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パンドライドラ  作者: 如月うなむ
第二章:経験則の狂気
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第3-4話

「音沙」


満を持して、僕は音沙の隣へ躍り出る。

柵を挟んで向こう側にいるゾウも優しい眼差しでこちらを見ている、僕のことを応援してくれているようだった。

口から飛び出そうになる心臓を抑え、あくまでも平静を装って、その上に平常を被って、にこやかに応じる音沙と視線を合わせる。


「今日は良い天気だな」

「そうですね」

「きっと、月が綺麗だ」

「そ、そうですね?」


しまった、聡明な音沙には話半分に意味合いが伝わってしまったかもしれないけれど、これは早計過ぎだ。

荒くて早いとか、またミイ先輩に言われる。


「いや、違くて、ゾウって月明かりくらいの光でも夜に出歩けるのかねえ?」

「あ、あぁ。ゾウさんは視力がとても弱いらしく、2色くらいしか判別できないそうですよ。その代わり嗅覚や聴覚に優れているので、行動だけなら出来ないことはないかと思いますが、基本ゾウさんは昼行性と言いますね」

「さ、さすが生き物好きだね」

「ゾウさんは特に好きなので。警戒心が強くて凶暴と言われていますけれど、それは臆病の裏返しで、本当はとてもさみしがり屋な心優しい動物なんですよ」


音沙は柔らかい表情でゾウを見つめている。

そんな横顔がまた可愛らしく、これが誰かを好きになるという気持ちなのかと、自分の心情を傍観してみた。


依然として荒っぽい心拍はそのままに、挙動不審を悟られて音沙に通報されない程度の距離を保ちながら、僕は呼吸を整える。


「音沙」

「はい」

「動物園、楽しい?」

「はい!」

「喜んでくれて良かった、誘った甲斐があったよ」

「本当にありがとうございました、誰かとこうして楽しい時間を過ごせるのはとても久しぶりで。私なんかと仲良くならなければならない榎臥さんのお気持ちもあるのに、こんなに楽しんでしまってすみません」

「私なんか、だなんて言うもんじゃないよ。確かに源部長の指示はあるけど、あんなものは切っ掛けに過ぎない。僕だって音沙と仲良くならなければならないから来ているわけじゃない、音沙と仲良くなりたいから来ているんだよ」

「榎臥さん……、お優しいのですね」

「本心だって」


音沙は気持ち分だけ頬を染めて、はにかみながら俯いた。


間違いない、これは確定だ。

ここしかない。

ここを逃せば、僕は一生このまま独身を貫いてしまうだろう。

言え、言うんだ榎臥倫、勇気を出せ。


「音沙」

「はい」

「すー……」

「すー?」

「好、き、に、なったことは、あるかい?」

「え、ええ、先程も言った通りゾウさんは特に好きですね」

「いや、誰か、の、ことを」


しどろもどろ。

うわあ、なにこのひと気持ち悪い。

って、僕が音沙なら、思うだろうなあ。


「あー……、そうですね、あります」

「そ、そうなんだ!」

「とても気遣いが出来て、優しい方で、私みたいな人間にも親身になってくれて」

「うんうん!」

「本当に、心から大好きな方でした」


大好きな方、でした。

過去形。

それは音沙の遠退いた目だけに映る、ここにはいない、僕ではない誰か。


うん。

そりゃあそうだ、良く考えなくとも。

僕達は繋がりを持ってまだほんの僅か、これといって好感昂ぶるようなことをしたわけでもない。

ましてや現在進行形で自分のことに手一杯な彼女が、このタイミングで誰かを好きになることなんて、あり得ないだろ普通。


今日ここに音沙がいることだって、僕が連絡したからではなく、あくまでも源部長の指示の一環なのだ。

パンドラから解放される代わりに研究材料になることを音沙は了承している、結果的に生き物好きが功を奏して動物園自体は堪能できているのだろうけれど、当然そこに在る人員が僕である必然性はない。


