裏方に徹するには奉仕精神と評価してくれる人が必要だ
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ミジュランと名乗った自称父親は、身なりがきちんとした男性だった。ここの生活水準がどのレベルなのかはわからないが、いい服を着てそう。しかし服の上からでもわかる鍛えられた体、武骨な手。ミジュランは目を覚ましたアザミの頬を優しくなでて、一度ゆりかごの中に入れられた。
かすかに揺れるゆりかごに、手触りの良い布に沈むと海で揺蕩っているようだ。時折ぱちりとはじける音は、薪の、暖炉の音だろうか。たくさん寝たから眠くはない。むしろお腹が減った。お父さん、ご飯ください。これは泣かなければいけないのか、泣いたら絶対体力使うよ。
「アザミ、お前に告げなくてはならないことがある。ハイレッティンの名を背負うからには、バルバロスの未来を担うのと同じこと。心して聞いてくれ」
いや、ご飯をください。
「バルバロス国が建国した当初から、ハイレッティンはバルバロス王家とともにあった。ハイレッティンの初代当主はバルバロス初代国王の兄である」
お父さん(仮)は再び自分を抱きあげると、一冊の本を開いて説明しだした。生まれたての赤ん坊に説明してわかると思っているんだろうか。しかし、ここがバルバロス国だということはわかった。ハイレッティンがお父さん(仮)の家の名前だろう。バルバロス初代国王は女王と言っていないから多分男、つまりハイレッティン初代当主の弟になるはず。年功序列とかはないのだろうか。源氏物語でもあったが、跡目争いを避けるための臣籍降下というものだろうか。
「初代バルバロス国王の名をロードスという。そしてハイレッティン初代当主の名をレバンド。二人はもともと傭兵だった。まだ国という概念もなく、戦に明け暮れていた時代に、太平の世を試みて立ち上がった。」
お父さん(仮)はバルバロスとハイレッティンの系図を指さす。文字は読めないが線で結ばれているから、二人の名前が書かれているのだろう。傭兵だった二人は戦国武将のように立ち上がったらしい。素晴らしいリーダー力とカリスマ性だ。これらはいつでもどこでも必要とさせる能力らしい。
「ロードスは戦上手の策士であった。しかしそれは兄のレバンドの協力があってのこと。戦は情報が命。情報を掴み、偽の情報を掴ませ、暴き、陥れる。レバンドは戦乱の世を駆け巡り、密偵という裏方でロードスを支えたのだ」
レバンドは影が薄かったのか、それとも特徴のない顔をしていたのだろうか。スパイ、密偵、隠密、いろいろあるが裏方の仕事だが、レバンドはそれに徹したのだろう。なんと素晴らしい奉仕精神。王族の親族に当たるわけだから、建国後はそれなりにいい暮らしをして、今に至るのだろう。
「建国後、ロードスは王となった。しかし変化には混乱がつきもの。やっと手に入れた太平を儚きたった一瞬の夢にしてしまわぬよう、レバンドは王族に名を連ねず、ハイレッティンという名を新たに、弟に仕えたのだ」
つまり、バルバロスとハイレッティンは表向きには建国当初からある由緒正しい信頼のおける一族という位置にいるのだろうか。
「バルバロス建国は、ロードスとレバンドのバルバロス兄弟によってなされたが、世間はロードスしか見えていなかった。それに心を痛めたロードスは何よりも信頼のおける兄にわが子を託した。レバンドもロードスの心を受け止め、立派にその子を育てた。この時から、バルバロス王家はハイレッティンにわが子を託すという伝統が生まれた」
レバンドすごいな。つまり建国という偉業を成し遂げたにもかかわらず、目立たない裏方役で忘れられちゃったってことだよね。自分なら悔しくて謀反を起こすかもしれない。謀反を起こさずに、国に、弟に仕え続けたってことは、よほど平和に恋い焦がれていたのかもしれない。ロードスもロードスだな、わが子を託すって…。産んだのはロードスじゃなくて奥さんでしょう。おなかを痛めて生んだ子どもを、信頼、国政のためとはいえ手放さなくてはいけないだなんて。ハイレッティンってバルバロスの母親から恨まれているんじゃないだろうか。本当に恨まれるのは母親から子どもを取り上げる伝統を作った国王かもしれない。……ん?
「アザミよ、お前はバルバロス王家の血を引くもの。現国王の長女だった。しかし今はハイレッティンに名を連ね、バルバロスを裏方から支えていく。ハイレッティンは王家の目であり、不正や罪を暴く。もちろん時には敵国にも侵入して情報を掴む。鷹のごとく飛び回り、世界中から情報を集めるのだ」
ミジュランはそういうと、本を片付けた。表向き血縁関係がないバルバロスとハイレッティンの関係を示すこの本は、バルバロス国の機密に値する。隠密の顔や家がばれてしまっては、隠密にならないからだ。
「アザミよ、ハイレッティンは鷹の目と呼ばれる。お前はまだ小鳥だ。成長を楽しみにしているぞ」
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お父さん(仮)は本当のお父さんじゃなくて、義理のお父さんらしい。しかし形式上では自分のお父さんはこのお父さんになるわけで、やばいお父さんがゲシュタルト崩壊している。しかも評価されない裏方かわいそうとか思っていたら、自分はその渦中のど真ん中にいるんですけど―――!
