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裸足の女

作者: 大庭言葉

 私の白昼夢が俄かにほつれた。

 澱んだ目に映る景観は霞んでいたせいで、煌々たる夕陽でさえも煩わしい程に朧げなものとして映った。目下に映る貴方でさえも霞んで見えることが、私にとってどれだけ悲痛なことか。


 貴方との邂逅はもう三年も前の噺になる。私の靴屋に貴方が出向いた日は、大降りの雨が降り注ぐ、鬱々たる日であった。入店して来た貴方は傘も差さずに闊歩で店の中へと歩を進めた。あの時の貴方の顔を私は今でも忘れない。心理の或る廉潔とした憤怒な、あの表情を。嘗ての私は貴方の表情に一瞥をやり俯いた儘、作業をしている風を装っていたはずだ。それは何故か。簡単な噺である。貴方を知り尽くした今も尚、いつかの貴方の顔を直視することはできないのだから。

 そのときの貴方は私に歩み寄り、目に角を立てて凝視し声を上げた。

「何を愚かな商いを続けている。辞めてしまえ」

 貴方の凛々しい顔立ちから、語勢の強い罵詈が洩れたことが衝撃的な殊で、受け流して作業の手を進めようと試みようものならば、貴方は再び同じ言葉を反復させてきたものだから私は困惑した。しかし何より生涯の汗水を注いだ靴の仕事を見縊られたことが、非常に悔しい噺で、机を拳で殴り、私は憤激した。己を省みずに。

「出し抜けに何を言う。人の歩む道を支える為に作った靴を貴方が罵る権利などない」

 眉を顰めて私が言い放つと、貴方は私の想定の範囲を見事に逸した。貴方は徐に作業台に足を上げてきたのだ。私はその足を見て愕然とした。その足には靴どころか、履き物さえも身に着けていなかったのだから。

「……それでは足が痛むぞ」

 私の中で鬱積する憤懣を抑制して、貴方を気遣って謂った。にも関わらず、貴方は私の軟い心へ弾き返すかの如く、罵詈雑言を口にした。

「そのような愚かな物など履かぬ。そのような物のせいで人は本来の美しさを損なっているではないか。面白くない。人間の妖艶さを破るのがお前の仕事であるか」

 私の心は深く傷ついた。しかし貴方の眦の真紅が朗らかである故に、口から零れる罵詈の数々も、私には悲哀と凄愴に満つ心持ちとしか解釈できず、哀憐な石女だな、と勝手な認識をしてしまった。

 しかし私は靴を蔑む人間を正してやらないと、腹の虫が治まらない故、誓約を交わした。

「あと三週間だけ待っていなさい。私が人間の美徳を損なわぬ靴を作ってやる。貴方に似合う靴を、私が作ろう。以後に履こうが否かは自由だが、一度は履くことを誓え」

 私は微々たる抗いとして語調を強める他無かった。案の定、この抗いの効果は少なからず有ったようで、貴方は不貞腐れた表情をして店を出て行った。

 私は手にしていた作業中の靴を投げ捨てて、新たなる靴を作るべく、生地を鋏で裁った。


 *


 三週間という月日の経過の早さに私は愕然とした。作ることを怠ることは無かったのだが、約束の日の朝、未だ靴は完成していなかった。と謂うのも、貴方の謂う人の美徳を損なう靴、という意味が今一、私には理解できず苦悩した挙句、無駄な時間を浪費するという無様な結果に至ってしまったわけだ。だが生地も凝り、繊細な作りを施して、私は貴方が想う美徳を損なわぬ靴、というものを自分で思い浮かべながら、理想へ極限まで近づけた。

 時針が午後の一の目盛りを過ぎ去る頃であった。裸足の貴方は私の店に颯爽と現れた。この日の天候は穏やか故に、悴んだ、見るに耐えがたかったあの日の裸足も、今日は些か見易いものではあった。だが、靴を無くして人間の美貌に磨きを掛けることは不可能である。美しい風体を持つ彼女であるのだから、私は心底より彼女が靴を履くことを望んだ。

「靴を見せて頂戴」

 貴方は相変わらず無慈悲な面持ちと無頓着な語調で私に言い放った。そのような貴方を私はあっと驚かせたく、ついつい誇らしげな微笑を洩らしてしまっていたようだ。私は少し勿体ぶる様な素振りを見せて、君の表情を見詰め乍ら謂った。

