第0話:『共感覚ストラテジー』
「言葉は魔法だ」
その言葉を聴いて以来、私は言葉というものが怖くて仕方がない。
魔法というのは、いわゆる摩訶不思議な特別な力。
幸運を呼び寄せる神秘的な力として世間に認知されるそれは、私個人からしてみればその字面から既に物騒だと思う。
”魔”という文字は、魔物だとか悪魔だとか、どうしても、とにかく物々しいイメージしか湧かなかった。
それなのに、そんな物騒なものの法なのだから、良いものなわけがない。
というのが、私が幼い頃に受けた、”魔法”という言葉に対する印象だった。
残念ながらその感覚は見聞の拡がった高校二年生の今でもしっかりと貼り付いていて、どころか、ますますその印象はマイナス方向に飛躍する一方だった。
「それでさぁ、あのセンコーが言うわけよ。お前の頭は節穴かーって」
「きゃはは、なにそれマジウケるんですけど!」
「頭に穴は開いてねーっつーの」
「毛穴は開いてるけどね」
「あいつの場合は、主に頭頂部が洞穴」
「十円洞穴、マジウケる」
「規格的に二千円サイズ」
「きゃはは、高価かよ」
「潔く、全部抜けろし」
鍵の掛かったこの個室、手を洗う流水音と雑な談笑。
壁をひとつ隔てて、聞こえてくる声、言葉。
ああ、嫌だなぁ。
このお手洗いの空気が一刻も早く変わることを必死で願った。
これ以上なにも聞こえないように、耳を塞いで、じっと待った。
これ以上なにも見えないように、目を閉じて、じっと待った。
耳も目も閉ざしているのに、その隙間を這ってくる暗い毒針。
二人が談笑のネタにしている円形脱毛症の先生は、この二人の魔法によって少しずつ苦しみに苛まれていくだろう。
この先何年も掛けて徐々に髪が抜け落ちていくのか、はたまたもっと別の悲しみに遭うのか、それはわからない。
いずれにしても彼は何等かの事象が悲しくて、辛くて、嗚咽の涙を流すことになる。
そして。
そうそして、悲しき教員を笑いのネタにしているこの二人の女子も、同じように涙を流すことになる。
どちらも泣いて、どちらも苦しむ。
私は幼い頃から、ひとの話す言葉を感じ取ることができた。
それは聴覚的に感じることとは別に、その言葉を発した人の声から感じる色合いや温度、言葉自体の見た目や臭い、様々なものを感じた。
それは、いわゆる共感覚という現象だった。
人間は幼い頃に比較的この現象を抱くことが多いようだけど、その共感覚は消失することなく、私は今でもはっきりと感じとっている。
はっきりと感じすぎて、はっきりと解りすぎて、それらがはっきりと形を成すようになってきて、それがはっきりと誰かに与えられる感情の一端なのだと理解するようになった。
全ての言動に対してわかるわけではないけれど、その未来における相手の心情をいくらか理解するようになった。
理解するようになって、理解したことがある。
それがそう。
「言葉は魔法……」
放った言葉は相手に届く。
誰かが誰かに何かを言ったとき、その言葉が持っている色や温度、見た目や臭いは、発した相手へと確かに届くのだ。
面と向かって罵声を飛ばそうが、陰口として遠くで言おうが、見えていないだけのそれらの毒は相手へ確かに届いている。
鋭利な刃物のような悪口の毒針が、放った相手をいとも簡単に貫くのだ。
急所を抉るように、刻むように、擦り下ろすように。
自分の放った言葉によって相手は、知らないうちにズタズタになって、ボロボロになって、コナゴナになる。
私には、粉砕するそれが何なのかはよくわからないけれど、見るも無惨で凄惨で、そして誰にも気付かれない。
そして。
その鋭利な刃物は、天井に向けて放ったダーツのように、放った当人にも還ってくる。
自分の放った言葉によって、自分は、知らないうちにズタズタになって、ボロボロになって、コナゴナになる。
だから、言葉は魔法。
相手に行使すれば、同等の反動が自分にも還ってくる。
やはり魔法なんて、ろくなものじゃない。
私はこれを、周りに伝えた。
幼少の頃は可愛らしい「子どもの戯言」として、少女の頃は不思議な思考を持つ「電波ちゃん」として、今では不審な思考を持つ「サイコさん」として。
結果、そうして扱われている。
私は何度も忠告した、だから何度も虐げられた。
