、それに促された音沙は慌てて正面に向き直るが、しかしストンとその場に力なく彼女は膝を落としてしまった。
「かっ、榎臥さん……、腰が……!」
この状況の最中も最中、あまりの恐怖に、音沙は腰が抜けてしまったようだった。
床についた音沙の脚は小刻みに震え、目を見開いて涙を流している。
やばい、やばいやばいやばい。
こういうとき、源部長ならどうするだろう。
こういうとき、更紗先輩ならどうする。
こういうとき、ミイ先輩なら。
こういうとき、落東先輩なら。
違う。
いや違う、僕はその誰でもない。
後にも先にも、僕は榎臥倫だ。
誰かの真似をしようとしても、僕に彼らのような器用なことはできない。
僕は他の誰でもないけれど、しかし僕は男子だ。
男子として、恐怖で青褪めた女子を残して逃げるのは違う、間違っている。
格好つけているわけじゃない、ヒーローを気取っているわけじゃない。
僕は僕として、ことなかれ主義者として、その行為は主義に沿わないと思うのだ。
「ミイ先輩、襲われた時シリーズ第2弾最終章!」
「……それでも襲われる場合は運がなかったと思って、カガリんを差し出して逃げましョウ」
「音沙をよろしくお願いします」
僕は静かに、ふたりの前へ躍り出た。
脚が馬鹿みたいに震えている、歯もがちがちと阿保みたいに打ち鳴っている。
僕なんて、ふたりの壁代わりにもなれないだろう。
クマの拳一発で石ころみたいに吹き飛んで、棒切れみたいに折れるんだ。
それでも。
それでも僕は、足を踏み出した、前進した。
コンマ数秒でも、この行動が、ふたりの命に繋がりますように。
願わくば、僕の亡骸がクマの玩具になっているうちに、ふたりが逃げ果せますように。
いや、そこまでなぶられるのは、ちょっと嫌かな。
背後から音沙の叫ぶ声のようなものが聞こえるけれど、何を言っているのか、僕が認識できるところまでその情報は届かなかった。
目の前で起こっていることを処理するのに、きっと脳が手一杯なのだろう。
眼前まで猛進してきたクマは、僕の目の前でその巨体を持ち上げる。
視界いっぱいに拡がる浅黒い毛は、仁王立ちした猛獣の巨躯と、それが湛える迫力をありありと顕していた。
やべえ、でけえ、こええ。
月並みな感想しか出てこない。
けれど、僕の心情を具体的に表現できる言葉なんてその程度のものだった。
巨大な掌に携えられた爪を現し、僕を見据えたままのクマはその腕を中空へと振り上げる。
そして。
高速で打ち出された黒い破城槌は、あまりの恐怖でスローモーションのように誤認し始めた僕の視界を存分に使って横へ薙いだ。
強打の衝撃音と、続いて、壁に激突した振動。
それこそ地面と平行に、綺麗に、鮮やかに、真横へと吹き飛んだ。
「…………」
そう認識して数間。
視界がとても澄み渡っているのを確認し、やがて棒のように立ち尽くした自分が在ることに気付いて後、ようやく横方向に吹き飛んだのが僕ではなかったことを覚った。
クマが、沈んでいる。
腹部には猛烈に圧迫された痕跡、それこそ横薙ぎに蹴り飛ばされたかのような。
口からはだらしなく涎を垂らし、そのクマは昏倒しているようだった。
「ご苦労様でシタ」
「み、ミイ先輩……」
いつの間にかその視界の先には良く見知った女子の顔があり、にこやかに微笑みながら、音沙の放棄した飴玉を拾って包み紙から中身を出して食していた。
妙に清々しいというか、彼女に一日中ずっと貼り付いていた気怠そうな表情が取れ、心も体も解放されたような雰囲気である。
「これは、いったいどういう……」
「ご名答だったんだよ、カガりんの考エハ」
「ご名答?」
「もなみんがこの動物園を指定したこと、ササちんが今日を指定日にしたこと、そして私が一緒にいるコト。きっとあのふたりは全部計算のうち、というより、全部計算通りだったんでしョウ」
「えっ」
「もなみんはある条件を満たすと一定期間内の未来が閲覧できて、ササちんはオーラを見て人間や空間に近い将来起こる災害を検知できて、私はロボットだから強いノダ」
「はっ?」
「もなみんの指令だし何かあるとは思ってイタ。だからこそ気乗りしていなかったんだけど、まさかここまで大事になるトハ。まあ、これにて私の任務はほぼ完了かな、やーっと解放さレル」
「ほっ?」
目の前で起こった状況すら飲み込めないのに、さらに意味不明なことを言われて僕の脳みそは炸裂寸前だった。
声が断片的にしか出てこない。
「カガりん大丈夫カイ?」
「ダイジョばないです」
「ダイジョばないノカ」
「そりゃあそうでしょうよ。だって、なに、全部計算のうちですって?」
「だろウネ」
「それで、源部長が予知能力者で、更紗先輩が危険因子預言者で、ミイ先輩は機械兵器ですって?」
「ああ、それは冗談ダヨ」
「冗談!?」
冗談って、じゃあこの軽車両並みに重たいであろうクマが横方向に吹っ飛んでいった現象はどう説明するのだろう。
頃合い良くクマに興味を示した宇宙人が、キャトルミューティレーション失敗したとか?