「そう焦るな。用意はできている」

 私はそう豪語し、靴を作業台の下から取り出し、貴方の目下に置いた。私はあのときの貴方の表情の変貌を憶えている。眼の色が変わる、というのはこういうことであるのか、と実感した瞬間のことでもあったから。

 私は貴方の二の句が待ち遠しかった。貴方が舌を巻いて言葉を濁す光景が、直ぐ傍まで見えていた。刹那、貴方は小さく口を開けて言った。

「やはり解らないのね。非常に残念だわ」

 彼女の澱んだ目が、私の心に鋭利な矢となって突き刺さった。斜陽が店に並ぶ靴等に投じ、私はそれらが焦げそうで畏怖した。

「……何故だ。私には解らない。貴方の謂う美徳の欠損というものが。裸足よりも靴を履く女の方がよっぽど美しいとは想わないか」

 彼女の返答は即答であった。

「全く」

 私は愕然とした。其処にいた私には焦燥も憤怒も、微塵たりとも存在しなかった。ただ貴方が想う美徳の欠損を繕える靴を作れなかったことへの非力さを痛感しているのだ。徐に私は溜息をついた。刹那であった。その溜息が貴方の溜息と重なったのだ。

 私と貴方の目と目が合ったとき、貴方は顔を火照らして俯いたのを未だに覚えている。このとき私は想ったのだ。誰より憐れんでいるのは貴方であると。

 私は貴方の哀憐な面持ちを瞥見して誓約した。

「貴方の望む靴を作る」


 *


 あの日から今日までの月日、それは非常に長く苦しい日々であった。昨晩の雨脚は店の前に藹々と生い茂る雑草を白く染めた。打って変わって今日の天候はからっと晴れていて、密林や渓谷の秋がいっそうに美しくなるだろう、と穏やかな虚像を想起しながらも、私は息を乱しながら、貴方の為に作った靴を包装した。

 何故に急いでいるか、それは私にも解らぬ話ではあったが、彼女の想う靴がこれ以外に思いつかない、という領域の物を仕上げることができた故に、私は先程から店内を嬉々と駈け回っている。


 包装を終えた。私は充実感に満ちていたが、もう随分と疲れ切っていたような感覚に襲われた。作業台の上に載っている手鏡に映る自分の目は、朧げなで澱んでいるよう。手やら足やら、私の神経は鈍り始めて麻痺して来た。最期の一仕事、私はそう呟いて上着を纏い店を出た。貴方が何処にいるか当ては無いが、裸足の貴方が行く場所くらい、大凡の見当はつく。


 海の磯に鏤められた紅葉は波に流され、海の向こう側の何処かまで流されて虚無になるのではなかろうか、と幻想的なことを考えていた。その海の瑠璃色に浮かぶ一つの白色。裸足の貴方であった。

 私は覚束ない足取りで君の処まで歩を進める。

「やっぱり遅かったか……」

 彼女は眼を瞑り、海砂を髪に伴わせて、とても美しい顔で眠っている。

 私は彼女が来店したあの日を追憶した。


 *


 私の追憶の白昼夢が俄かにほつれた。

 澱んだ目に映る景観は霞んでいたせいで、煌々たる夕陽でさえも煩わしい程に朧げなものとして映った。目下に映る貴方でさえも霞んで見えることが、私にとってどれだけ悲痛なことか。

 だが、貴方は最期まで美しかったよ。私は手にしていた箱を自らの手で開けた。その中には何も無い。

「手抜きではない。私が作ったのはこういう物さ」

 貴方の頬に私の落涙が滴る。それを私の袂で拭い、私は小さな声で言った。それは波打つ音に吞み込まれそうだったが、おそらく私と貴方の間では秋の底を揺らすほどに残響したはずだ。

「もう疲れたよ。また何処かで逢える日を楽しみに待ってるよ」

 立ち上がった私は海の向こうへと歩を進めた。

著作権上に問題は一切ありません

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― 新着の感想 ―
[良い点] 靴とは何?を一番に考えながら読みました。読み進めて行くと、恐らくハッピーエンドであろう事はわかったので良かったです。また、途中途中で垣間見る創る立場の苦しみと、それを待つ立場のもどかしさも…
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