今になって熟考すれば、それは当たり前のこと。
だってこの感覚は、周りの人は全く感じていないのだから。
だってこの感覚は、周りの人は全く理解できないのだから。
それでも私には見えている。
確かに、見えている。
だからもう、何も言わない。
私は、何も語らない。
「…………」
神経を張り巡らせて、壁の向こうに気配がなくなったことを知る。
どうして女子は連れ立ってトイレに行くのだろう、ひとりの女子ながらその思考がよくわからない。
個室の鍵を外して右、左、右。
「…………!」
件の女子二人が、下卑た面持ちでそこに立っていた。
黒い靄みたいなものに包まれて、包まれ過ぎて、私にはいまいち表情が認識できない。
これは彼女達が放った毒の塊。
放って、還った毒の塊。
「お前さ、ずっとトイレで盗み聞きしてたろ」
「良い趣味してるよね、マジウケる」
すごいや、真顔でマジウケてる。
マジウケる。
私は頭を垂れたまま、首を横に振った。
「嘘つけよ、ずっと鍵掛けたまま出てこなかったじゃねーか」
喋っても嘘つき、黙っても嘘つき。
私としてはもうお手上げで。
「はーい、ここにバケツいっぱいの水がありまーっす!」
マジウケる系女子は、手元に清掃用具を構えている。
今から普段お世話になっているおトイレ様の掃除でもするのだろう、実に献身的な子じゃないですか。
言葉の節々に感じる、このどす黒い何かがなければ。
どす黒い、マジ黒い、マジグロい。
「ねぇ~、どうすると思う~?」
知ったことかよ、というか知れたことだよ。
細かい針が毛穴を抜けて私の全身を刺し尽くすような感覚。
これが、この女子二人から私が今まさに受けている魔法。
毒針のように相手の皮膚を侵食し、その毒針が彼女達に還って自身を刺し尽くしていく。
私は絶対、この二人と同じにはならない。
何も感じず、何も思わず、何も語らず、何もしない。
魔法は例外なく、全てに平等。
つまり私がこの二人に対して嫌悪を抱けば、その分だけ自分にも嫌悪の毒針が還ってくるのだ。
向けられる嫌悪事態は別に平気、私は「サイコさん」、もう慣れている。
でも行使したその魔法によって、自分自身が削られる感覚だけは、味わいたくない。
それじゃ、まるで自殺だ。
「…………」
「っち、だんまりかよ」
「待って、この子確かあれじゃなーい?」
「あれ?」
「ほら、三組の無言女」
「ああ、サラサイコ」
「誰それ、マジウケるんですけど」
「サイコちゃん更紗、サラサイコ」
「きゃはは、サラサイコマジサイコー!」
悶絶系女子は品のない笑い方で、手持ちの水分を小刻みにこぼす。
たぶん二対一のこの状況、ある意味で悶絶系女子は私なのだろうけれど。
マジサイコー。
親御さんに見せてあげたい、あなた方の娘さん、こんなに大きく育ってますよ。
「まー、じゃ、いいか別に」
「そーよそーよ、よそーよそー」
「止そうか、水ぶっかけ」
「ぶっかけウォーター、マジウケる」
「こいつがなに喋っても、誰も信じないって噂だしな」
「そもそも喋んないじゃーん。この子のオナ中に聴いた話だけどさ、中学三年生から喋ってるところ見たことないって」
「逆にすげーな、高二になってこれまでの三年間、声発しないとか」
「妖精の世界が見えるみたいで、その話を周りにしたらドン引きされて、そっから無言女。なにやら妖精さんと交信して、周りに呪いをまいてるんだってさ~」
「そこまでいくと可哀想になってくるな、高校生になっても噂話の独り歩きでサイコちゃん扱いかよ」
「マジウケるよね~」
そんな話になっているんだ、ほんとほんと、マジウケる。
でも正直ほっとした、これから下校時間とはいえ水なんて掛けられたらたまったものじゃない。
私は安堵して、視線を仰いだ。
その時だった。
「ああっと、手が滑った~」
マジウケる系女子はいつの間にか、側面に「3リットル」と書いてある青バケツを中空に放っていた。
スローモーションのように舞う水入りバケツが、緩やかに、そして鮮やかに放物線の頂点へと達する。
結構重いよなぁとか、豪肩だなぁとか、そういうことを抜きにして、走馬燈を眺めながら私は思った。
あぁ、そうだ、昨日の晩ご飯はハンバーグだったなぁ。