プロローグ
前作を編集中。
*
自分の自我が明確に芽生えたときのことを覚えているだろうか。過去を振り返ると思い出したくないことばかり、自分の醜さが際立ったことばかりが浮き彫りになる。人はそれをコンプレックスという。負い目とも言えるだろう。誰かに嫉妬した記憶、嘘をついた記憶、馬鹿な発言をした記憶。自我が確立する前は、それが顕著に自身の態度や発言に現れていたと思う。
嫌われたくない、軽蔑されたくない、好かれたい。対人関係の荒波にもまれながら、このような想いが生まれた。これを醜いというのだろうか。これを願うのはもう一人の自分。自分の存在を認められるようになったのも、自分を抱きしめるようになったのも、本当につい最近だったと思う。
年を取るたび、学年が上がるたび、その節目に変わろうと努力するが、何も変わらないままここまで来た。変わらない自分に絶望しつつ、まあいいかと生きてきた。何度も同じ後悔をすると、あるとき気づく。どんな環境になっても変わらない自分の一部が、自分というものなんだと。これを嫌いでいるか、好きでいるかはわからない。
自分の存在を本当に知りたいとき、それは自分の葬式に出ることだ。実際そんなことは無理である。恋人が本当に好きでいるか、友人は自分のことを面倒だと思っていなかったか、両親は自分を金のかかるやつだと思っていなかったか……俺はわからない。死んだら終わり。幽霊になって自分の葬式を眺める暇もないということを知った。
まもなく、大学卒業を控えていた。四年間はあっという間だった。やりたいことはたくさんやった。親に何度も甘え、これからやっと、それを報いる何かができると信じていた。もうすぐ始まる新生活にいつものように胸を膨らましていたこのとき、自分は幸せだった。――そう、幸せ『だった』。
人は死ぬ直前、虫の知らせとか予感というものを感じると本で登場するが、自分にはそれがなかった。
恋人と腕を組んで、寒くて縮こまるように体を密着させながら、街中を闊歩していた。手はポケットに収まり、目は街並みを、耳は恋人の声をとらえていた。卒業後の家は決めたか、引っ越し業者はどこにしたとか、ありきたりなことばかり。そのとき前から一人の女が走ってきた。寒いのにコートは着ていない。つばのある帽子を目深くかぶっていた。何年もかけて伸ばしたであろう髪は風になびかれている。
あきらかにおかしい。でも誰もが女を素通りしている。関係ないから。恋人は不思議そうに女を見ながら、「寒くないのかな?あ、走っているからかな?」とつぶやいた。その空間で初めてつぶやかれた女への感想だったのか、恋人のつぶやきに引き寄せられたように、女はこちらへ向かってきた。上手に人を避けるのを視界に収めつつ、信号を見上げた。
そのとき、女が胸に飛び込み、ぶつかった。「すみません」と女がつぶやき、すぐさま走り去ったが、自分は膝から崩れ落ちていた。恋人が目を見開いて、口を金魚みたいにパクパクさせながら、かすれた声を上げた。
アツいイタいサムい。ああ、なんでだ?原因を探るべく目を落とすと、ナイフが突き刺さっていた。
「…え?」
恋人が悲鳴を上げている。でも自分の意識はそのままブラックアウトした。
……いや、死んだんだ。
*
目を覚ますとそこは、…というのは、なんの本の一節だったか。自分の場合、図書館だった。塔の中だろうか、丸い部屋の壁一面に本が所せましに収められている。ふと顔を上げると一冊の、薄っぺらい本が降ってきた。避ける暇もなく顔にたたきつけられた。
「ぶへっ」
一番衝撃を受けたであろう鼻をさすりながら表紙を見る。
『東雲 椿の一生』
自分の名前が書かれている。あれ、いつ伝記なんて書いたっけ?表紙を一枚めくれば、自分が生まれた生年月日や時間、土地、家族などが事細かに書かれている。それから写真も。ページをめくる。初めていった言葉、好きな食べ物、嫌いな食べ物、初恋のこと、初めてついた嘘このこと。得意な科目、嫉妬した友人のこと、意地悪をしたこと。…個人情報保護法が機能していない。まず、自分が知らないこと、忘れたことさえ書かれている。ナニコレ。
最後のページには死亡した日時と時間。原因、包丁で刺殺。
「え、死んだの」
確かに刺された。…誰に?なんで??え?どうして?
