第3-2話
後ろを振り返れば、決壊したダムのようにひとの奔流が未だ途切れることなく、入場門から押し寄せている。
ご多忙に漏れず、ひとの流れに沿って入場した僕達は、ついに動物園内へと進入したのだった。
門前では感じられなかった獣の臭いと、子ども達の感嘆する声。
そんな子ども達以上に目を輝かせる音沙の姿は、もはやキャラ振れを辞さない、全身を賭した試みのように思えた。
様子からして、本当に生き物が好きなんだなあと、そんな月並みな感想しか出てこない自分の語彙力に僕としては辟易するところだった。
今になってこう、知り合いである女の子の普段見ない私服姿を目の当たりにしたとき、マニュアル的でも「似合ってるね」の一言が僕はどうして出てこなかったものかと。
そりゃあキザっぽくて小っ恥ずかしいけれど、言わない方が状況にそぐわないというか、テンプレに倣い物事に荒波を立てない僕の主義を発揮どうこう以前に、悲しいほど交際経験値が足りていなかったと言わざるを得ない。
そんな僕の感慨も何処吹く風で、音沙は足早に園内の坂道を駆け、ひとつ目の動物と対面を果たしていた。
この動物園は奥地までなだらかな登り坂が続いており、ハイキング感覚で動物を観覧できるものの、インドア派には有難迷惑な仕様だった。
致し方なく僕はその背を目で追いながら、肩を落として僕のすぐ後ろを力なく歩むミイ先輩へと声を掛けた。
「ミイ先輩」
「アイ?」
「今日は よろしくお願いしますね」
「任せて、この命に代えてもカガりんとパンドラちゃんは私が守ってあゲル」
「ちょっとヒーローものっぽくてキュンキュンしちゃいますけど、そうじゃなくて、ミイ先輩も音沙と仲良くなる努力をしてくださいね」
「それは承諾し兼ネル」
「何しに来たんだあんたは」
「仲良くなるための努力、だなんて作為的なことはしナイ。私はありのままの私で、自然体で、パンドラちゃんと心を通わせてみセル」
「すごくド正論ですけども。自然体で臨んで、いの一番に警戒されてたのはどこのどなたでしたかね……」
「あれはちょっと、挨拶をミスったダケ」
「ご器用なこって」
「好奇心に負けちゃったダケ」
「そうなんですね」
「毒テングダケ」
「やばい殺される」
生命の危険を感じた僕は、音沙の方へと駆け寄った。
音沙は周囲の男性陣の視線を集めているものの、僕が近寄ることでその視線が霧散するのを感じる。
そこのお前は彼女持ちだろうがとか、そこの貴方は妻子連れだろうがとか、そういう投身もののツッコミを抜きにしても優越感。
音沙と僕の釣り合いが取れていなさ過ぎて、逆に悪目立ちしている感は否めないけれど。
あれれ、そう考えるとこの状況、逆に辛くも思える。
「榎臥さん見て下さい、イノシシさんですよ。大きくて立派ですね、おいくつなのでしょうか」
お前誰だ、と思わず口から出そうになった言葉を無理矢理喉の奥まで嚥下する。
それほどまでに、ミイ先輩と逆のベクトルではあるものの、音沙は音沙で学校にいるときとはまるで別人のようだった。
むしろこちらの音沙が本来の姿であり、学校にいるときの音沙の方が、元来別人なのかもしれないけれど。
少しは地を見せてくれるくらい僕達への警戒が解けた、とは思いづらい、ここ数日来の付き合いでそこまでの関係性を築けているとも思えない。
警戒を失念するほど、好きなものが目の前に立ち並んでいる人間の、これは純粋な反応なのだろう。
普段からこうしていれば良いのに、ってそういえば以前僕も眠田に言われたなあ。
目で見えている他人の顔は良く判るものだ。
結局のところ自分で確認できない普段の自分の顔は、自分以上に他人が理解しているものなのかもしれない。
鏡を前にすると人間はどうしたってキメてしまうのだから、そういう意味で言えば普段の僕の阿呆面は、僕が思っている以上に阿呆面なのだろう。
やかましいわ。
「猪突猛進っていうけれど、イノシシは視界の急激な変化に弱いらしいよ。もし猛進してきて襲われそうになったら、目の前で一気に黒めの傘を開けば、驚いて向こうから逃げていくらしい」
「へえ、榎臥さんは博識なのですね」
「この前テレビでやってたのを覚えていただけだよ」
夏の日差しのせいか音沙の晴れやかな笑顔のせいか、僕は顔に熱を感じた。
しかし背後でぼそりと「成績はパッとしないもンネ」とミイ先輩に水を掛けられ、正気に戻る。