哀愁漂う音沙の表情と、表情筋の硬直した僕。


「あ、でも、今はクマさんやゾウさんが私に活力をくれます! とても楽しいですよ!」


しかも、気まで遣われた。

僕の意図を察したのか、それとも再び感傷に浸ってしまったことへの配慮なのか、それはわからないけれど。

とはいえ、女の子の古傷を抉っておいて、心遣いまで搾取するとか。

ゴミクズかよ、僕は。


あー、ダメだ。

これじゃ、だめだ。


決めた、もう決めた。

誰が何と言おうと、絶対に決めた。


今日僕は、必ず音沙と仲良くなる。

源部長の指示ではなく、僕の本意で、絶対に音沙と仲良くなってみせる。


異性として好きとか嫌いとか、そんなことは後付けな話で、まず僕は友達として音沙のことを元気付けてあげたい。

不幸を呼ぶ少女という異常な立場や、過去の恋愛事情はよくわからないけれど、音沙は今ひどく傷だらけな状態なのだ。

その傷を癒すことは僕に出来ないかもしれないけれど、その傷を隠すことくらいなら僕にも出来る。


僕といるときくらいは、少しでも笑顔でいられるように。

今はただ。

そうしてあげたいと、僕は心から思った。


「音沙、この先にはキリンが控えてんだ」

「えっ、本当ですか!」

「僕は嘘をつかない、キリンって可愛いんだ」

「私もそう思います。ちなみに榎臥さんは、キリンのどこを可愛いと御思いになりますか?」

「黄色いところ」

「黄色いところ、ですか」

「知ってるかい音沙、黄色い生き物って可愛いんだぜ」

「えっと?」

「赤い服着た黄色いクマも、リボン付けた黄色い猫型ロボットも可愛いだろ」

「確かに! モウドクフキヤガエルもヒョウモントカゲモドキも可愛いですもんね!」

「お、おおぅ」


それが何なのか、僕にはもうわからなかった。

名前からしてカエルの方は両生類っぽいけど、トカゲモドキって、じゃあお前は爬虫類なのかそれ以外なのか。

なんで、もっとこう、キツネとかヒヨコとか出てこないのだろう。

可愛らしい動物ばかりでなく、本当に、こよなく生き物を愛しているようだった。


「こうしてはいられません、お先にキリンさんと対面して参ります!」


音沙は再び駆るようにして、次の区画へと足を向けた。

ちょっと変な感じになってしまったけれど、とりあえず持ち直せたようで良かった。


「カガりん、ご苦労であッタ」


僕はきっと今、ものすごく冷淡な眼差しでミイ先輩を見遣っていることだろう。

いやしかしこのひとに非はないのだ。

考えなしに行動した僕が、往々にして悪い。


そもそもミイ先輩がひとの気持ちを論じたとき、相手の心持ちとその論理が一致した試しはない。

だからこそ好奇心旺盛というか、ミイ先輩は誰かと話したり、ひとの気持ちを訊ねたりするのが好きなのだろうけれど。

失念していたが、開口一番に音沙から嫌われることができたほどミイ先輩の心理洞察に関する実力は、マイナス方向に折り紙付きだった。


僕としても音沙の可愛らしさが意識に先行し過ぎて、なんだかその気になってしまったけれど、冷静になってみればやはり好きとかそういう感情とはまだ違う気がする。

今後そうなる可能性は多分にあり得るのだろうけれど、まだその域でない気がする。

何となく、だけど。


とはいえ。

うん、状況に流されて上手く乗せられた僕が一方的に悪い。

僕が、悪い、のだけれど!


「ミイ先輩!」

「ふァイ」


僕はミイ先輩の頬を小気味良く両側から抓った。

普段なら絶対にあり得ない僕の行動に、ミイ先輩はむしろ好奇の視線をこちらへ熱く注いできた。

心底意味不明なひとだった。


「音沙と、絶対に仲良くなって帰りますよ!」

「ふぁいフォ」

「ファイトじゃない、ミイ先輩もです!」

「ふぁふぁっファ」

「わかった、と。ご理解頂けたようで助かります」


僕は両手を離し、そこにできたミイ先輩の赤らんだ頬跡に少しだけ罪悪感を覚えた。

そんな頬をさすりながら、ミイ先輩はうっとりした表情を作る。


「カガりん、なかなか刺激的だっタヨ」

「それは抓られた頬の話ですか、それとも僕と音沙の会話ですか」

「両方、どっちも素敵だッタ」

「まったく……、ちゃんと音沙と仲良くなって下さいね。ひとりよりふたり友達が出来る方が、音沙としても絶対に嬉しいはずですから」

「ほう、その心理状態はどういう原理カナ?」

「そういうことは考えなくていいんです、とにかく仲良くなることだけを考えて下さい」

「ふむ、わかッタ。先行きがちょっと危うくなったら、第3弾と第4弾の準備を今度は私がしておきマス」

「襲われたときシリーズ!」


音沙と僕が軽く危険な状況に陥った原因を作った張本人は、全く悪怯れる様子もなく、あっけらかんとそう告げる。

本当に何を考えているのかわからない。

まあ、このひとに限って言えたことでもないけれど。


僕は次に向かった音沙を追うようにして、ようやく休憩を切り上げる。

やれやれ、本当に僕は一生独り身なのかもしれない。


指の端に残るミイ先輩の頬の感覚は、柔らかさの中に張りがあって、なるほど、しかしこれはこれで確かに心地良い触感だった。

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