「あー、現在調査を進めていますガ、犯罪神と対象者による犯行デス。一応極秘なので口外しないでくださいネ。あなたに言うのは、聞く権利が一応あるからでデス」
「だれ?」
本から顔を上げると、すぐそばに顔があった。近すぎて見えない。驚きで硬直した上半身を動かし、距離をとる。ペンギンがいた。
「…ペペペペペペペンギン!?」
「そうです。penguinデス」
ペンギンは服を着ていた。蝶ネクタイをしてタキシードを着ていた。えぇ…?かわいいんですけど。
「東雲椿サン、あなたはお亡くなりになりマシタ。お悔やみ申し上げマス」
ペンギンはこちらをまっすぐ見つめながら淡々とつぶやく。ペンギンの表情はわかりにくく、ふざけていっているのかさえ分からない。ありがとうございますとお礼を言うべきかさえ分からない。ペンギンはこちらの反応は全くどうでもいいようで、マニュアルのごとく説明を続けた。
「病死や寿命の場合、このような場を設けることはありまセン。普通は検閲門で書類審査した後、紅蓮の池か白蓮の池にいきマス」
ペンギンは分厚い辞書のようなものを渡してきた。p.1956をひらかれる。そこにはどのような死に方、生き方をした場合、どこに連れていかれるのか、細かく分類されていた。あの世のガイドブックというやつか。現代日本はマニュアル化が進んでいるが、あの世もマニュアル化が進んでいるとは知らなかった。
「ここは保管庫デス」
「ここには…保管庫行の事例は書いてないけど…?」
死んだ、らしい。実感はないけれど、刺されたことはなんとなく覚えている。他殺され、未練がある人は…風鈴の間らしい。自分はこれに該当しないのか。それとも未練がないとでも?…雨宿りの丘…に該当するのか。
「そうなんデス。他殺ですが、先ほども述べたように犯罪神が関わってマス。今までにない事例なので、次回からは対応しマス」
「はぁ……はぁ?」
自分は初めてのケースらしい。Quesion1、犯罪神とは?Quesion2、なぜ?これがすぐさま浮かんだが、同時にこみあげてくるものは、怒りだった。
「まだ、わたしは…死ななかったの?」
「そうですネ、犯罪神が関与しなければ、まだまだ先だったデス」
ガイドブックを閉じると、ペンギンに向かってそれを投げつけた。
「ぐふぅっ!」
分厚いガイドブックはペンギンの腹にめり込む。身体を器用にかがめながら、ペンギンは悶え、こちらをにらんできた。今の表情は自分と同じく怒っていることが見て取れる。
「こっちに八つ当たりしないでクダサイ!」
「誰にすればいいんだよ!八つ当たりじゃない!正当な怒りだよ!!」
ガイドブックよりはるかに薄っぺらい自分の人生が綴られた本をたたきながら訴える。自分の人生が希薄なものだと見せつけられたような気分だ。今まで努力とかいろいろしてきたけれど、まるで取るに足らない些細な出来事だというかのように。勝手に涙があふれてきた。視界がにじむ。
「これから説明するから暴力反対デス!訴えますヨ!」
どこにだよ。自分にも訴える権利があるはずだ。しかし何もわかっていないから、とりあえず黙った。嗚咽をこぼさないよう、唇をかみしめながら。
*
あの世のガイドブックp.3004 犯罪神
ほかの神を消滅させること、これをおこなったものは消滅させるとする。
時間、時空に干渉すること、これをおこなったものは消滅させるとする。
…etc.