鮮やかな鎮火作業だった。
「あ、向こうにはバクがいますよ。モルモットにウサギ、あっちの道にはオウムが止まっています。天国ですかここは」
登り坂を物ともせずに、音沙は解けた表情でぐいぐいと駆けて行く。
その快活さは呆気に取られるほどで、ミイ先輩は「子どもを持ったパパとママの気持ちがよくわかるヨネ」とよくわからない考察をし始めたので、僕は是も否もなく音沙を追った。
驚くべき俊敏さで人混みを抜けていく音沙が、今日日サッカー選手であったならトリックスターの称号は確実だろう。
クマの檻辺りで笑顔を咲かせている白ワンピースを見つけ、僕はようやくその背に追いついた。
「おと、音沙、速いな……」
「すみません、つい興奮しちゃって」
「いや、楽しんでいるなら良かった。音沙は、どうしてそんなに生き物が好きなの?」
「生き物は……心を癒してくれます、落ち着かせてくれます」
その時、少し音沙の視線が下がるのを僕は確認した。
大した問い掛けをした気はなかったのだけれど、先程までの咲く花にも劣らない華やかな笑顔が音沙の表情から失せ、同時に僕の脳内警報が鳴動を始める。
「こちらがどれほど苛まれていても、その表情ひとつ、その所作ひとつで、こちらの気持ちを晴れやかなものにしてくれます。どんなときでも、どんなひとに対しても、寄ってきてその頭を撫でさせてくれます……」
パンドラとして、学生の世俗である学校友人関係から隔絶された音沙、その闇の部分を感じざるを得ない言葉が脈々と紡がれる。
それはある種の独白と呼べるほど、僕の質問に返答しているというよりは、漏れ出す心の内を厳かに吐露しているような雰囲気だった。
音沙にとって、生き物が好きになったというのは、何も幼少に遡ってまでするような話ではなかったのだ。
つい実近、心の傷を処理する為の、ひとつの回避行動として、一種の逃避行動として、音沙は生き物が好きになったのだ。
あらぬところで禁忌の箱を開いてしまった。
冷や汗が噴き出て、気不味さを感じながらも僕の完全停止した思考では打開策が見つからず、口の中がからからに乾いていくのを感じた。
「カガりんの、襲われたときシリーズ、第二弾イエーイ」
そのときだった、あいも変わらずぶっきら棒な表情を満面に貼り付けながら僕達に追いついたミイ先輩は、全く抑揚のない「イエーイ」を呟いた。
絶賛顔面蒼白中だった僕はミイ先輩の意図を汲むのに少し要したものの、イノシシに襲われたときの下りに繋げているのだろうということを理解し、僕はミイ先輩の助け舟に手を掛ける。
襲われたときシリーズ第二弾。
目の前はクマの檻、獰猛なくせに割と臆病な生き物。
動きの鈍った思考を強制回転させ、何かないかと脳みそを揺らす。
「え、ええと、クマと遭遇したら死んだ振りをするというのはNGで、好奇心旺盛なクマは動かなくなった人間も襲ってしまう」
「爪と牙でズタボロ、まさに今のカガりんの心の有り様ダネ」
「うぐっ……、し、しかしクマは後脚より前脚の方が短いから下り坂に弱い」
「しかし下り坂を走って逃げると、野生動物の習性で背を追って襲い掛かってクル。下り坂が苦手とはいえ、時速35km程度で迫り来る軽車両並みの巨体に襲われたら一般人ではまず助からナイ」
「ぐぬぬ……、遭遇してしまったとき一番確実に逃げ切る方法は、目を逸らさずゆっくり後退して距離を取ること。食糧がある場合はそっと置き、大きな動きをせず、万一近付かれても鞄を差し出してクマの注意を削ぎながら離れるのがベスト」
「それでも襲われる場合は運がなかったと思って、カガリんを差し出して逃げましョウ」
「なんのつもりですか?!」
全然助け舟じゃなかった。
むしろ生贄だった。
さっきヒーロー張りに「この命に変えてもカガりんとパンドラちゃんは私が守ってあゲル」とか言ってたのはどこのどいつだ。
僕のトキメキを返せ。
しかしそんなやり取りのお陰なのか、音沙は一瞬ハッとして我に立ち還ったような表情を挟んで後、口元に手を当てて小さく微笑んでいた。
音沙としても、不意に訊かれた質問に返答しただけで、そこに影を落とすのは不本意だったのだろう。
何だかんだ言いながらも、ミイ先輩が出したのは泥舟ではなく、本当に助け舟のようだった。
僕は複雑な感慨を覚えながらも、その場を治めてみせたミイ先輩の技量に感服し、心の中で敬意を込めて感謝を放った。