お父さん(仮)はお父さんらしい。自分はバルバロス現国王の血を引いているらしいが、臣籍降下してハイレッティンになったのだろう。なるほど、理解した。なかなかハードな設定だ。つらいぞ。密偵になる人生レールがすでに敷かれている。自分の将来の夢とか持てないアレだよ。
確かに前世とは違って、稼業継ぐなら就活遭難しなくていいし、逆に将来の夢が持てなくて、アイデンティティを探す旅に出る必要もない。裏方だけど、大切な仕事だっていうのはわかる。政治とは距離が近いわけではなかった前世では、帰属意識やコミュニティがとても希薄だった。国のために死ぬなんて世界大戦のようだけれど、人生をかけられるくらい、自分を必要とされているという感じは悪くない。むしろ、自分にとっては、いい。
それに生みの親を覚えていないし、生みの親より育ての親のほうが重要だと思う。言わせてもらえるなら、前世の両親のほうが大切だ。もう手は届かないけれど。犯罪神やら自分を殺した女を探すなら王族より密偵のほうがいろいろいいんじゃないだろうか。考えてみれば悪いことなんてそんなにないんじゃないだろうか。密偵になるためのスキル習得とかは難しそうだけど。
ここで疑問なのは、お父さんの奥さん、つまり自分にとって母になる人は、他人の自分を受け入れてくれるだろうか。兄弟がたくさんいるって言っていたけど、自分以外にも臣籍降下した人が身近にいるのだろうか。もともとバルバロスとハイレッティンは血縁関係にあるから、容姿が似ていない、なんてこともそんなになさそう。
嗚呼、生まれる前から人生に殺しという目的を持ち、生まれてからは人生のレールが敷かれた。敷かれたレールを歩くなんて、前世なら「自分らしく生きたい」なんて言ったり、「自分らしさ」という空虚な像を探しに留学した。でも、生きる目的を明確の持てるこの安心感は何だろうか。安全で先進国の日本で生まれ、比較的裕福な家庭で生まれ育ったとき、目的がなくても生きていける環境に意味を見出すのが難しかった。自分の生きる道がわかると、不安もない。与えられたものを享受し続けるだけならば、指示待ち人間しかできないとよく言われたが、目的が分かれば何をすればいいか逆算もできる。レールの上でもいい、自分が生きられるなら。幸せに生きていけるなら。
さてはて、生まれて早々赤ん坊にはつらい脳労働をさせられて身体が糖分を欲している。エネルギーを欲している。無理だ、泣こう。
「ほえぇえええぇぇん…」
なんとも弱弱しい鳴き声だった。
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まだ理解できないだろうが、アザミにハイレッティンの生い立ちを言い聞かせた。アザミは泣かずに、また眠りもせずにミジュランの目を見て、話を聞いていた。まるですべてを理解したかのように見えた。小鳥の成長を楽しみにしていると言葉を締めくくれば、アザミは頭をかすかに振って、泣き出した。
「なぬっ」
これは嫌ということなのか。突如泣き出したアザミにどうすればとおろおろする。ほかの赤子と違い、全く泣かず静かだったから、急に泣かれると困る。あやすように体をゆすっても、泣き止まない。弱弱しい鳴き声にどうしたものかと途方に暮れていると、ノックもなく妻が部屋に入ってきた。
「ミジュラン、いつまで私の娘を独占しているの。ほら」
ほらと言いながら、渡す前に妻に奪い取られた。妻は慣れた様子であやし始めるが、やはり泣き止まない。すると妻は指でアザミの唇をつつくと、アザミを泣くのをやめて、ちゅぅと指に吸い付いた。
「ミジュラン、この子おなか減っているのよ、母乳をあげなくちゃ」
人は食べ物、環境によって創られる。そこに最も馴染むためには初めが重要なのだ。託された赤子はハイレッティンの食べ物で生きていく。母乳でさえ。バルバロスの現王妃は赤子に自分の母乳を与えることもなく、子どもを手放し、無念であろう。
「生まれてから何も食べてないから、そんなに弱弱しいのか。すまなかった…」
「なんですって?!ミジュラン、あなたの話よりご飯のほうが大事に決まってるでしょう。虐待よ。ご飯を与えてくれない両親と思われるのよ、二度としないで」
妻はカッと目を見開き、般若のような顔で言った。そしてころりと表情を変えて、アザミにやさしく「さぁお母さんと一緒にご飯を食べましょうねぇ」と言って、さっさと部屋から出ていった。ミジュランは虐待という言葉に少々傷つきつつ、妻の後を追って、同じく部屋から出ていった。