一神につき、一つの世界がある。自分が作った世界だったり、受け継いだ世界だったり、多種多様な世界である。神は創造し、見守ることが役目である。
あるとき、一神が消滅させられた。その神の世界を横取りし、干渉した神は人間に取り入り、また別の世界に干渉した。その神、犯罪神は四回の罪を犯した。
「それが東雲椿さんの世界の神デス」
つまり、犯罪神が自分の世界の神様を殺して、世界に干渉して、自分を刺した女を取り入って、また別の世界に干渉したということだろう。
「東雲椿さんを殺害した女ハ、犯罪神とともに別の世界に飛びましタ。現在追跡中ですガ、神は世界に干渉できないタメ、どのように対応するカ、神界で神様が会議中デス」
「説明を聞いたうえで、怒りが収まらない場合、暴力行使はいいよね?」
「よくありまセン!」
ふざけるなとこぶしを握り締めた瞬間、自分の上にまた何かが降ってきた。今度は本より大きいし、重い。
「ちょりーす!」
「ぐはっ!」
ウサギが降ってきた。赤い目に、首には赤いリボンとシルクハット。毛が黒いため、目とリボン以外は真っ黒で毛玉のようだった。ウサギもかわいいけど、見た目に反して態度が軽い。
「会議の結論が出ましたー!本人の意思確認をしたうえで、Yesならこれらの書類に記入してもらってくださーい!」
これらの書類って?何も持ってないウサギを見て首をかしげると、ペンギンの上に大量の書類が降ってきた。フギャーー!と悲鳴をあげながら書類をキャッチするペンギン。それを横目で抑えつつ、ウサギは自分にこう聞いた。
「犯罪神を殺すのを手伝ってくれるなら、今すぐ転生できますよー!」
「…え?」
死んでから心が休まるどころか、驚きでもう一回心臓が止まりそう。
ウサギはp.3004を見せながら、説明をする。曰く、犯罪神を捕まえて殺さなくちゃいけないのは絶対だが、捕まえるために世界に干渉してしまえば元の子もない。世界に干渉できるのは、その世界に生きている生き物のみ。それなら東雲椿を転生させちゃう?それしかないよね?そうしよう!…ということらしい。
「待って、Noの場合は?」
「Yesの場合しか聞いてませーん!」と無邪気に笑うウサギに殺意が芽生えた。
「神がどんな形でアレ、世界に干渉するト、世界の崩壊を招きますかラ、当たり前の結論ともいえますケドネー、神界は手駒が少ないんですヨ。妥協してくだサイ」
はぁーやれやれまったくと書類の角をそろえるペンギンにも殺意が芽生える。死ぬ原因にも殺意が芽生えるけれど。
「……いやいやいや!未練があるわたしに、すぐさま生まれ変われって!おかしい!死人にやさしくないよ!」
するとウサギは不思議そうに首を傾げた。ペンギンに比べて表情が豊かだ。
「どうしてー?東雲椿、君はやられっぱなしじゃ我慢できないでしょ?残された世界を見てうじうじするくらいなら、転生したほうがいいよー?」
確かに、それは世界に干渉できるのは生きた生き物だけと言っていた。でも、それを選択して、後悔も自分でするべきことである。少なくともほかのだれかに強制されるものではないはずだ。
「じゃー脅しますねー!」
「笑顔でいう事じゃないよね?それ」
「東雲椿の元の世界の継承神がいなくなりまーす!」
「…それってどういう事態になるんだ?」
ウサギはガイドブックp.2458をひらくと、放置された世界について説明した。世界が放置される理由はいくつかあるが、そのうちの一つが、継承という名の中古の世界が嫌な場合。その世界は神の加護が無くなって、衰退しつづける。
「消滅はしませんけど、なんていうかー、その世界のラッキー運がひたすら低下し続ける?事態でーす!」
暗に残された家族や友人たちを人質に取られている…気がする。選択肢はなくなった。ペンギンは、話はまとまったといわんばかりに、大量の書類を差し出してきた。大量の書類を片付けたあと、転生したわけだが、疲労で何も覚えていなかった。
いないことを願うが、次に転生する人に伝えたい。転生は希望してするもんじゃない、脅されてするもんだ。裏がある。気をつけろ、と。