〈下〉
部屋にはまだ柑橘系の匂いが残っていた。彼女のジャケットの匂い。僕はタンスの上にあるテレビのリモコンをとってテレビをつけようとする。でもテレビの主電源そのものが切れてるからリモコンでつくはずない。僕はいらついて、リモコンを布団に向かって投げた。リモコンはたまに役に立たなくて、だからたまに捨てたくなる。リモコンはさっき捨てた携帯とぶつかって予想外の打撃音を鳴らした。僕は慌てて携帯を拾った。
結局、彼女は僕の家に何しにきたのだろう。いや、僕が誘ったんだけど。断ってくれてもよかったのに、なんて強がりを思いながら携帯を開いた。
メール受信のアイコンは画面に表示されていない。もうこの携帯の意味がどれにあるか分からなくなった。携帯を布団の上に投げる。
僕はもののけ姫を見ることにした。テレビを付ける。音を先に鳴らして、時間差で徐々に映像を映していった。ゴスペルの洋楽に合わせて踊るシスターの映像が映ってきた。
僕は入力切替ボタンを押す。黄緑色の字で画面の右上に外部入力と表示される。もののけ姫のDVDをセットする。
あとは自動再生を待つだけ。待つ時間がくる。そんなに長くない時間。僕は何も考えることができない。ただ待つだけの三十二秒。
いつもと同じ始まり。何回も見たジブリのトトロマーク。いつもと違うわけがないんだけど。一階の音はもう、全く聞こえない。やっぱり母親と妹は寝てしまったのだろうか。父親はまだ帰ってきてないというのに。
祟り神という名前のイノシシが主人公の男に襲い掛かっている。頭の中の雑念は主人公がイノシシに矢を射るたびに段々と振り払われていく。集中力が増していく。やはりアニメはいい。家族のことも、金のことも、彼女のことも、新学期のことも、あの人のことも、約二時間のあいだは麻酔がかかったように薄れていくだろう。
しかし、何度も見たことあるというのはだいぶマイナスらしい。麻酔の効きが今までより悪い。思考が落ち着かない。布団の上にある携帯を拾って画面を見る。嘘みたいに何にも表示されない。多分嘘なんだろう、僕はセンター問い合わせをしてみる。けど何にも受信できなくて虚しくなった。携帯を投げる。リモコンをかわして、少し手前に。
ぼうっとしていた。『もののけ姫』は話をそつがなく進んでいくが、僕の集中はすでに絶望的になっている。いつの間にか物語は中盤を少し過ぎた辺り、『もののけ姫』のキーパーソンである獅子神様が登場する場面に差し掛かった。
画面いっぱいに獅子神様の姿が映る。テレビの中から獅子神様がこっちを見ている。マントヒヒのような彩色の顔に、横に長く伸びる耳に、人間よりも人間らしい優しく大きな瞳に、それらを全て包み込む膨大な量の上質そうな体毛。四足歩行の気味が悪い生き物はその気味の悪ささえ神々しさを感じさせる、見事な造形動物だ。彼(彼女)が息を吹き掛けると草が枯れ、彼(彼女)が歩くと、踏み締めた部分の植物が数秒で生を真っ当し、花は一瞬で咲いて一瞬で散り、死を迎える。獅子神様はその身体に生き死にに干渉する力を宿らせているらしい。まさに神秘の塊のような生き物だ。
僕はこの獅子神様の、少し先の未来を知っている。人間に銃で撃たれて首をもぎ取られるんだ。もうそのシーンを何度も見たことがある、しかも繰り返し繰り返し。獅子神様ですら僕は何度も見ることができる。どうせ髭の豊かなおじいちゃんが作ったただのアニメーションで、映像媒体はDVDで、ハードウェアはDVDプレイヤーではなく何年か前に買ったPlayStation2。捉え方次第で『もののけ姫』はえらく無味乾燥なイメージになる。実際、何故かそんなことを考えてしまって、僕は携帯を拾ってまたセンター問い合わせをする。
メールは来てない。嘘でもいいからメールが来てほしい。だって今日はエイプリルフールなんだ。僕は今、死にたいくらいに不幸になってる。死にたいってのは嘘だけど。今日はエイプリルフールなんだ。
好きな人からメールが来ないからという下らない理由で狂っている、っていう振りをする。僕は僕を使ってふざけている。
何も知らされない。胸の上で獅子神様がダンスのステップを踏んでるんだ。色んな気持ちが生まれて、一瞬で萎えていくみたい。
携帯の電池が四から三になった。
もうメールは諦めることにした。
それはたぶん嘘じゃない。
友達から「おれ、彼女にフラれたんだ」とメールが来て、なぜか嬉しくなってしまいました。本当は慰めなきゃいけないのに。
しかし数分後に「ごめん、嘘、今日はエイプリルフールだから」というメールが来て、僕は本気で怒り狂ってしまいました。軽い冗談を受け流すことも出来ずに。
そんなやる瀬ない気持ちを鎮めるために書きました。
友達にメールを返さずに、周辺がエイプリルフールを忘れる時期になりました。
友達にメールを返そうかどうか今になって迷ってます。
「今さらだけど、一本とられたぜ」とか言っときましょうかね。
とにかくここまで読んでくれた人、そんな人がいるなら、本当にありがとう。