振り返ると、音沙もその場に座ったまま、ただ呆けた表情をしている。
僕同様、たった今目の前で繰り広げられた事象が全く理解できていないようだった。
「パンドラちャン」
「は、はひ」
「カガりんの言う通り、君は何も悪くないのダヨ。クマが檻から脱走して、それと遭遇するのは不運の最たるものかもしれナイ。けどそれは君が不幸を呼んだのではなくて、不幸が起きた場所に君がいたダケ」
「…………」
「そして不幸なんてものは、こうやって強引に幸いへ転じさせることもでキル。しかし“思う”ことで本当にそうなってしまうことは、珍しい話ではナイ。病は気から、まずはそう思わないことから始めるベキ」
「…………」
「それでもまだ不幸を自分のせいだと苛んでいるのなら、それはパンドラちゃんが傲慢だというコト。偶発した不幸を自分のせいだと決めつけるのは横暴が過ぎる、君は何様のつもりダネ?」
ミイ先輩は、それこそ横暴な理論を展開させながらも、音沙の脳へと衝撃的な言葉を叩き込んでいく。
しかし、そんな言葉の群れの最重要点はただひとつ。
「私は……」
音沙乙女は。
「悪く、ない……」
その言葉が、広く、深く、音沙の意識に入り込んでいくような。
その言葉を、ひどく、痛く、音沙の意識に擦り込んでいくような。
ミイ先輩が紡ぐその言葉のお陰なのか、はたまた命が潰えていてもおかしくなかった危機的状況が去ったお陰なのか。
音沙は瞳に溜まった滴をぽろぽろと落とし、涙が頬を濡らして床を叩く。
ミイ先輩じゃないけれど。
音沙は今、どういう気持ちなのだろう。
ずっと自身を不幸の根源だと認め、それを否定することが出来ないでいた音沙。
よそじ先生やカウンセリングの先生、音沙のご両親はきっとそれを否定してくれただろうけれど、その否定を証明することは出来なかったはずだ。
普通出来ない、誰にだって出来やしない。
不幸という偶発的現象を音沙が押し付けられていること自体、既に破綻した状況なのだから。
しかしミイ先輩は、“音沙乙女は悪くない”ということを体現した。
クマに遭遇するという大難を、蹴り一つで無難へと書き換えたのだ。
要するに、不幸現象の否定。
それはミイ先輩がいなかったら成されなかったことであり、だからこそ、ミイ先輩が言うことで説得力が増す。
つまりクマと遭遇する不幸現象について、そもそもクマを瞬殺できる人員と今日一日中行動を共にしていた時点で、クマとの遭遇など不幸現象のうちに入らないのである。
音沙は今までの在り様が覆されて、苦しいのだろうか、辛いのだろうか。
それとも。
今までの自身への蟠りが解けて、嬉しいのだろうか、楽なのだろうか。
それはわからない。
わからないけれど。
音沙の中で、何か変わったような。
何かが瓦解し、何かに立ち還ったような。
そんな建設的な涙の様に、そんな前転的な表情の様に、音沙の涙する雰囲気をそんな風に僕は思った。
「さて、それじゃあ最後の仕事に取り掛かるとしましょウカ」
「最後の仕事?」
「ウン」
そう頷くのが早かったのか、それとも動くのが早かったのか、ミイ先輩は音とも光とも取れない速度で僕の視界から失せると音沙の隣へ移動していた。
そして戸でもノックするようにして音沙の後頭部を手の甲で打つと、その衝撃で意識を失って崩れ落ちる音沙をミイ先輩は抱える。
「え、最後の仕事って……」
「事後処理ダヨ」
「事後処理!?」
「パンドラちゃんは体験し、経験し、そして今起こった突飛な現状だけを忘れた。そこに残るのは筋肉記憶された今日の思い出と、自分の中でパラダイムシフトが起きたという朧げな感覚ダケ。意識改革なんてそれで十分なんダヨ。具体より抽象が重要だかラネ。私がクマを蹴り飛ばしている記憶なんて、そこにあるだけ思考の邪魔になるカラ」
「で、でも……」
「余計な記憶は、時に別の解釈を生むノサ。たられば理論を育んでしマウ。でも大丈夫、ここ数分の逆行性健忘が起こるよう完璧な脳震盪を与エタ。これで次に目を覚ます頃には自己認識が変わり、きっと“パンドラちゃん”は“音沙ちゃん”に成ってイル」
僕だって驚きだ。
ロボット設定を貫いていたミイ先輩が、まさか本当にロボットだったなんて。
しかしそうでなければ、いくらなんでもあのクマの巨体を蹴り飛ばすなんて芸当、ひとりの女子高生にでき得るはずがない。
格闘技有段者の男性だって、軽車両を蹴り飛ばすことなどできないだろう。
「それじゃあカガりん、また学校で会いましョウ」
「えっ、ちょっ、それってどういう……」
どうやら。
ミイ先輩の「事後処理」の対象は、僕も含まれていたようだった。
そういえば言っていたなあ、「これにて私の任務はほぼ完了」って。
つまり、まだ「完了」していなかったのである。
音沙を抱いているはずのミイ先輩の姿は唐突に消失し、脳天を揺さぶられる様な感覚があってすぐ、僕の意識が少しずつ闇へと歩みを進める。
なるほど、これが夢オチというやつか。
いや、記憶がなくなるのだから夢ですらない、半ば記憶喪失のようなものだ。
どちらかというと、記憶奪取だけれど。
わけのわからない感想が、段々……遠、く……、なって、い……




